一話 若き“天災”魔術師
──アル・ヴァールハイドはヴァールハイド傭兵団で最強と呼ばれた魔術師だ。
齢15にして全ての系統の中級以上の魔術を習得し、風、火、水、土の4大系統の魔術に関しては上級以上を駆使する姿は、見るものを畏怖させるには十分だった。
特に、水系魔術に関しては最上級に位置する極級魔術を扱う事が出来たのだから、争いの少ない辺境の状況しか知らない人間からすれば“化け物”以外の何者でもないだろう。
現に、ソルは魔術師同士の打ち合いでアルが負けたのを見たことがないし、傭兵団の仕事先でのアルの魔術の凄まじさを同僚から聞いていたから、その実力を疑った事などなかった。
それはアル自身も同様で、それなりの経験の中でも自分以上の魔術師に会った事など無かったし、傭兵団の仕事で苦戦したこともなかった。
つまり、そこから導き出される答えは、アル・ヴァールハイドという名の魔術師は、魔術を覚えてからというもの唯の一度も苦戦した事が無いという事実だった。
だからこそ──
「……困ったな」
──兄の身をその背に背負いながら、山中の道をヨタヨタと登っている自分自身の口からそんな台詞が出てしまう日が来るなど、想像すらしていなかった。
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時間は4時間程前に遡る。
故郷を発ってから一週間経った頃になると、今までそれなりにでも街道に点在していた民家の数が目に見えて減ってきていた。
トゥルースの町はインナーマークとロードレス連邦の境界に存在する町であったが、その存在は過去の戦争においてジーク・ヴァールハイドの存在があったからこそ存在できた町である。
逆を言えば当時の凄まじい戦争において、国境付近の前線地域の他の街はほぼ全滅状態になってしまっていたのだ。
その為、インナーマークとロードレス連邦の境界地帯は戦争の終結した現在においても、ある種の空白地帯として大きな集落のない場所となっていたのだ。
アルとソルが差し掛かったのは、そんな空白地帯の最後の難所であるガリバー峠の中程に来た頃のことだった。
今回の旅での二人の活動時間はピッタリ12時間。
それはそのままソルの覚醒時間に繋がるわけだが、その時間は対人関係を構築するには少々問題があったものの、日常的な生活をする上では大きな問題は怒らない時間であった。
しかし、それはあくまでいつでも休息を取ることの出来る町中の事であったなら、だ。
起きた後に一定の時間が経過すると突然意識を失ってしまうソルの存在は、今回の旅……特に不毛地帯が続く境界地帯において困難を極めた。
それでもこれまでは余裕を持って足を止め、少々時間が掛かる事も構わずに途中の民家の屋根を借りてきたわけだが、峠越えの所でついに野宿をする羽目になってしまったという訳だった。
峠道の途中で意識を失ってしまったソルの体を抱き抱え、大きな木の根元で眠りにつく事にしたアル。
季節は春だが、日が落ちた後はとてもそうとは思えぬ程に冷えてくる。
山道という事も理由の一つに挙げられるだろう。アルは準備していた厚手の毛布でソルと自分を包み込むと、軽く瞼を閉じていた。
傭兵団時代に野営の経験はしていた。
だから、山中で夜を明かす事にそれ程大きな抵抗を持っている訳ではない。
しかし、一度意識を失ってしまったソルは、日が昇るまでの間は絶対に目が覚めることはない。
それは、小さな頃から眠ってしまったソルに対して様々な事をして起こそうとして、叶う事のなかったアルの体験からもよくわかっている。
だから、この状態のソルを抱きしめていると、決して目覚めぬ骸を抱き抱えて一人眠りについているように感じて恐ろしくなってきてしまう。
そんな状態のアルの精神状態を繋ぎ止めていたのは、確かに伝わってくるソルの体温以外にほかならなかった。
思えばずっと昔からそうだった。
結局一度も愛を注いでくる事の無かった父親。
軟弱だった自分に興味すら示さなかった長兄。
母親は優しかったが、それはアルがソニアの実子であったからだ。
そんな中にあって、ソルだけはアルを小さな頃から可愛がってくれた。
当時は剣と魔術の双方を扱える天才児だったソルは、アルにとってもまるで英雄のような輝きを持っていた。
それが崩れてしまったのはいつからだっただろう。
何時しかソルは落伍者の烙印を押され、アルは魔術の才を見出され、周りの二人に対する評価は逆転した。
けれど、それでも2人は変わらなかった。
アルに対してはソルは相変わらず優しかったし、そんなソルの傍にアルはいつだってついて回った。
それはお互いの傷を舐めあう行動だったのかもしれない。
しかし、ソルの傍に居る事を決めたアルにとって、そんな事は瑣末な事だった。
ソルはよく無茶をする人だったから、傷が絶える事は無かった。
ソルが傷つく度にアルはその傷を癒し、家まで連れて帰った。
アルの華奢な腕ではその腕力も大した事は無かったが、身体強化の魔術の存在が、その問題をクリアしてくれた。
家に帰れば待っているのは心配してくれる母親と、汚物を見るような視線を向けてくる父と兄。
母は基本的には父に逆らえない人だったから、二人の事を心配していても直接的に干渉してくることは無い。
だから、父と兄が家にいる時にソルの世話をするのはいつだってアルの役目だった。
事実、母からはその件に関していつも『お願い』されていたし、アル自体そうする事に疑問を感じていなかったから、頼まれなくてもやっていただろう。
傷ついたソルが意識を失っている時は本当に怖かった。
どんなに傷が塞がって、見た目は問題のない状態で、安らかに寝息をたてているにも関わらず、決して目を覚ます事のないソル。
朝ソルが目を覚ますまで、その無事を確認する術は存在しないのだ。
だから、アルはいつだって怖かった。
もしも、このまま目を覚まさなかったらどうしよう。
本当は見た目にはわからないけど重症で、直ぐにでも治療しなければいけない状態なのではないか。
そんなアルの不安を紛らわす事が出来たのはいつだってソルの体温だった。
眠ったソルを抱きしめる事で伝わってくる体温が、唯一アルの恐怖を和らげてくれる特効薬であるかのように。
それは、今日まで変わらずに行われてきた事だった。
流石に大きくなってからはソルから変な目で見られる事が多くなったため、ソルが起きる少し前にベッドから抜ける必要はあったが、ソルが起きる時間はいつもきっちりと一緒だったし、その時間までは何をしても絶対に起きないのはこれまでの経験で実証済みだ。
だから、例え凍えるように寒い山道の途中であろうとも、ソルの体温が伝わってくる限り、アルの精神が折れることは無かった。
それでも、決して目が覚める事のないソルを抱え、たった一人で暗闇の中で耳を澄ませなければいけない状況に恐怖を感じないわけではなかったのだが。
どれくらい時間がたっただろう。
少なくとも夜の半分は過ぎただろう時刻の事だった。
ソルの体を強く抱き、髪の毛の中に鼻先を沈めていたアルの耳に地面を踏みしめる音が聞こえてきたのは。
その頃には半分眠った状態で意識が朦朧としていたアルだったが、音に合わせて弾けるように顔を上げる。
音がしたのはアルが背を預けていた木の反対側からだった。
火は消していたし目も瞑っていたから視界はそれ程悪くない。
夜襲を受けた経験もあったから、対応に困るということもない。
ただ、不安要素があるとしたら、すぐ傍に眠ったソルがいるという点だろう。
(……どう……する?)
アルは左手でソルを抱いたまま、左手で愛用の杖を引き抜く。
普通に魔術を使用するためだけならば本来杖は必要ないが、マナの樹で作られた杖の先端に付けられた魔石は術の増幅と発動時間の短縮の効果を持つ。
だから、即座に大きな魔術を使用する事を必須とする強大な魔術師ほど杖を使用する傾向にあった。
アルは息を潜め、しばらく杖を手にした状態のまま後方の様子を伺う。
音はしない。
獣か、もしくは山賊の類かはわからないが、このままやり過ごせるかもしれない。
アルの心にそんな都合の良い考えがよぎった時だった。
「!! ウェルト!」
大木の裏側で突如膨らんだ悪意にアルは身体強化の魔術を発動させると、ソルと荷物を抱き抱えて前方に飛び退る。
すると見る間に樹齢数百年はあろうかという大木が、ミシミシと大きな音を立てながらアルとソルに向かって倒れてきている所だった。
「狂い踊れ! グランバース!」
荷物を投げ捨て、右手の杖を前方に掲げたアルの目の前で爆炎系中級魔術が荒れ狂い、すぐ前に迫っていた大木の幹が砕け散る。
すると、大木という障害物が消えた事で先程の音の正体がアルの視界に入り込む。
立っていたのは影だった。
闇に溶けるような黒い体躯が月明かりに反射して浮かび上がり、両腕を垂らしたようなシルエットからその姿は人間のようにも見える。
もっとも、前傾姿勢で垂らしたように見える両腕は、地面に突き立ち、さながら二本のグレートソードだ。
形も正に剣そのもので、先ほど大木を切り倒した獲物の正体がその二本だという事は想像するまでも無かった。
それだけ見るならばまだどこかの達人かなにかだと100歩譲って考える事も出来たかもしれない。
しかし、対峙しているアルがそんな考えに行き着かなかったのはその頭部にあった。
暗闇の中でもハッキリと光って見える真っ赤な双眸。
しかし、本来顔であるはずのその場所にあるのはその2つのみで、後はノッペリとした平面だ。
額には2本の角。
後頭部から背中にかけてまるでマントのようにはためく体毛。
「……嘘でしょう……?」
その姿はあまりにも有名で。
先の戦争に於いて、連邦とインナーマーク双方に甚大な損害を与えた第三勢力。
「……ガリバービースト……!!」
そこにいたのはガリバー峠に生息する伝説級の魔獣。
黒き悪魔ガリバービーストだった。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
それからのアルは逃走の一途を辿っていた。
元々背負っていた自身の荷物と愛用の杖は健在だったが、大木を破壊する時に投げ捨てたソルの荷物は回収できなかった。
最も、命あっての物種だし、一番大事なソルの身柄はその背に確保している。
身体強化の魔術で筋力は増幅していたから、逃げる為の速力とソルを担ぐための腕力は確保出来ていたが、身体強化はあくまで身体強化であって、アルの体力とは別物だ。
むしろ、魔力を使い続けている時点でアルの体力を奪っている直接的な原因とも取れる。
つまり、元々体力の乏しかったアルがフラフラになって足を止めてしまい、ホトホト困り果ててしまった所で冒頭の発言へと繋がっていく。
山頂まではあと少し。
峠道はあと半分という所だが、上り坂が下り坂になった所でヘトヘトになったアルが黒い悪魔から逃げ切れる保証はない。
むしろ、疲れ果てたアルが追いつかれる可能性の方が高いだろう。
「やっぱり……ここで迎え撃つしかない……ね」
ソルを近くの木の幹に身を預け、背負っていた荷物を地面に下ろす。
右手に杖を手にして、山頂を背にして立つアルの視線の先にいるは赤い目をした黒き魔獣。
山頂が近いことで開けた空から降り注ぐ月光が、その禍々しい姿を一層際立てていた。
「ソリューデッド!」
先手必勝。
魔獣の姿を確認するや否や、アルの手にした杖の先端から真空の刃が音もなく魔獣に襲いかかる。
しかし、風の刃は魔獣の両腕たる2本の刃により霧散する。
当たった瞬間僅かに散った血飛沫が魔獣に手傷を負わせた証拠だったが、痛みも感じないのか魔獣はゆっくりとだが確実に、アルに向かって歩を進める。
「! ……なら……」
自らの攻撃が通用していない事を実感しながらも、アルは新たな魔術を展開する。
構成と共に現れるのは三日月を模した一張の弓。
そこに光り輝く矢を番え、真っ直ぐ魔獣に向けて解き放った。
「ムーンショット!」
それは光の中級魔術だったが、術本来の難易度の高さから威力が高く、習得者もそれ程多いわけではない。
何よりも、向けた相手は闇の眷族たる黒き魔獣だ。
これが通用しなければ、先の魔獣に対するアルの手札はもうそれほど多くはない。
だが──
「!!」
魔獣に確かに直撃した光の魔術は轟音を上げて爆散し、光の粒子を辺りにまき散らした事で周囲の景色を一瞬だけ鮮明に映す。
しかし、映し出した光景は、魔術の直撃を受けながらも前進の足を止めない魔獣の姿でしかなかった。
魔獣とアルの距離はもうそれほど遠くない。
これまでの攻防を考えるに、後一手でどうにか出来なければアルは魔獣の間合いに入ってしまうだろう。
そしてそれは、そのまま眠り続けるソルの身の危険へと繋がるわけで……。
「……ふざけるな」
無意識に出た呟きは、アルの心情そのままだった。
魔獣に向ける瞳は黒く濁り、その身に強烈な殺意と、強大な魔力を漲らせる。
「……ふざけないで……!!」
いつの間に手放していたのか、地面に落ちた杖には目もくれず、アルは両手を空に掲げ、夜空を埋め尽くすほどの魔術の構成を構築する。
「我が声に応えよ。水の精霊ヴォルテック」
その声は唯のキーワード。
「全ての生物の母たる慈愛に満ちた原初の海にして、世界を終焉に導きたる無慈悲な水の精霊王」
魔力の篭った起動ワードによってセーフティーが外された兵器であるように、周囲の地面から、周囲の木々から、周囲の空間から、いつの間にか現れた夜空を覆い尽くした暗雲から、止めど無く集まる大量の水。
「我求めるは終焉の力なり」
魔術の構成が完成する。
先程までただ辺りを無尽蔵に漂っていただけの魔力は一点に収束し、アルの両手に凄まじい魔力の塊へと姿を変えた。
既に魔獣の距離は後一歩で間合いに入る位置にまできていたが、狂気に染まったアルの瞳から既に焦りは感じない。
むしろ浮かべたのは、幼く美しい顔を崩さず見せた、
「お前は──」
生けるもの全てを無条件で恐怖に陥れるのではないかと思うほどの、
「──殺す」
狂人の笑みだった。
「ヴォルテックドライブ!!」
最後の安全装置を外され、振り下ろされた両手が引かれたトリガーであるように、周囲に集まっていた全ての水が唸りを上げて目標に向けて殺到する。
天から落ちた水流は雷鳴を伴いながら滝という名の断頭台の如く落ち穿ち、大地の水流は天翔ける龍の如く対象を貫き舞い上がる。大気に満ちた水流は四方八方から止めど無く水の刃を浴びせかけ、木々から飛び出した水流は無数の矢となって黒き魔獣を打ち貫き続けた。
水系極級魔術攻撃型『ヴォルテックドライブ』
水系最強術の双璧の一つにして、破滅の異名をもつ魔術によって、黒き魔獣はその痕跡をこの世から跡形もなく消し飛ばされていく。
獲物を前にして突如現れた理不尽な『天災』の前にあっけなく。
「……ふふ……」
やがて辺に静寂が戻り、月光が照らす生物はアルとソルの二人だけ。
全ての体力と魔力を使い果たし、覚束無い足取りのまま、それでもアルはソルの傍へと歩み寄る。
魔術の影響からか、僅かに青味がかった白髪はシットリと濡れて、両頬にも涙のように水の雫が流れていた。
アルはソルの顔に付いた水滴をハンカチで拭き取ると、お互いが包まれるように毛布を纏い、ソルの体を強く抱いた。
そこから感じるのは仄かな温もり。
それは小さな頃から変わらないアルにとっての精神安定剤だった。
「……ソルくん……」
アルは呟き、その鼻先をソルの頭髪に埋めて眠りに落ちる。
その安らかな寝顔は、ソルの存在だけがアルの狂気を取り除ける唯一のものだと語っているようだった。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
「……ナンダコレ?」
目が覚めたソルの目に最初に飛び込んできた光景は、あまりにも見晴らしが良くなったかつて山だった何かだった。
周りにあった筈の木々が無い。
自分達が歩いてきた街道が無い。
そしてなにより、寝る前は無かった筈のモノがすぐ傍に突然出現していた。
「何だよ。この崖……」
毛布に包まり木に背を預けるように寝ていたソルの右手側2歩分程の場所が唐突に崖になっていたのだ。
ソルは自らにしがみつくように寝ていたアルを何と引き剥がすと、崖の下を覗き込む。
そこは完全な絶壁となっており、遥か下では川が崖をなぞる様に流れているのが見えた。
「それにあの川……この辺りに川なんて流れてたか?」
ソルは右手を顎の下に当てながら、こちらのセカイで寝る直前の事を思い出す。
たしか、民家を探しながら連邦との国境を目指していた所峠道に入ってしまい、仕方なく野宿をしようと提案した所で意識が切れていた。
その時に下から見上げた峠の山頂付近と現在位置の光景が似ているような気がした。
「まさか、アルが俺を担いでここまで歩いてきたのか? いや、それにしてはこの崖がある以上どうやってここまで来たんだって話に……」
崖に向けていた目を弟の寝顔へと移し、混乱した頭を整理しようとしたソルだったが、余計に混乱しただけだった。
ソルは右手で乱暴に頭をかきむしりながら、もう直ぐ傍だった山頂へと足を向ける。
街道を挟むように立ち並んでいる二本の大木は、遠目からでもよく見えた独特な大樹だったが、何故かその二本は表面がカサカサに乾燥し、立ち枯れした状態でかろうじて立っている状態だった。
「おいおい。嘘でしょ?」
しかし、ソルが驚いたのは異常を訴える二本の大樹ではなく、その場所から見える眼下の光景そのものだった。
「この先に見えるのはロードレス連邦最北の町『カラギーナン』じゃないか? だとしたら、ここはやっぱりガリバー峠に間違いない?」
峠を超えてすぐ先に存在する宿場町。
それはインナーマークからの旅人が最初に訪れる町であった為、トゥルースから出た事のないソルでも情報としてはよく知っていた。
だからこそ、この状況の異常さにも気が付けたというものだったが……。
「……まさかアルが? いやいや。いや、でも……」
眼下の町と、弟の寝顔を交互に見ながら、ソルはますます混乱したように頭を掻く。
普通なら何かの冗談と一笑に付す出来事も、傭兵団に於けるアルの二つ名を知っているソルだったからこそ、全てを勘違いとも取れずにいたのだ。
──若き“天災”魔術師。
時には恐怖の象徴として呼ばれたその名があったからこその。
そんなソルの葛藤も知らず。
当のアルは幸せそうな表情で今も眠りにつくのだった。