二話 塩山 誠
幼少期の誠にとっての父と母は、二人づつ存在していた。
その認識は物心がついて周りの友達との違いに気がつくまで続く事になる。
それは名前や兄弟達の存在も同様で、実際には一人っ子であったはずの誠の口から語られる兄や弟の存在に、両親は早い段階から不思議に……いや、気味悪がっていたのは容易に想像できる。
現に、息子を何度も病院に連れて行ったりしていた事からもその事実は伺えるというものである。
息子が何やら病気を患っているのではないかとの疑いを持ったのは、誠が小学生に上がった頃だった。
誠は兎に角早い時間に寝てしまう子供だった。
しかしながら、通常の赤ん坊であれば起こりうる夜泣きなどが一切なく、育てやすかった赤ん坊であった事も事実だ。お昼寝なども皆無。
当時から母親は不思議がっていたものだが、子供は人それぞれなのだろうと安易に片付けてしまう楽観的な性格が、真実を知るのに時間がかかった理由とも取れた。
小学生に上がった頃、他の子供達同様に活動時間が伸びた誠だったが、学校での行事や友達の家、果てには買い物帰りの途中などありえない場所でも唐突に眠ってしまっていた。
しかも、眠る時間は決まって午後の6時きっかり。
思えば、子供にしては早起きだとしか思わなかった誠の起床時間が必ず朝の6時である事にも気がついて、流石に青くなって病院に連れて行って病気であるとの疑いが増した。
病名は分からない。
そもそも、病気かどうかも分からないままだったが、検査の結果、1つの事実は判明した。
それは、誠の12時間の睡眠時間の全てがレム睡眠の状態であるという事だった。
乱暴に分別すれば、ノンレム睡眠は脳の休息を促し、レム睡眠は体の休息を促す睡眠だ。
レム睡眠時は脳が活発的に動いているため、通常この状態の時に人間は夢を見ていると言われている。
しかし、結局は脳が起きている状態であるため、通常ならば非常に起きやすい状態であるはずだったが、誠は一度眠りに入ると朝の6時までは何をしても起きる事はなかった。
誠が昼の12時間の間に決して眠る事がないと判明したのもこの時だ。
医者は言った。
この子は生まれてから今日までの間、一度も脳が休息を取った事がなかったのではないかと。
そんな馬鹿なと母親は思った。
しかし、赤ん坊の頃から夜は完全に眠りに落ち、昼間はずっと起きていた息子の事を思い出し、瞬時に青ざめてしまった。
思えば、いるはずのない兄弟の事を口にしたり、よくわからない名前を自分の名前だと言ったり、聞いた事もない名前を両親の名前と言ったりしていたのは、夢と現実の区別がつかなくなったからなのではないかと、悪い意味で納得してしまった。
医者は言った。
この子は長く生きられないかもしれないと。
その日から母親は誠の為にあらゆる病院を訪ねて回った。
怪しげな薬や、怪しげな宗教にもすがった。
しかし、なんの効果も得られない。
そんな日常を過ごす内に、母親も次第に疲弊していった。
仕事ばかりで息子と向き合おうとしない夫にも、口を揃えて「原因不明」としか言わない医者にもほとほと嫌気が指していた。
そうして、母親はだんだんこのままでもいいのではないかと思うようになっていったのである。
眠る以外は問題ないのだ。
6時になると寝てしまう病。
大人になった時に苦労するかもしれないが、選べば仕事もきっとある。
もちろん、それは脳へのダメージを度外視すれば、の話だが。
そんな思考に行き着いた頃、事件は起こった
それは誠が中学1年生の時。
運動会で披露する組体操の練習をしていた時の事。
人間ピラミッドの支えを担当していた誠が、崩れたピラミッドの下敷きになって大怪我をしたと連絡を受けて慌てて病院に駆けつけた時だ。
息子は酷い有様だった。
両手両足の骨折に、肋骨が内蔵を傷つけて、呼吸をする度に痛い痛いと泣いていた。
母も泣いた。
息子に縋って泣いた。
そして医者を責め立てた。
どうして、痛み止めを打ってくれないんだ。
直ぐに麻酔をして誠を助けてやってくれ。と。
しかし、そんな母親に対して医者が答えた一言は、あまりにも酷い一言だった。
『麻酔が効かないんです』
母は耳を疑った。
しかし、同時に納得してしまう自分もいた。
そして、理解する。
ああ、この子は……神様から呪いを受けてしまったんだ。と。
麻酔のない手術が始まり、処置室の廊下で母は両手で顔を覆いながら息子の絶叫を聞いていた。
何度も、何度も、途切れることのない絶叫をその耳で聞いて聞いて聞き続けて……。
そして母親は壊れてしまった。
この瞬間から、母親は息子の事を“諦めた”。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
誠の朝食はいつも一人だった。
父は毎日早くに出勤するため、顔を合わせる事はなかったし、母も父と一緒に食事をとってしまう為に誠と一緒に朝食を取ることもない。
それは夕食も同様で、帰りの遅い父に合わせた母の生活スタイルと、夕方には寝入ってしまう誠の生活スタイルでは合わないのも当然とも言えた。
いや、合わせようとしていないだけだ。
流石に誠ももう子供ではないから、母が敢えてそうしている事くらいわかっていた。
2か月前に高校も卒業し先月から晴れて社会人の一員となっている。
例え、その肩書きがフリーターだとしても、家で引きこもっているよりはずっといいと解釈はしている。納得しているかと言われれば話は別だが。
誠は母が作ってくれた朝食を平らげると、食器を洗って台所から見える1つのドアに目を向ける。
何の物音もしないが、その中で息を潜めて息子が家から出ていくのを待っている人が居る事もよくわかっていた。
だからこそ、本来であれば引き篭っていてもおかしくないような境遇の中、バイトとは言え必死に仕事を探す動機になったのだ。その点に関しては感謝してもし足りない存在だったかもしれない。
「ごちそうさま。行ってくるよ。母さん」
扉に向かって声をかけるが、誠が外に出るまでの間その扉が開かれる事はついぞなかった。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
朝の空気は毎日僅かだが違う。
その理由は季節によるものだったり、天気によるものだったり、はたまた車の排気ガスに塗れているか、馬車馬の糞の匂いが漂っているか……。
いろいろあるがとにかく違う。
そういう意味では、長い冬を超えて新たな息吹が芽生え出す春の朝の空気は、誠にとって気持ちのいいと表現するには十分であると言えた。
もちろん、満点ではない。
誠の中の満点は、“あちら側”の夏の草原の朝の空気だ。
夏の草原に大の字に寝っ転がって、存分に空気を吸ったなら、自分の境遇も忘れて一時の幸せに浸れるのではないかという気持ちになる。
そう考えた時ふと、誠はほんの数時間前の事を思い出す。
春の夕暮れ。
大の字に寝転がる自分。
その隣で静かに腰を下ろしていた美少年。
自分の手を握り、何事かを囁いていたように思うが、最後の辺りがモヤが掛かったように思い出せないのはいつもの事だ。
風に揺れる青みがかった白髪は、夕日に照らされて赤みを帯びて輝いていた。いつも無口で無表情。
そのくせ、自分が眠る直前に限り柔らかく微笑んでいる事が多いように感じる。
それは物心着いた頃からずっと同じで──
「やめ、やめ!」
そこまで考えた所で、誠は大きな素振りで自分の目の前を両手でクロスするように振り払うと、考えを打ち消すように息を吐く。
「“あっち”は“あっち”。こっちはこっち。だ。夢の事で一々心動かされちゃ堪らんよ」
誠は自らの記憶を“夢”の一言で断じると、手にしたカバンを握り直す。
何時しか誠は“あちら側”の記憶を唯の夢だと思うことにしていた。
そもそも、あの世界はこちら側の誠からすればありえない事のオンパレードだったからだ。
剣と魔法の世界。
思春期の男子の夢見る王道ファンタジーの世界。
最も、誠の見る夢は王道と呼ぶにはリアルにすぎて、夢と言い切るには救われ無さすぎる内容だったが、それでも、夢の中の自分は初級とは言え魔法を扱う事が出来た。
“あちらの世界”では劣等生でも、こちらの世界であったなら一躍有名人か、悪くて研究所送りだろう。
誠は自分の右手を見る。
握りだこが出来た固く無骨な掌だが、夢の中の自分はこの手から魔術を放つ事が出来たのだ。
そして、それは眠る直前まで手を握ってくれていたあの少年も。
「……ソル!」
誠は右手を前方に向けると、呼び慣れた魔術の起動ワードを口にする。
しかし、その掌には魔力の温かみも感じなければ、魔術が発動する事も当然なかった。
「……何してんの? 誠君」
若干引いたような声を聞いたのはそんな時だった。
現在の誠はカバンを左手に持ちながら、右手を前方に伸ばしてポーズをとっている。
腰を若干落とし、演技がかったシリアスな表情は小学生のごっこ遊びを彷彿させる。
それが、本当に小学生だったのなら微笑ましい一時で済まされたのだろうが、生憎誠は今年18になったばかりの青年だ。
ごっこ遊びはとっくに卒業していていい年齢であった。
「あ、いや、実はさっき目の前に突然飛び出した虫けらがいたもんで、思わず『取る!』と。別に深い意味はありません」
「……へー。ま、別に深くは突っ込まないけど」
誤解を誤解のまま飲み込んでくれたのが幸いだったのか、誤解を解く機会が永遠に失われた事に不幸と感じるのかは個人の感性による所が大きいが、取り敢えず誠は前者だった。
魔術のポーズを解除して声のした方に振り向き、小首をかしげたまま腕を組んだ大男に向かって歩を進めた。
「相変わらず早いですね。赤城さん」
「そうか? 言うほど早くないと思うよ」
誠の言葉に今度は反対に首をかしげた大男に、誠は自然な笑みを向ける。
大男の名は赤城。
彼とは誠が以前通っていた柔道の道場で一緒になった頃からの付き合いだ。
“あちら側”の影響を強く受けていた幼少時代に、初めは剣道を習いたいと考えていた誠だったが、剣道の道具が恐ろしく高い事を知って、柔道を習う事に変更したというエピソードがある。
結局長続きはしなかったのだが、その理由が目の前にたつ赤城によるもので、赤城自らが誠に柔道その他を教えると言ってくれたからだった。
理由は単純。
学校が終わった後の柔道教室は、常にタイムリミットに達してしまい、まともな練習が出来なかったのだ。
赤木も初めは迷惑な子供としか思わなかった。
しかし、強くなりたいから格闘技を覚えたいんだと訴える誠に心を動かされ、朝と夕方に訓練に付き合う事を買って出てくれた。
既に国体にも出場するくらいの腕だった赤城は、柔道以外にも様々な格闘技を齧っており、教わる誠も実戦形式の武術に非常に高い関心を示したものだ。
本人曰く「喧嘩殺法だ」との事だが、赤城の周りで荒れた話を聞く事など全くなかったので、恐らく悪ぶりたい年頃だったのだろう。
国体に出場出来る程の実力だったとは言え、毎回一回戦、二回戦で負けていた事だし、様々な武術に浮気したからこそ一つを極める事が出来なかったとも言える。
しかし、誠にとってはその点も赤木に対して共感できるポイントではあった。
ある程度いろんな事が出来る人間は、1つの事を極める事が出来ない実例をよく知っていたから。
「そう言えば、就職したんだっけ?」
そんな赤城が、誠の手に持つ鞄を見ながら言ってくる。
普段から外出する事が多い誠だったが、その場合制服かジャージのどちらかであった為、私服に鞄というスタイルが珍しかったからだろう。
だから、誠は少し恥ずかしそうに片目を閉じながら頭を掻くと、
「バイトです。流石に俺の体質で就職は無理でした」
「……そっか」
ある程度は誠の家庭環境と体質の事を聞いていた赤城は神妙に頷いた後、視線を誠の自宅に向ける。
「いつか、分かり合える日があればいいな」
そして、そうポツリと呟いた赤木に対して、
「期待しないで待ってますよ」
誠はそう口にして手を振りながらその場を後にした。
そんな誠の態度に赤城は少しだけ困ったように頭を乱暴に掻き毟った後、何事もなかったように朝のジョギングを再開した。
いつもではないがよく見る光景。
武で繋がった二人に多くの言葉は必要ないのである。
~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
「いらっしゃい」
片桐 音音はコンビニエンスストアであるスターリーフの店長だ。
抑揚のない声に腰まで伸びた黒髪をピクリとも動かさずに淡々と言葉を紡ぐその姿は、マネキンにマイクを仕込んだ接客装置と勘違いしそうになるが、これでも立派な人類である。
「おはようございます。店長」
その証拠に、誠の声に反応した音音は、ギギギと音がなりそうな動きでゆっくりと誠の方に顔を向けると、やはり無表情で答えた。
「おはよう塩山くん。早速だが仕事に入ってもらえるか。本が読みたいんだ」
「分かりました」
「頼むぞ」
挨拶を交わして店の奥に入る誠に目も向けず、音音は再びマネキンと化す。
対人能力が最低で、ついでに勤労意欲も殆どない。
片桐音音とはそんなどうしようもない人間だった。
ともあれ、誠にとっては恩人であることには変わりない。
時給こそ最低賃金ではあるものの、繁盛しているとはお世辞にも言えないこの店では、誠の給料を払うのも一苦労だろう。
一応、「塩山くんが来てくれるようになってから売上も上がったから問題ない」とは音音の言葉だが、それでもしれたものだろうとは思っていた。
高校を選ぶ時もそうだったが、午後6時というタイムリミットを持つ誠にとって、通う場所が家から近い事は最低条件に挙げられる。
更に、残業もなく必ず午後6時までに家に帰れる職場などパートかバイトくらいしかありえない。
家から遠くなれば当然終了時間は早くなるし、いずれ自分一人で生きていく事を考えれば、収入的にも心許ない。
そんなこんなで家の近所でバイト募集していたのがこのコンビニ位だったのだが、いかんせん店長の音音の人格がアレなだけに、今まで誰も面接に来てくれなかったらしい。
そういう意味では、音音の人格は誠にとっては歓迎するべきものだった。
「商売というのは難しいな」
音音がそんな呟きを漏らしたのは、そろそろ午後3時に差し掛かろうという頃だった。
誠の業務は16時までであるため、誠の方は引継ぎの為の業務をやりながら接客していた所だったので、その呟きを耳にできたのはある意味偶然だったといってもいい。
「そうなんですか?」
「うむ。君がレジに立っている時と、私がレジに立っている時の売上の違いを見るだけで、嫌な現実が見えるというものだ」
16時が近づくに従い徐々に客足が減っていくコンビニ、スターリーフ。
つまりは現在店内の客はみるみる減って……というより、先ほど誠が対応した客が最後の客だったわけだが、手が空いたことで店の奥の住居スペースに目を向けた誠が見たものは、帳簿を片手に棒付きの飴を揺らして舐めている音音の姿が見えた。
てっきり読書をしているのかと思ったが、いつの間にか小説が帳簿に変わっていたらしい。
「こう見えて商売人の娘だというのに、蛙の子は蛙。とはいかんものなのだなぁ……」
帳簿を床に放り投げ、咥えた飴の棒をユラユラと揺らしながら天井を仰ぐ音音を、誠は黙って見つめる。
商売人の娘とは大きく出たとは思うが、コンビニも商売なのだから間違いではないだろう。
しかし、誠の記憶が正しければ、この店ができたのはほんの数年前の筈だ。
その前にこのあたりに何がしかの商店があった記憶がないから、ひょっとしたら音音は元々は地元の人間ではないのかもしれない。
だから、誠は提案する。
「次のシフトは休み無しでもいいですよ?」
「……何?」
誠の提案に音音は体を起こして誠を見る。
ゆらりと髪を揺らした無表情がなんとも恐怖心を煽ったが、敢えて平常心で。
「どうせ休日といってもやる事ありませんしね。一日の時間も短いし、構いませんよ。それで店の売り上げがあがるなら、店長としても得じゃないですか?」
誠の言葉に音音は珍しく思案顔になる。
実際表情の変化が乏しい音音だが、よく見ていれば様々な表情を見せる事がある事を、1ヶ月程の付き合いとは言え誠はよくわかっていた。
「……悪い話では……ない。しかし、本当にそれでいいのか?」
「いいんです」
音音の言葉に誠は即答する。
「休日も無意味に外出する事になるのなら、ここでこうして働いていたほうがずっと結意義なんです」
視線を外し、そう口にした誠を見ながら、音音はしばらく考えたあと、口の中の飴を一気に噛み砕き、残った棒をゴミ箱に向かって吐き出した。
見事なコントロールでゴミ箱に飛び込んだ飴の残骸の確認もせずに音音は立ち上がると、
「わかった。お前の提案受け入れよう。ただし──」
言いながら音音は誠に向かって指を差し、
「その後の甘えは受け入れんぞ」
「わかってます」
笑いながら答えた誠の答えに満足したのか、音音は頷いた後店の奥へと姿を消す。
恐らくレジに入る準備をしに行ったのだろう。
誠は店内に掛けられた時計がもうすぐ4時を知らせようとしている事を確認し、引き継ぎ作業に戻る。
そんな時だった。
「これ」
声に反応して顔を上げると、カウンターの反対側に一人の少女が立っていた。
年齢は十代中盤。恐らく中学生か高校生だと思われるが、平日のこの時間に制服を着ていない事にちょっとした違和感を覚える。
最も、様々な理由で昼間の学校に行っていない人や、中には私服の学校もあるだろう。ひょっとしたら早退でもしたのかもしれない。
誠は頭の中に流れる違和感を様々な可能性で潰していくと、少女が差し出した商品のバーコードにリーダーを当てる。
商品名はいちごガム。
値段は98円。
誠は慣れた手つきで料金を受け取り、お釣りを渡す。
受け取ったのは100円だったから渡したのはレシートとアルミ製の硬貨2枚だけだがお釣りはお釣り。
しかし、お釣りを受け取った後も少女はカウンターの前から動こうとしない。
時計の針は4時を回って5分経過している。
本来であれば既に誠の帰宅時間だが、接客中は引き継げないのがこの店でのルールだ。
だからではないのだが、誠の心臓は何故か早馬のようにバクバク響く。
直ぐにこの場から逃げ出したい衝動にかられた。
何故?
わからない。
ただ、目の前の少女の雰囲気が、誠のよく知った人間のものと被ったからだ。
それはこちら側の人間ではなく、“あちら側”の見知った人物ではあったのだが……。
「あの、お客さ──」
「ソル・ヴァールハイド」
早く帰ってもらおうと声をかけた誠の両目が、少女の言葉に驚愕で見開かれる事となる。
目の前の少女が口にした名前。
それは誠がよく知る名前ではあったものの、“こちら側”の人間が知るはずのない名前であったからだ。
わからないわからないわからない。
絶句し、その場で硬直する誠を見て、それまで無表情だった少女の口角が釣り上がる。
それは笑顔というには悍ましく、さながら獲物を見つけた捕食者のようであった。
どれくらいの時間が経ったのか。
誠にとっては永遠とも感じた空間は少女の次の行動によって唐突に終りを告げる。
「────」
少女は誠を真っ直ぐ見つめたあと、すぐ傍にいなければ聞こえない程の声量で一言呟き、店内から去っていった。
「……ぷはっ!」
帰る少女の姿を確認する事でようやく金縛りが溶けたかのように誠は息を吐き出すと、その場で力なく座り込んでしまった。
心臓の鼓動は早く、酸素が足りないとばかりに呼吸も荒く深い。
今までこんな体験はした事はなかった。
少なくとも“こちら側”では。
「今の子は知り合いか?」
そんな誠の傍らに立ち、『スターリーフ』のロゴが入ったエプロンを身につけた音音が誠に向かって問いかける。
その声色は本当に世間話の延長のような声色だったから、きっと周りから見たら2人の挙動はおかしくはなかったのだろう。
それでも、これほど長時間見つめ合っていたのだから、少しくらい心配してくれも……。
そう思い、力なく立ち上がった誠が時計に目を向けて再度驚く。
「……4時……8分?」
永遠に感じた時間はたったの3分だった事を知り、誠はカウンターに手をついて大きく息を吐き出した。
「お、おい。塩山くん」
流石に異常を感じたのか、音音が心配そうに歩み寄るが、誠はそれを右手でやんわり制して、
「……大丈夫……です。帰る準備をしていた所に虚をつかれて少し驚いただけです」
「しかし……」
「本当に大丈夫ですから。──お先に失礼します」
フラフラと横を抜ける誠の肩を一瞬掴む素振りを見せた音音だったが、結局それは諦めてその背中を見送る。
今は疲れてしまった誠だが、明日には元気に出勤してくるだろう。そう気持ちを切り替えて。
一方誠はそんな音音の気遣いなど夢にも思わず、先程の事で頭が一杯になっていた。
“あちら側”の自分の名前を知っていたあの少女。
アレが誰かは分からないが、もしもアレが“あちら側”の関係者だったなら、あの世界が夢の世界ではなくなってしまうではないか。
どうやって着替えたのかも分からず、いつの間にか見慣れた歩道を歩いている誠の行先には、黄昏色に染まった空が見える。
それが過ぎれば夜がくる。
しかし、生まれてこの方夜を見た事のない誠にとって、その姿は写真で見た知識でしかない。
それでも誠は感じたのだ。
あの時の少女の雰囲気に確かな『夜』を。
「……うぷっ」
右手で口を抑えて歩道の脇にしゃがみこむ誠の耳に、少女の最後の呟きが離れない。
あの時少女は確かに言った。
『見つけた』
と。