愛を捧げに
「君を迎えに来た」
黒いコートの青年は、そう言って寝台の上の少女に微笑む。曇天のような髪を少し夜風に揺らし、青年は少女の小さな手をとった。病気がちで部屋の外にもなかなか出られないその少女の名は、ニルチェニアという。
「そう、……そうなのね。もう少し、長くいられると思っていたのだけど」
どこか諦めたように笑いながら、寝台の上の少女は黒いコートの青年に微笑む。少女の真っ白な髪が月光を受けて、ほろほろと仄かに煌めいていた。そんな少女を迎えに来た青年の名は、アルリツィシスという。冥府の渡し守であり、死に行くものの魂を黄泉へと送り届ける精霊だった。
この日をずっと待っていたんだ、と精霊の青年は静かに口にする。
病弱な少女は、それを聞いて小さく微笑む。
──月の綺麗な、夜だった。
***
ニルチェニアの前に小さな白い靴が差し出された。サテン生地のような、光沢のある布で作られているらしいその靴は、ニルチェニアが憧れていた靴にそっくりだ。すこし踵が上がっていて、足首を巻くように細い紐がついている。きれい、と微笑んで「さわってみても良いかしら」とニルチェニアは靴を差し出した青年に首を傾ぐ。もちろん、と優しい声が返された。
「雪みたいに白いのに、全然冷たくないの。触ってみても、するすると指が滑って。これが靴なのね……」
「履いてみるか」
寝台に腰かけている少女の足元に身を屈めた青年に、そんな、と少女は驚いた声をあげた。
「だめよ、アルさん。私には……私には、もったいないものだもの」
靴を履いても歩けるようになるわけでもないし、と言葉を重ねて首をふるニルチェニアに、「君に履いて貰おうと思って持ってきたんだ」とアルリツィシスは細い足を掬うように自分の手のひらに乗せる。精霊の黒い手袋の上では、少女の足は驚くほど白かった。足の甲をそっと撫でて、「履かせても?」とアルリツィシスはニルチェニアの菫色の瞳を見つめる。ほんの少し迷った顔を見せてから、ええ、とニルチェニアは頷いた。
小さな足をそっととって、靴へと招き入れる。細い足は途中で突っかかることもなく、華奢な靴にしっかりと収まった。細い紐で足首を巻くようにして、留め金を留める。両足に靴を履かせてから、アルリツィシスはニルチェニアをゆっくりと抱き上げた。
「わ……! わ、私、くつ、靴なんて……!」
体を支えながらそっと床に足をつけてやれば、ニルチェニアはアルリツィシスの腕に掴まりながら、自分の足元を見て顔を綻ばせる。生まれてこのかた、一日のほとんどを寝台で過ごしてきた箱入り娘のニルチェニアは、靴というものを履いたことがなかったのだから。
自分を見舞いに来る客は靴を履いて、彼女の部屋にやって来る。同じ年頃の少女たちが来てくれたとき、ニルチェニアは憧れの眼差して彼女たちの履く靴を見つめていたのだ。革張りのもの、なんだかつやつやしているもの、天鵞絨のようなとろりとした光沢のあるもの。リボンがついていたり、花飾りがついているものもあった。時には、宝石類がついているものも。すべてが珍しくて、自分にはないものだった。ほしくても、必要のないものだった。何しろ、一人では歩けもしないので。
だからこそ、今自分の足に靴があるのが嬉しくてならなかった。筋肉もないような足では踊れないかもしれないけれど、それでも踊れてしまうのではないかと思うくらいに。
「この靴、とっても素敵ね! 月の光みたいに優しい色で。羽みたいに軽いの」
「月の女神様のところにいって、君のために月の光を分けてもらった。……それから、細工の上手い精霊に頼んで、靴を作って貰った」
アルリツィシスの言葉に「おとぎ話みたい!」とニルチェニアははしゃぐ。はしゃぎすぎて転びそうになった少女の体をもう一度抱き締めて、アルリツィシスは元通り、寝台へと腰かけさせた。放っておいたら、きっとすぐ転んでしまうだろう。いつもは宵闇に浮かび上がる雪のように白い肌が、今日ばかりはほころび始めた花のように赤く染まっている。喜んでもらえたなら何よりだ、とアルリツィシスはその頭を撫でた。
***
髪飾り、香水、飾り皿……数々の贈り物を経て、靴を贈られた夜の数日後、ニルチェニアの前には美しい手袋が一組差し出された。二の腕の中頃までを覆える長さを持ったその手袋は、絹のような光沢を持った白い手袋だ。白い糸で繊細な刺繍が施され、手袋の上部には真珠が縫い止められている。差し出された手袋を目の前に、ニルチェニアは丸い瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「アルさん、これは?」
「君の手袋だ。……君はよく、僕の手袋を借りるから」
外にいけないニルチェニアには、アルリツィシスのしている手袋が珍しいらしい。精霊の青年が来るたびに手袋を借りて、自分の手にはめたりして遊ぶのがニルチェニアという少女だった。ぶかぶか、と微笑みながら手を握ったり開いたりしているのを、アルリツィシスは可愛らしいと思って、いつもそれを見ていた。
「これで僕とお揃いだ」
「アルさんとお揃い……」
先日、アルリツィシスから差し出された靴を履きながら、ニルチェニアは差し出された手袋を見ながらぼんやりとしている。夢みたい、と小さく呟いたのを、アルリツィシスは聞き逃さなかった。
「夢ではない。……ニルチェニア、手を」
ニルチェニアの細い手をとって、アルリツィシスはその手に手袋をつけていく。ネグリジェの長い袖に手袋のほとんどは隠れてしまったけれど、ニルチェニアはどきどきしたような面持ちで、つけて貰った手袋を見つめている。手を握ったり開いたりしても、ニルチェニアの口から「ぶかぶか」という言葉は出てこなかった。
「アルさん。……すてき。とっても素敵! 綺麗な手袋で……本当に、夢みたいなの。アルさんの手袋と同じ感触なの。お揃いね」
「僕の手袋は夜を紡いだ糸で作っているけれど、君のそれは雪明かりの糸だ。同じ、夜に存在するもの。だから、感触も似ているんだろう」
「雪明かりの糸」
「そうだ」
月の光を受けて、仄かに光る雪のそれを紡いだのだとアルリツィシスは語った。君に似合うはずだから、と。そうして、夜の闇で染まった手袋が、雪明かりの色に染まった手袋をそっと掴む。アルリツィシスの手のひらに、ニルチェニアの手はすっぽりとおさまってしまった。小さな手だな、と精霊の青年は口にする。アルさんの手が大きいのよ、と少女ははにかんだ。ぎゅ、と握られる手のひらに、アルリツィシスは笑みをこぼす。
「明日は何を持ってこようか、ニルチェニア。君のほしいものなら、形あるものなら。僕は何だって持ってこよう」
「……ううん。平気よ。……ねえ、アルさん。こんなにたくさんいただいてはいけないと思うの。わたし、貴方に何も返せないから」
寝台に腰かける少女の前に膝をつき、アルリツィシスはニルチェニアの言葉をゆっくりと聞いていた。少女が申し訳なさそうにアルリツィシスを見れば、精霊の青年はそんなことはない、と首を横にふる。
「大丈夫だ、ニルチェニア。……また月が満ちたのなら。その時にすべて返してくれればいい」
君ごとな、と小さく口にしたのは、ニルチェニアには聞こえなかっただろう。貸してくれるの、とぱちぱちと目を瞬かせた少女に、アルリツィシスは穏やかに微笑んだ。
***
「認めませんよ。帰ってください」
アルリツィシスに淡々とした視線を向けているのは、ニルチェニアの叔父のソルセリルだ。そこをなんとか、と食い下がりたいのをこらえながら、アルリツィシスはもう一度口にした。
「貴方の姪を、僕の伴侶にしたい」
「聞こえませんでしたか。死神のアルリツィシス。帰ってください」
「僕は死神ではない。冥府の渡し守であり、夜の精霊たるアルリツィシスだ」
「尚更帰りなさい。冥府の渡し守など縁起の悪い。僕の姪を何処に連れていく気ですか」
「どこにも」
ただニルチェニアを伴侶にしたいだけなのだと言い重ねれば、ソルセリルの顔は目に見えて冷たいものとなる。死神のようなものに姪をやれるわけがない、とその男はそれきりアルリツィシスを見るのをやめた。
「血の繋がりが薄くとも、僕はあの子を愛しているのですよ。娘のように。そんな子を、娘のような子を、冥府の渡し守に嫁がせるとでもお思いですか。人の子を伴侶にと望むのならば、人に受け入れられる術を身に付けてからいらっしゃい。今の僕には、君を受け入れようなどという気は起きません」
「それは、人としての儀礼を、常識を身に付けてから来い、ということだろうか」
「さてね。それも自分で考えられないようでは、僕が君に頷くなど有り得ないことだけは確かですが。わかったら大人しく夜へお帰りなさい、冥府の渡し守」
わざわざ出向いたアルリツィシスを見送ることもなく、ソルセリルは精霊の青年にさっさと背を向けてしまう。これ以上は話す気はないとその背中が語っていた。
それでは失礼する、とアルリツィシスが口にしても、ソルセリルは振り返らなかった。大人しく引き下がりながら、精霊の青年は「人に受け入れられる術を身に付ける、か」と小さく呟く。
言っていることはもっともだ。だが、大きな問題がそこにあった。
なにしろ、アルリツィシスは冥府の渡し守であり、夜の精霊だ。人の常識など、人の持つべき儀礼など、知るわけがない。
しかし、ここで諦めようとも思わなかった。
「ニルチェニア……」
熱に浮かされたように呟いた想い人の名前は、冬の夜に消えていく。その名を呼んだ自分の声が、普段よりずっと甘いことに夜の精霊は気づかない。
「また来たのですか」
昨夜に引き続き部屋に姿を現した青年に、ソルセリルは露骨に嫌な顔をした。
陰気な曇天色の髪。夜を溶かし込んだような黒いコート。夜空色の瞳はどこか気だるげにも見えて、そのくせ語る言葉は真摯だった。だから嫌なのだ。冥府の渡し守であると名乗った青年に、ソルセリルは「何しに来たんです」とこれ見よがしにため息をつく。昨日あれだけ突っぱねたのだ。普通の人間なら日をおくか、そのまま二度と姿を表さないかのどちらかなのに。だが、生憎とアルリツィシスは精霊だ。人を物差しにしては計れない。
「貴方に許可を貰いに」
「ニルチェニアを伴侶に、と? 昨日断ったはずですよ」
「いや……。それもあるが、まずは彼女の部屋を訪れる許可を貰いに来たんだ。夜分遅くに女性の部屋を許可もなしに訪ねるのは、無礼なことなのだろう」
「なるほどね」
「彼女の保護者は貴方だと聞いた。よって、貴方に許可を求めるのが正しいと僕は思う」
「間違ってはいませんよ」
正しいかどうかはどうとも言えませんが。
「正しくはないのか?」
「君が訪れたい部屋のあるじは誰か、と考えてごらんなさい。彼処は僕の部屋じゃない」
ニルチェニアの部屋でしょう、とソルセリルは続ける。そうだな、と夜の精霊は頷いた。
「保護者に許可を求めるのは妥当でしょうが……。あの子から許可をもらうのも忘れないで下さいね。もちろん、窓から入るのも無しです。人には扉があるのですから」
「覚えておこう」
ひとつ頷いたアルリツィシスに、ソルセリルは「そういえば」と話を切り出す。
「先日は大変に上等な靴をどうもありがとうございました。保護者として、一応礼を言っておきましょう」
ずいぶんと手間のかかった贈り物ではないですか、と真珠色の眼を持った男はほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「あの女神から月の光を譲り受けるのは、面倒だったでしょう」
「……彼女が隠し持っている魂を僕が冥府に連れていくと言い出したら、協力してくれた。頼んだ量よりも多く月の光を分けて貰えた。有り難いことだ」
「……人の世界ではそれを脅しというのですよ、夜の精霊」
そうなのか、ときょとんとしたアルリツィシスに、ソルセリルは言葉を返さなかった。精霊と神のやり取りだ。そこに人の常識などを持ち込んでも、なんの意味も持たないだろう。
なにより、ソルセリルはあの女神が嫌いで仕方ないのだ。ならば、事情は知らずともあの女神に面倒事を強いたらしいこの精霊に、多少態度を甘くしてやるのもやぶさかではない。