第52話 理想の暮らし
ビフュ……。ビフュ……。
濃かった朝もやが多少薄らぎ、朝食前の日課であるカーンの素振りが今朝から再会した。
2回ほど剣の上下運動を繰り返したカーンがすぐ動作を止め、自分の全身を確認しはじめる。
「どうしました? 何か違和感でも?」
見学に来ていたホウガが、隣で無言で見つめているオットーの顔とカーンを交互に見ながら質問する。
「いやぁ、まぁな……。恐らくだが、俺はさらに腕があがったらしい」
ほぅ、と少しだけ眉を上げるオットー。
「え? 体はまだ万全ではないんですよね? 達人ともなると二振り程度でわかるものなのですか」
剣術に強い執着を持っているホウガが続けて尋ねた。
「俺はおまえらがここに来る前から鍛錬だけは真面目にやってたんだが、自分でどんなに体を追い込んでもあんなに疲労する事は無かったんだわ。訓練と実践は違うって事なんだろうな」
「数日前から食料事情も変わって体調は良かったみたいですし、戦闘中は主上の魔法の水も飲んで気絶するまで体を酷使したんですからね。普段の2倍も3倍も体を苛め抜いた事になるんでしょうか」
「まぁな、おかげでまだ7割程度の体調でこれだよ」
そういうと、持っていた剣を頭上まで振り上げ、目の前の空間を一閃する。
「……ホウガ、カーンの剣で数回素振りをしてみてくれないか」
二人の会話に割って入ったオットーの命でカーンから剣を受け取ると、ホウガは全力で剣を振り下ろした。
ビフャ……。ビフャ……。
「確かにカーンの素振りとは音が違いますね」
レベルの差を実感したホウガが口惜しそうにカーンに剣を戻すが、カーンはほぅ、という表情を崩さない。
「オットー。悪いがおまえの素振りもちょっと見せてくれ」
ホウガから受け取った剣をそのままオットーに突きつけ、バツが悪そうなオットーが仕方無しに構えると、全力で剣を振り下ろす。
ビフン……。 ビフン……。
自分の実力をわかっているオットーが剣をカーンに返すと、
「ホウガ、見たとおり剣速は私が一番遅い。クリスエスタの鍛錬では物足らず伸び悩んでたいたようだが、目の前にこんな良い手本がいるのだ。もう一度鍛えなおすのも手かもしれんぞ」
「そういうこったな。おいオットー、ホウガを俺にくれ。こいつは鍛えたら戦力になるぞ。代わりに砦防衛の29人はおまえに任せるからな」
「え~……コホンコホン。…………オッホン」
木箱に座り、今まで黙ってノートにペンを走らせていた少年がわざとらしくかわいい咳を連発する。
一人で盛り上がるカーンに我慢出来なくなったのか顔をあげたベルカンプが、
「え~ そこの体の大きい人。キミ、名前は確かなんていうんだっけ?」
「…………カーンだ。……です」
茶番が始まり、オットーとホウガが邪魔しちゃ悪いと必死で口を押さえる。
「そうだった。カーン君だったね。キミ、昨日広場で何か僕にお願いしなかったっけ?」
「……しました。……けどな?」
「ん? けどなんですか? まさか軍事関係の人事を勝手に決めたいのかな?」
「そ、…………そういうつもりは……あったわけだが……」
「困るんだよなぁ。人を勝手に指導者に祭り上げておいて、自分の好きな所だけ口だすの、困るんだよなぁ~~」
およそ6歳とは思えないとびっきり舐めた表情でカーンを下から見上げるベルカンプ。
プルプルプルと全身を振るわせるカーンに我慢が出来ず、オットーもホウガも押さえている口から「ぶふぅ」と音が漏れる。
「ん? 何か僕に言う事はないのかな~~~?」
さらに追い込むベルカンプに、
「チッ、すいませんでした~」
と、謝りながらもベルカンプを持ち上げると空中に放り投げ、一人ワッショイを開始する。
最初の数回は楽しそうに投げられていたベルカンプだったのだが、調子に乗った仕返しのなのか、カーンはベルカンプを2m以上も上空に投げ続けた。
やがてベルカンプの表情に悲壮感が現れ、しかし悲鳴を出さずに必死で歯を食いしばるのを確認したオットーの親心が我慢出来ず、
「カーン、そこまでだ。主上が怖がっておられる」
と釘をさした。
お、そうか? と、頭上の子供の感情など読み取れないカーンが忠告通りにベルカンプを抱きしめて静かに地面に落とすと、
「怖がってねぇし!」
と、肘でカーンのみぞおちに一撃食らわせてからホウガとオットーの背後に離脱するのだが、ベルカンプの表情と正反対でカーンはポカンと呆けている。
ようやくなんとなく理解したカーンが、
「いや、すまん! すんません。子供は高い高いが好きだと思って本気でサービスしたつもりだっただけなんだが……」
「あほぅ! この広場から砦の外の景色が見えたわ! しかもあんだけ上空に放り投げられて、落下地点にカーンしかいない恐怖がわからんのか!」
自分の体験した恐怖を説明してる内に6歳の部分が出てしまい多少涙声になったベルカンプは、それでもカーンに悪気が無かったのを感じ取るとすぐ表情を普段通りに戻していく。
「ところで主上、先程から筆を取りながら随分悩まれていたようですけど、何をされていたのですか?」
ホウガが上手く話題を切り替え、残りの2人も気になっていた事案であったので同時にベルカンプの返答を待つ。
「あぁ……。今後のこの砦の方針をね。昨日みんなに豪語しちゃった手前本気で考え始めたんだけど、いくらかかるのかざっと計算したらとんでもない額になって途方に暮れてるんだよ」
「そうなのですか。…………で、いくらぐらいに?」
ふぅ。っとベルカンプはため息を一息吐くと、
「オットー、クリスエスタの石壁って一角大体このぐらい? あと工夫の賃金って一日この程度であってる?」
紙に書いた試算をオットーに見せると、
「私は補修した際の予算しか知らないが、おそらく的外れな計算では無いと思うぞ」
元クリスエスタ門番長のお墨付きを頂き、自分の計算が間違ってないと確信したベルカンプはもう一度ため息を吐いた。
「なら…………ファオス金貨で約30万枚」
「へ?」
口調が丁寧で年の差を越えてベルカンプを慕っているホウガが、想定の10倍を遥かに超えた高額になんとも間の抜けた声を発した。
「それはいくらなんでも計算違いじゃないのか?」
なんとか想像しようと必死で指を折って計算しているカーンをよそ目にオットーが発言する。
「残念ながら3度も検算したさ。……3人に質問だけどさ、理想の暮らしってどういうのを想像する?」
ベルカンプから不意に投げかけられた問いに、金額の事はひとまず置いておいて各自妄想を巡らせはじめた。
「やはり基本は食事ですかね? 食料の不安がない生活は理想かな」
「私は医療かな? 病気で薬さえあれば助かるのにむざむざ失う暮らしは虚しいと思う」
「暖かいのも理想ですよね。真冬に暖が摂れなくて凍える冬を体験しましたが、あれは辛かった」
「理想と言えば、生活に足りない物がすぐ近くで融通出来る暮らしも理想だな」
衣服も、治安も、清潔な暮らしもと、ホウガとオットーは交互に発言していくのだが、
「おれはよぉ」
カーンの発声に二人が黙り込んだ。
「俺は、最低限の暮らしなら今でもいいんだ。だが理想の暮らしっていうんなら、俺は剣術しか人に誇れるもんがねぇ。時々、それが不安でたまらねぇ時があるんだ。だから……その……俺が言うものなんなんだが……」
頭を掻きむしりながら躊躇するカーンに、3人が微笑みながらゆっくりと次の発言を待つ。
「…………教育……ってのは、もしかしたら理想に必要なんじゃねぇか?」
パチパチパチパチ。3人に拍手され自分の言ってる事が的を得ている事が判明し、カーンは照れ隠しで素振りを繰り返す。
「3人が思ってる理想とボクの理想はほとんど一緒だと確認出来て良かったよ。だから、その暮らしの実現の為に僕はこの谷を塞ぎたい。ある日突然外敵に襲われ、積み重ねたモノが一夜で無に帰す事のないような、そんな砦壁が絶対に必要だと思うんだ」
3人はそんな理想郷が実現可能なのだろうかと数瞬甘い妄想に浸るのであるが、
「しかし、それの実現の為には金貨30万枚か。この何も無い谷間で果たしてどうしたもんか……」
ベルカンプを除く3人は異世界の品物さえあればもしかしたら……と考えを巡らせるのであるが、前日に音信不通を伝えられているので意味も無い言葉を発せずにいた。
「あ! そうだこぞぅ……主上! 出来れば、楽しいのもあったらいいなぁ」
調子に乗ったカーンにベルカンプが「じゃぁ33万枚」と苦笑いすると、
「ベル~~。朝ごはん出来たわよ~~」
自宅のドアの前でソシエが叫んでるのを目視した二人が無言で手を挙げて立ち上がった。
自宅に歩き始めた二人だったのだが、ふと思い出したベルカンプがカーンに振り向き、
「カーン! 指導者を怖がらせた罰として、素振り300回の刑」
と言うと踵を返して再度歩き始める。
呆然と立ちすくむカーンは軽く後頭部を掻くと、大人しく素振りを繰り返す。
カーンの日課の素振りは、一日500回であった。