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仮面シリーズ

仮面にキスを

作者: 椎名

堅物会長(俺様気味)×副会長


『副会長倶楽部』様の企画に参加した作品です。URLはこちら↓

http://lyze.jp/fukukaichoclub/


加執筆、修正を行いました。2015/04/02


会長視点→『仮面に愛を』

 

 僕こと『花京院織色(カキョウインシキイロ)』は、とある学園の高等部で生徒会副会長を務めている。

 所謂一部のマニアックな趣味を持った皆さんに『王道』と呼ばれるような学園だ。さらにいうと、僕自身が、『王道副会長』とやらのキャラをこなしている。


 え? それじゃあよくわからない?

 そうだよね。うん。ちゃんと説明するよ。


 学園の名前は『神梛(カンナギ)学園』

 神なんて付いちゃって随分大層に聞こえるけれど、なんてことはない。神梛はこの土地の名前だ。

 何でも、昔この辺は土地神を祀る神域だったらしい。そこを開拓して神梛町が出来たわけ。

 そんな名残からだろうか。まだまだ人工的手の入れられていない豊かな自然が多くて、この神梛学園が建つ地もなんと山の中なのだ。さらには、全寮制男子校の中等部からのエスカレーター式。


 ――おかしいよね? 男子校はまあいいとして、山の中の全寮制だなんて。

 まるで、“外界から生徒達を隔離しようとしているかのようじゃないか”。


 ……なんて。気でも何でもなくそれが真実なのだけれどね。


 この学園に通う子供達は、由緒正しい家柄を持った、将来日本の未来を担う事を約束された良家の子が多い。

 たまに厳しい試験審査面接を潜り抜けて奨学生として通う才能溢れた一般家庭の子もいるけれど、本当に滅多にない話だ。それこそ十数年に一度の確率なのである。


 ――それもその筈。元々この学園は、華族や貴族の子息達が余計な種を振り撒かぬよう、監視し管理する為に造られた箱庭なのだから。


 まあそれも遥か昔の話で、今ではちょっとした悪習を残しただけの閉鎖的な学園でしかなくなったのだけれどね。


 ――その悪習が、通う上で一番の問題になる事は間違いないのだけれど。


 ではその悪習とはなんなのか。


 有り体に言えば、――『同性愛』である。


 考えても見てほしい。齢十二、又は十三の思春期真っ只中に教師すらも同性で囲まれたこんな密閉空間に押し込められたとしたら。

 思春期特有のそういった興味好奇心は何処へ向ければ良いのだろうか。何処で発散できるのか。


 ――華奢な、より異性に近い『同性』に向かうのだ。


 人間には適応能力というものがある。その場での“最善”策を考える能がある。

 ……まあ、そういった趣味のない、生理的に嫌悪を覚える人間には最善もくそもないだろうが。


 兎にも角にも、若い彼らのフラストレーションが同じ『彼』へと向かい、一般社会には到底理解できない独特の文化が神梛学園にて築き上げられてしまった事を前提として理解しておいてほしい。


 さて、ここまで長々と語ってきた学園事情だが、これまでの流れをなんと『王道』の一言で理解できてしまう人種がいるのだという。

 男同士の恋愛を至高とし、時には妄想、時には創造と、細々と活動する日陰の人々。――そう、腐女子、腐男子と呼ばれる者達の事だ。


 彼ら彼女ら曰く、生徒会、またはそれに準ずる組織委員会役員達は皆美形である事。

 曰く、生徒会は生徒達の信仰神とも言える存在である事。

 曰く、生徒会役員は全校生徒規模にて行われる人気投票で決まる事。

 曰く、生徒会会長は傍若無人な俺様、副会長は美しいが腹黒い食えない人物である事!


 これらが、彼ら彼女らが延々と唱える『王道』の条件。そして、何とも信じられない事に以上に上げられた条件の殆どが我が校に該当してしまうのである。本当にどうなってるの。


 ここまでが地盤であり、この『王道的全寮制男子校』に季節外れの転入生が来る所から大抵の物語は始まるらしいのだが、今回の“僕達の”物語には関係ないので割愛しよう。


 以上の話が真実ならば副会長という役職に就く僕はとんだ腹黒い嫌な人間に部類されるわけだが、

 ここまでの語りを見てそんな描写あった? ないよね? なかったよね?

 ――そりゃそうだよ! だって僕、ただのコミュニケーション障害、略してコミュ障だもの!!


 別にね、そんな人を貶めたりとか腹の中で笑ったりとかした覚えなんてないよ?

 僕はちょーっと人より人見知りが激しいだけの平凡少年のつもりだったんだよ?

 なのにいつの間にか、『クールビューティー』だの『鬼畜眼鏡』だのととんでもない称号が出来ていたんだよ。なんて理不尽。


 ああ、ちなみに名の読み方はオリイロではない。シキイロだ。この辺の認識については譲れないのでよろしく。

 両親も随分な名前を付けてくれたものだが、ちゃんと意味が込められているのでそれなりにこの珍妙な響きの名は気に入っている。……パラノイア的中二病感は否めないが。


 そんな、自称平凡を豪語する僕だが、(他称では一切言われた事がない点、多少の特異性は認めざるを得ないのだろうが。全くもって不本意である) 実は今、ある悩みがある。


 とてつもなく下らなくて、けれど解決策が見当たらない途方もない悩みだ。


 それは。


「今日も、いいか? ――オリ」

「はいはい、おやすいごよーですよ。会長サマ」


 生徒会内でも、冷戦状態が常に引かれた、歴代最高の不仲と噂されている『生徒会長』様の相談役を、ひょんなきっかけで請け負うことに為ってしまった、という事。

 ……まあ、この、頭が切れる割りに妙なところ抜けている会長サマは、『僕』の正体には気付いていないみたいだけれど。


 ――こんな奇妙な展開に転んでしまった事の顛末はこうだ。



 僕こと花京院織色は、緩い。性格的な意味で。

 自身でもこのヘラヘラした性格で、本当に社会に出てやっていけるのか不安になるくらいだ。

 そこで、考えた打開策が、『喋らない』だった。話すとボロが出る。ならば無口キャラを装ってしまおうと伊達眼鏡まで調達して冷静沈着な『私』を演じる事にしたのだ。


 僕の外見を説明するならば、純和風、の一言に尽きると思う。

 染めた事など一度もなく世話人達の手によって幼少期より丁寧に丁寧に手入れされてきた黒髪は、隅々まで栄養が浸透し艶やかな天使の輪とキューティクルを誇っているし、指通りも滑らかで気持ちがいい。僕は生まれてこの方、自身の髪から枝毛というものを発見した事がない。ちょっとした自慢だ。

 まあ僕ではなく使用人達の努力による結果なのだから、僕が誇るのもまた筋違いなのだけれど。


 顔立ちは、和風とはいっても江戸時代に描かれた浮世絵のようなのっぺりとしたものではなく、瞳は切れ長に、しかし長い睫毛がそこはかとない色気と共に影を作り、唇は薄いが血の色をより濃く妖しく見せている。――らしい。全て他人からの評価だ。友人曰く涼やかな色気があるのだそうだ。僕としては鏡を見てもイマイチよくわからないのでその場では曖昧に頷いておいた。


 肌は、紫外線を徹底的にはね除けた結果、真珠のような白い輝きを放ち、されるがままにケアされた触感はまるで餅のように柔らかくスベスベだ。正直これは男の肌ではないと思う。

 皆、過敏になりすぎじゃない? 男は多少傷くらいあってもいいと思うよ?

 まあ、焼いてみたいなんて一言でも漏らそうものなら、使用人達が卒倒しちゃうから言わないけれど。


 ここまで、全体的評価として『和風』以外の言葉を貰った事のない僕だが、ただ一つ、日本人にはあまりない特殊な部分がある。――目だ。

 僕の瞳は、日本人らしい黒でも焦げ茶でもなく、海のようなブルーなのだ。

 この一点だけは、眼球など全身全体から見てとても些細な部分だというのに、大きい。


 なんでも、曾祖母が美しいマリンブルーの瞳を持ったイギリス人だったらしく、隔離遺伝――所謂先祖返り、というやつなのだそうだ。


 おかげで苦労したものだ。――家族の溺愛から。

 一族で唯一珍しい瞳を持ったからか、周りがそれはそれは我先にと構い可愛がりたがる。

 勿論、嬉しくないわけではないが、如何せん限度がある。

 小学生時代の運動会にて、一族全員が駆け付けその手に高性能ビデオを掲げ駆けっこのゴール前にディフェンスのように陣取られた経験だけは未だに夢に見る。……悪夢として。

 なお、僕がその時、本気の本気で怯え泣いた為、一族総出での応援は禁止となったのだと後から聞かされたが、とても笑えなかった。


 こういった経験から、僕はすっかり人見知りとなってしまった。コミュニケーションが過剰すぎて人見知りだなんて、本末転倒もいいところだ。


 けれども、元々の性格は素直で、……うん、その、ひどく無防備なのだと思う。

 友人や家族から耳にタコができる程言い聞かせられ、さすがに自覚した。


 そして、臆病な僕は決意したのだ。

 性格を変えられないのならば、せめて真逆の完璧な『私』を演じて見せようと。


 あまりにも極端な方法に思えるかもしれないが、これが意外と効果覿面で、今ではすっかり無口で人嫌いの副会長として認識されるようになった。

 無表情も追加されてしまった事は誤算だったが、僕の笑い方は、ヘラッやらニヘッといった、非常に気の抜けさせるゆるいものらしいので(家族談)これはこれで良かったのかも知れない。


 人見知りだからフレンドリーにとか無理だし。素の性格上、よく勘違いされるけれど。


 ――けれど、やはり窮屈な気持ちがない訳ではなくて。


 心を殺して、だなんて悲観するつもりはないけれど、思った事を素直に言葉にできない、というのは、想像以上に人にストレスを与える。


 だから、あの日。つい、羽目を外してしまったのだ。


 放課後だからと、油断していた。

 誰もいない校舎に、浮かれていた。


「――誰だ、お前」

「――へ、」


 大した意味もなく、陽の落ちる様子をじっくり眺めようと勝手に入った古典準備室。茜に満たされた室内に、ポツリと落とされた落ち着いた低音は、確かに僕へと向けられていた。


 焦った。それはもう焦った。

 焦りすぎて思考回路がエラーを起こすくらいには。


 だから。


「は、はろー。会長サマ」


 咄嗟に付けた埃にまみれた狐の能面。

 古典準備室の担当管理者である藤堂先生は大変ずぼらな人で、掃除や整理といった細かな作業を得意としていない。

 おかげで、準備室内は荒れ放題の埃まみれ。様々な貴重品がそこらに散らかった状態で放置されているのだ。能面しかり、巻物しかり。

 だからこそ、誰も入ってくる生徒などいないと高を括っていたのだが。


「……なんだお前は。何年何組だ。名乗れ」


 カツカツと土足式の廊下を、追い込むように革靴の音を高らかに鳴らしながら距離を縮めてくる会長。

 いくら初対面ではないといっても、相手からすれば今の僕は、狐面を被って勝手に古典準備室に侵入している不審者、もとい不審な生徒な訳であって、普段の冷静な眼差しとは違う、射るような鋭い目で睨み上げられた。

 うおお……高校生のする目じゃないよ。それ。


「おい、聞いているのか。名を名乗れと言っている」


 とうとう、会長の険しい顔が目と鼻の先になった。


 ああ、良かった。お面があって。きっと今の僕の顔、面白いくらいに冷や汗だらけだ。この人、信じられないくらい顔が整ってるんだもんな。

 こんな至近距離から覗き込まれたら、いくら男だってわかっていても、さすがに少し照れる。

 ……それ以上の焦りが、今僕をさらに追い込んでいるのだけれど。


 これが全く知らない他人だったなら、却って強気でいられたのかもしれない。

 けれど、『僕』は、副会長として彼を知っているから。



 ここで、件の生徒会長様の容姿の説明をしておこう。


 大変不本意ながら、僕を『美人』だと表すならば、彼に似合う言葉は『美丈夫』だろう。


 艶やかな黒髪は、清潔に首にかかるかかからないか程で揃えられ、一見硬そうに見える剛毛かと思いきや、昔、ひょんな機会で触れたそれは驚く程柔らかかった。

 一度癖が付いたら中々直らないタイプだ。僕がそうだからわかる。だというのに、あんなにも癖なく真っ直ぐな形を保っているということは、寝相が大変よろしい証拠だ。僕なんて、寝返りばかり打つから毎朝直すのが大変だというのに。……お世話係の皆さんが。

 寮に入ってからは自分でどうにかできるようになったけどね。


 瞳もまた、深く光を吸い込むオブシディアンのような黒で、東洋人の中でも珍しい純黒だ。

 黒目っていっても、大抵の人はうっすらと茶色味かかっているでしょう? それが彼の場合、本当に透き通った黒なのだ。

 その目は、誤魔化しや虚言を許さない、まさに誠実を表したような輝きを持っている。


 だからだろうか。

 彼に見詰められると、背筋が伸びる。

 心の奥底まで、醜い感情も、下心も、すべてを見抜かれているような気持ちになるのだ。

 きっと、そんな所も僕は、恐怖と共に尊敬している。


 肌は程好く焼け、見るからに健康的だとわかる。しかし、青春のシンボル、ニキビや吹き出物などは一切見当たらなく、それが却って彼が健康的食事、生活をしているのだと知らしめている。

 造形も言わずもがな。整っている以外の何が当てはまるというのだろうか。


 高い鼻筋は、とても日本人とは思えないくらいに太陽に向かい誇り立っているし、決して足下を見ることのない先を見据えた眼差しは、長い睫毛が作る影だけが唯一、彼の負の部分を負っているように思えた。そんな些細な部分でしか、自信の見えないところがないのだ。


 猫背などという言葉とは無縁な完璧な姿勢は、元々高い彼の身長をより大きく見せ、もやしと友人に例えられる僕と並ぶとまさに雲泥の差だ。僕の貧相さがさらに強調されてしまうのではないかといつも気が気でならない。正直、隣には並びたくないものである。

 いや、誰だってこの男の隣に立って『男』として比べられる気持ちは味わいたくないだろう。

 伴って、全体的にしなやかな筋肉で引き締められ、とても逞しい体型をしているのだとわかる。


 頭一つ分の身長差は、明らかに脚の長さが占めていて、制服の上着の下、彼のスラックスのベルト部分がひどく高い位置にあることを僕は知っている。まさに男の理想体型である。


 見た目を裏切らず文武両道、眉目秀麗、智勇兼備、と彼に当てられる四字熟語にマイナスを含んだものは一切ない。


 ああ、まったく。全くもってずるい男だ。

 頭も良くて、身体能力も良くて、人を惹き付け導く天性のリーダーシップもあって、見目も良くて。

 彼の頭の辞書の中に、果たして“欠点”という言葉があるのかどうか、一度割って調べてみたいものだ。なんて。


 さて、話を戻そう。



「えっと、僕は……」


 相手に此方の表情が見えない事を良いことに、うろうろ迷子のように目をさ迷わせた。

 逃げられそうにない。あの黒曜の目は、そう伝えている。


 ――仕方ない。こうなったら……


「――オリ、です」

「……オリ?」


 告げたのは、共に同じ組織内で働く花京院織色の名ではなく、織を訓読みした『オリ』という名。言うまでもなく偽名だ。


 いやだって、今の僕の格好で花京院織色だ、て言っても絶対信じてはもらえないだろうし。

 眼鏡はないし(そもそも狐面だし)制服は気崩しているし、学年別カラーになっているネクタイも外して、口調すら違うし。むしろどうやって気付けと。


 ただまあ、学年フルネームを教えない時点で、僕に身元を話す気がない事は彼に伝わってしまっただろう。

 さあ、ここからどう逃げようか。茜に紫が重なり始めた室内を、頭の片隅、現実から逃避するように眺めながら黙考していると。


「……そうか。わかった」

「――えっ」


 追及されるとばかり思っていた、彼の意外に厚い唇からこぼれたのは、なんと肯定の言葉。

 僕が発した名が必ずしも正しいものだとは限らない、という事実に気付けない彼ではないだろうに。


 ……見逃して、くれるというのか?


 思わず言葉を失ったまま、緋の影を被る彼の姿を凝視した。


「お前は、いつもここにいるのか?」

「えっ、……と、まあ、はい」


 嘘だけど。基本的には、気が済むまで校内を散策したらそのまま寮に帰るし。


 しかし、今さら弁解やら説明(と、いう程のものではないけれど)やらをするのも面倒なので、適当に頷いておきながら、さっさと飽きてどこかへ行ってくれないかなあ、なんて失礼極まりないことを心の中で呟いていると。


「――明日も、来る」

「…………は?」


 呟かれたその一言を最後に、会長は古典準備室を後にした。


「……え、え?」


 追い付かない思考の中、取り敢えずその日は帰宅し、

 翌日、どうしても気になって、まさかなあ、なんて思いながらも大して用事もなかった事から何となしに準備室に居座っていたところ。


「遅くなったな。――――オリ」


 ……ほんとに来たよ、こいつ。


 思わず唖然と、当たり前のように入ってきたその男を見つめた。

 我らが英雄豪傑な生徒会長様だ。


「あ、はは、昨日ぶりー」


 ヒラヒラと、緊張感の欠片もない声で、手の平を掲げながら男へと呼び掛ける。今日も狐面はしっかりと装備済みだ。


「ああ。……本当にいるんだな」


 パタパタと書類やら資料やら埃やらが乗ったソファを叩き落とし、面積を確保しながら腰掛ける会長。


 え、まさか居座る気?


「……えーと、何かあったの? 会長サマ」

「何かなければ、ここにいては駄目なのか?」

「えっ」


 澄んだ瞳で問い返された言葉に、思わず間抜けた声を洩らした。


「え、あ、え、そんなことは、……あー、じゃあ、はい」


 訳も分からず頷いた。

 我ながら、なんて適当さだ、と思わなくもないが、あの会長に威圧感なく話し掛けられるのなんて初めてだったので、勝手がよくわからないのだ。

 副会長の時は、なんでか滅茶苦茶睨まれるしね。

 僕なんかしたっけ? 初対面からやらかした? 人見知りなりに、精一杯挨拶したつもりだったんだけどな。


「……そうか」


 スッと彼の人差し指が、微かに唇に触れる位置にまで移動する。


 あ、あれ会長がもの考える時にする仕草だ。僕は勝手に『考える人のポーズ』て言ってるけど。


「――では、お前に相談に乗ってもらう」

「…………ふぁい?」


 少し意識を飛ばしている間に、話はとんでもない方向に進んでいたようだ。


 待て待て、今、なんて?


「だから、お前にここで俺の相談に乗ってもらいたい。それなら話す理由になるだろう。――オリ。お前は今日から俺の相談役(アドバイザー)だ」


「………………はい?」



 有無を言わせぬ強い言葉、もとい命令。


 ――こうして、

 偶々入って偶々見付かって偶々会話した古典準備室は、『生徒会長専用お悩み相談室』となった。




 さて、そんなこんなで不可抗力的に請け負う事になった相談役だが、初めは他愛もない世間話(それでも、天下の生徒会長様と世間話をしているという事実に大いに畏れ震えたが。)だったというのに、最近、彼の口から語られる言葉の中に、ある人物の名が現れるようになった。というか、毎度その人についての相談、(いや、どちらかというと愚痴に近いかも知れない)なのだ。――その人というのが。


「……――それで奴はこう言ったんだ。『そんな簡単な処理も期限内に出来ないなんて、小学生からやり直した方がいいんじゃないですか?』てな。その後はもう、大変だったさ。泣き付く会計をあやしたり、怯える書記を宥めたり。確かに期限を守れなかった会計が悪いが、それにしても、何故奴はあんなにもひねくれた言い方をするのだろうか。――――花京院織色は」

「あ、はは、は。そッスね……」


 そう。僕 の こ と !

 何が嬉しくて自分自身の話(しかも悪印象)を聞かされなきゃならないんだ!


 大体、その話だって、僕は何度も会計に期限までの間に提出するよう、口を酸っぱくして言ってきたんだ。なのに、やれ風邪気味だの夜の約束がどうだのこうだのとのらりくらり逃げてきたのはあのチャラ男だろう。

 そりゃキレたっておかしくないよ。というか『私』のキャラ上、怒らなきゃおかしい。


 なので。


「まあ、副会長に非はないんだし、しゃーなくない?」


 僕は断固『花京院織色』を援護しますとも!


「えっとさ、会長サマは副会長の事、嫌いなの?」


 おそるおそる問い掛けてみる。

 ……その答えが是である事はわかりきっているけれど。


「――いや、嫌ってなどいない」

「え、」

「むしろあいつの要領の良さには、感心を覚える」


 思わぬ返答に、ポカンと口を開いたまま静止した。

 相手には、この狐面の境界のおかげで伝わってはいないだろうけれど。


「あいつは、何だって出来る。涼しい顔をして、どんな仕事も人一倍の成果を残して見せるんだ。俺は、そんなあいつの完璧さを高く評価している。――だからこそ、嫉妬してしまうんだ。あの何も映さない無機質なブルーに、『俺』という存在を刻み込みたい。認められたい」


 スラスラと淀みなく告げられる独白に、相槌すらも打てずに呆けた。

 え、えっ、これ、会長だよね? 双子とか偽者じゃないよね!?

 いや、会長程にもなったら、影武者のひとりや二人、いてもおかしくはないかもしれない。……勿論冗談だけれどさ。半分。


「すまない。俺があまりに情けない弱音や不満ばかりを語るから、誤解してしまったんだな。俺は、――花京院織色を嫌ってなどいない。むしろ、共に肩を並べられる信頼関係にありたいと思っている」

「――、」


 脳が、時を刻む事を忘れた。

 一分にも満たない、長い長い時間。その瞬間だけに、全ての意識が囚われた。


「オリ?」

「あ、や、えと、な、仲良かったんだ」

「いや、良くない。最悪だ。あいつは俺を見下している。俺の処理スピードが遅いから、俺の仕事にまで手を付けて、俺より先にそれをひょうひょうとした顔で終わらせるんだ。きっと内心、この程度も満足にこなせない男なんだと嘲笑っているのだろう。だからつい、俺も喧嘩腰になってしまうんだ。あいつが正しいのはわかっているんだがな」


 複雑そうに苦笑いを浮かべる会長に、思わず指に力が入った。


 えええー!? 見下してないよ! とんでもない誤解が生じてない!?

 あれは普通に、会長大変そうだなー。あ、これだったら僕でも処理できるわー。よし、手伝おう!

 みたいな純粋な善意からくる厚意であって、

 てか会長、真面目なのかネガティブなのかわからん!!


 思わず花京院織色としての弁解が口を付いてしまいそうになるが、唇に触れる面の無機質な感触に、今自身が『オリ』である事を思い出し、ぎりぎりの所で思い留まった。

 うう、僕だって会長と仲良くしたいのに……!


 ていうか尊敬しているのはむしろ僕の方だよ!

 この人こそ本当の『完璧』だし、カリスマ性凄いし、俺様だけどそこに実力が伴っているし……

 っとにかく重度のコミュ障である僕なんかよりも、何十倍も何百倍も尊敬できる対象なんだよ!? 僕めっちゃリスペクトしてるよ!?


「オリ?」


 ブルブルと、力みすぎて微かに震えている僕の指に気付いて、怪訝そうに会長が眉を顰めた。


「あ、の、たぶん、その、……副会長も会長サマのこと、嫌ってないと、思うよ」


 むしろ超尊敬してるよ!


「だから、その……、――ちょっと、話してみたら?」


 これは、完全なる『僕』の我が儘だ。


 もっと話したい。もっと、あなたのことを知りたい。


 笑うと右頬の口角がより上がること。聞きに徹する時は少し目を細めること。年相応に冗談を飛ばすこと。警戒しない相手にはこんなにも、無垢な顔をすること。

 全部、『花京院織色』は知らない彼。


 ああ、その表情を、仮面を除いて見てみたい。フィルターのない世界から、会話してみたい。

 ――『僕』に、気付いてほしい。


 じわじわと名もわからぬ感情が、脳の伝達機能へと侵入していく。貪欲に欲っせと、傲慢な命令を流す。

 ああ、くそ。こんな余計な思考回路なんて、焼き切れてしまえばいいのに。


「……そう、だな。――明日、話し掛けてみる」

「――っ」


 やんわりと笑った会長のその柔らかな笑みに、ドクリと心臓が音を立てた。



 そして翌日。


「…………」

「…………」


 ――いつ、話し掛けてくるんだこいつううう!


 放課後、ドキドキと煩わしい程忙しなく血液を回す心臓に、いい加減落ち着け、と言い聞かせながら待つこと数秒数分数時間。しかし、どれだけ待てども一向に彼の厚めの唇が開く様子はない。ただ黙々と作業をこなすばかりだ。


 くそう。挙動不審になりすぎてさっき熱々のコーヒー手に溢しちゃったし、もうほんとツイてないよ。

 保健室に保冷剤をもらいに行くのを皆目に逃げ出してやろうか。


 クシャリと万年筆のインクの滲んだ書類がシワを作る。あっ、やっぱり手の甲、若干赤くなってる。

 もう、朝から心拍数上がりまくりだし、手は痛いし、なんで僕がこんなに緊張しなきゃならないんだよーっ!


 普段以上に重苦しい空気に、予想以上に響いてしまったプリントの撚れた音は、ピクリと会計と書記の肩を揺らした。


「は、はなちゃん? えっと、機嫌悪い? 昨日のこと、まだ怒ってる?」


 涙目で僕に声を掛けてきたのは、ビクビクと小動物のように瞳を游がせる下半身バカもとい会計。まあ、その見て呉れは、間違っても小動物なんて可愛いらしいものではないが。上にばっかり伸びやがってこの細マッチョが。

 ちなみに『はなちゃん』とは僕のあだ名である。花京院の花から取ったそうだ。安直だね。


「もう怒ってなどいませんよ。それとも、貴方には私がいつまでも根に持つような人間に見えているのでしょうか」

「ひいッ! 滅相もゴザイマセン!!」


 会計が、妙な奇声を上げながらビックンと大袈裟に跳ねて飛び退いた。

 えっ、僕今、そんなに怖いこと言った?


「うええ、京ちゃんが怖いよう」


 ぴるぴると震えるもう一人の小動物は、後輩である書記だ。

 しかし僕は知っている。彼のそれが演技であることを。本物の腹黒こええ。

 こちらは花京院の京から取ったらしい。二人してそんなに僕の名字が好きなの?


「……カイチョー?」

「かいちょお?」


 緩慢に立ち上がった会長に、書記と会計の二人が怪訝そうな声を上げた。影を作る副会長専用業務用デスク。

 お、おう……? どうしたの、会長。


「……会長?」

「花京院」


 耳に心地好い低音が紡いだのは、確かに僕の名前。


 き、きた……! やっとか!


「――代われ」

「……はい?」

「だから、代われ」


 突っ慳貪に寄越された一言は、全く予期していなかったもので。

 いや、あの会長様が『副会長』に掛ける言葉なんて、なにも予想つかなかったけれど。


「えっと、」

「今日はもう帰っていい。後は俺がする」


 言うが否や、書き掛けだった書類を強引に取り上げられた。


 え、ええええ。


「なにそれズルーイ! だったらオレのもやってよカイチョー!」

「煩せえ、黙れバ会計」

「アタッ!」


 パコーンと、明るい茶の髪を丸めた書類で軽く叩き、自身の席へ戻る広い背中を呆然と見上げる。


 なんという横暴さ。

 いや、でも、うーん、……これは、気を遣ってくれた、と考えていいのかな?

 もしかして手を火傷したの、気付かれてたかな。

 一応、オリの時とは違って、袖まできっちりとカッターシャツのボタンを留めているから、他人からは見えない筈なんだけど。


「……会長」

「あ?」

「――ありがとうございます」


 振り返った、いつでも不機嫌そうな彼の美貌に笑みを向けた。


「――――ッ、いや、こちらこそ、……いつも助かっている。ありがとう」


 視線を合わせる事なく返された言葉は、不器用な温かさに満ちていて、彼の艶やかな黒髪から微かに覗いた形の良い耳が、その赤さに彼の隠された感情を表していていた。


 ――ああ、やっと、


(……少し、近付けた、気がする)




((女王様と俺様がデレたッ!?))


 その日、とある生徒会室内では、ふわふわと満足気に花を飛ばす二人と訳も分からず戦慄する二人に、空気が分かれたそうな。




「――というわけで、遅くなった」

「それはイイコトしたねえ。会長サマ」


  生徒会活動を終了した放課後。例の古典準備室で今日も僕達は落ち合っていた。

 話題は勿論、『花京院副会長』についてだ。


「まあ、あいつにとっては余計な世話だったかも知れないが」

「そんなことないよ。絶対喜んでるって! なんたってあの会長サマが気を遣ってくれたんだから」


 きっと今、僕の顔はひどく締まりのない笑みで溢れている事だろう。狐面があって良かったような、残念なような。


「そ、そうか……」


 会長が忙しなく瞳を揺らしながら呟く。落ち着かないその様子に、一つパチリと瞬きをした。


 えっ、なにその反応。もしかして照れてる? 照れてるの? うそっ、なにそれかわいい!!

 じわじわとむず痒いような、気恥ずかしいような、なんとも言えない感覚が沸き上がった。


「……あいつ、」

「えっ!? あ、はいっ! うん!」


 突然掛けられた声に、引っくり返ったかのような声を上げてしまった。

 うひー、びっくりしたあ。僕の考えてること、バレたかと思った。


「あいつ、――笑ったんだ」

「え?」

「俺に向かって、『ありがとう』て。凄く綺麗に」


 柔らかな声。落ち着いた低音。温かな、瞳。

 紡がれた言葉の一つ一つが、たおやかに僕を縛り付ける。


「あんな顔、出来るんだな。――また、見たい」


 ゾクリと緊張が背筋を走ると共に、異様な熱が顔に集まった。頬が熱い。じりじりと神経的な何かが焼けている気がする。


 な、な……なにこれなにこれ、なにこれ! なんでこんな恥ずかしいの!? ていうか、会長デレ!? デレなの!?


 ――いや、違うよな。

 僕が知らなかっただけで、――知ろうとしなかっただけで、会長は、僕みたいに性格を偽ったりしていない。


「……? おい。お前、手、」

「……会長も」

「オリ?」


「――会長も、笑ってよ」


 何か言い掛けた彼の言葉を遮って、スルリと願望が漏れた。


 生徒会室での、『私』の前での貴方はいつも顰めっ面で、難しそうな顔をしていて、

『僕』はそれが――――


「……オリ? どうした?」

「えっ、あ、いや、ご、ごめん! やっぱなし! 今のなし!」


 自身のとんでもない失言に、思わず顔を伏せた。

 なっ、なに言ってんだ突然! 会長の笑顔なんて見たら、それこそ……!


(――“それこそ”? それこそ、なんだ?)


 パタパタと意味もなく頬に風を送るように掌を扇がせていると、急にその手を目の前の彼にやんわりと掴まれた。


「か、会長?」

「……オリ」


 狐の面越しに合わさる黒とブルー。


「――いつも、ありがとう。感謝している」


 息を、忘れた。できなかった。

 彼を映す、視覚以外、機能が全て停止した。


 ゆるりと弧を画き、下心も邪気もまるでない、無垢な少年のような、母へ愛を伝える子供のような、そんな、あまりにもやわらかな、笑み。


「……ッ」


 今更、思い出したように心臓が煩く脈打った。


 ああ、もう、クソッ、

 ――ッ心臓に悪いんだよこの天然タラシがああああっ!!!




 それ以来、会長の『副会長と親交を深めよう作戦』は僕の案の元、次々と実行為されることとなったのだが、これがまた何故か失敗する。

 いや、勿論相手は『僕』なんだから会長が何しようとするかとか予めわかってるんだけどさ、『私』のキャラ上素直になれないというか、なんか反発しちゃうというか。

 あーもうっ、オリの時はあんなに自然に話せるのにーっ!


「はなちゃん? 具合悪いの?」

「は? 何故ですか会計」

「いや、さっきからため息ばっか吐いてるから」


 生徒会室に向かう途中、偶々廊下で合流した会計に、不思議そうに問われた。

 えっ、そんなに顔に出てた?


「なんか悩み事? オレでよかったら聞こうか~?」

「…………貴方に?」

「明らか信用してない目!」


 ガンッと大げにショックを受けたフリをしながら、会計がめそめそと泣き真似をした。

 あれだよね。こいつのウザさはもはや通常運行だよね。


「……それで? 冗談抜きにして、なんかあるなら聞くよ?」


 ……この不器用な優しさも。


「……例えば、例えばですよ? 決して私の話ではありません。例えばです」

「うんうん、例えばね~。(はなちゃんの話かあ。わかりやすいなあ)」


「ある人が話掛けてくると、異様なくらい緊張して、上手く話せなくて、でも色々話したくて、なのに近付くのが怖い。……これって、なんだと思います?」


 そっと囁くように呟く。


 ここ最近、いや、会長にオリとして出会ったあの日から、燻り続けている名もわからない感情。

 オリとしての『僕』と副会長としての『私』。どうしてこんなにも違う? どちらも『僕』で、彼と仲良くしたい気持ちは、変わりないのに。


「……わーお、」

「………………なんですかその顔」


 妙な声を上げた会計に、チラリと隣を見遣ると、いつもヘラヘラと掴めない態度で笑っていた彼が、ポカンと信じられないものでもみたかのように阿呆面を下げていた。


「そっかそっかあー、とうとうはなちゃんにもねえー……。春だねえ」

「いえ、どちらかというともう夏に近いと思いますが」


 初夏って感じだと思うけれど、まだ春気分だったの?


「いや、そうじゃなくてさあ、――それ、恋でしょ?」

「――はっ?」


 ポカン。今度は僕が阿呆面を下げる番だった。


「いや、は、えっ?」

「ていうか相手カイチョーっしょ?」

「ふあっ!?」

「なあーんか最近怪しいと思ってたんだよねェ~。やたらカイチョー、はなちゃんに話しかけてるし。はなちゃんもそわそわしてるし」


 どうやら僕は想像以上に感情が表に出やすい子だったらしい。演技の意味ないじゃん!


「まあ恋かどうかはともかくしてさ、少なくとも気になってはいるんじゃない? カイチョーのこと」

「…………」

「こればっかりは、人に聞いても、教科書読んでも、見つかんないよ。自分で『答え』、出さなきゃね」


 会計の、カラーコンタクトによって強制的に緑へと変えられたヘーゼルグリーンが優しく窄められる。


(……答え……)


 ああ、まったく。――また悩み事が増えてしまった。




「――避けられた」

「あー……、うん」


 放課後。最早生活習慣の一つにまでなってしまった会長専用相談室。

 今日の会長の相談内容は、『花京院副会長に避けられている気がする』だ。

 ……身に覚えが有りすぎてとても心が痛いです。


「俺は何かしてしまったのだろうか。それは、失敗も多いが、最近はそれなりに話せるようになったと思っていたんだがな」

「や、えと、まあ、うん。……気ニシナクテイイト思ウヨ」


 思わず慰めの言葉が片言混じりになってしまった。

 いや、ほんと会長は悪くないんだよ。僕が勝手に避けてるだけで。


(……だって、)


 チラリと、眉根を寄せていても端整な事に変わりない校内一の男前の顔を見つめてみる。


(――恋、か)


 今更男同士がどうとか、同性愛がなんとか、なんて言うつもりはない。この学園に在籍している時点で、恋愛観がソッチにいってしまうのは仕方のない事なのだ。三大欲求だけはどうしようもない。


 けれど。


(『恋』なんて、したことないのにわかるわけないじゃないか)


 ふと、きゅう、と心臓が痛くなった。

 最近動悸とか激しいし、そろそろ本気で病院検討しようかな。


「オリ?」

「あっ、えっと、ほんとに気にしないでいいと思うよ。きっと副会長には副会長の考えがあるんだろうし、たまたまタイミングが悪かっただけじゃない?」


 ……まあ、考える事なんて、アンタの事ばかりだけどさ。


「それにさ、副会長って、そんな意味もなく人を嫌うような人じゃないじゃん? そりゃ、会計さんとか書記さんに辛辣なこと言ったりする事もあるけどさ、でもあれは愛情の裏返しというか、バカなペットの躾……」

「――やけに、庇うんだな」

「へっ?」


 何故だか焦りが僕の脳内を占めて、追い立てられるように弁解にもならない弁解をしていると、どこか硬い会長の声が僕の上擦ったマシンガントークを遮った。


 あ、れ? 会長、不機嫌? そんなに煩かった?


「えっと、」

「そんなに花京院が好きか? 知り合いなのか? 思えば、お前は最初からやたらあいつに詳しかったな」

「えっ、あの、会長?」

「俺は何も知らないのに、お前は知ってるんだな。一緒に仕事をしていてもどこか一線を引かれている俺よりも、ずっとずっと近い距離にいるんだな」


 ぽつりぽつりと抑揚のない低い声が、静かに落とされる。いつもは安らぎを与えてくれる心地よい低音が、まるで呪いのようだ。俯いた会長がどんな表情をしているのか、この位置からは伺えない。


 どうしよう。チラリと、痕が残ってしまったいつかの火傷が目に入って、無性に泣きたくなった。


 だって、だって、その言い方じゃ、まるで、


「か、いちょう、は、……会長は、――副会長が、好きなの?」

「――――」


 誰もいない校舎。茜色の室内。音のない世界。


 今更気付いた。今、ここには、僕達しか、いないのだ。

『僕』達の世界は、ここだけだったのだ。


 だから、ねえ。


 おねがい、壊さないで――――



「――ああ、好きだよ。俺は、花京院織色が、恋愛の意味で、……好きだ」


「――――ッ」


 胸が、痛い。

 とうとう心臓は、壊れてしまった。




「なぁーんかまた顔色悪いねえー。はなちゃん。カイチョーとケンカでもしたあ?」

「……会計」


 無人だった生徒会室内に、少し甘さを含んだ剽軽な声が響いた。

 ふんわりと品良く巻かれた茶髪が視界の横で揺れる。


「なぁに? フラれちゃった?」

「……いえ、」


 世間一般的には、両想いなんだろうね。

 ――僕の心情は、限りなくフラれたに近いけれどね!


 あの日、彼の思わぬ告白によって、曖昧でしかなかった感情が完全に形を成してしまった。

 自覚してしまったのだ。『僕』は会長が好きだと。


(自覚した途端に失恋とか……)


 本来ならば喜ぶところなのだろう。

 どこぞの少女漫画のような奇跡だ。オリと花京院織色は同一人物で、相手は気付いていなくとも、本人に告白したも同然なのだから。

 そして『僕』は彼が好き。ああ、完璧だ。

 ――『花京院織色』が性格さえ偽っていなければな!


 会長が好きなのは、副会長としての『花京院織色』で、でも本当の花京院織色は、オリとしての『僕』で。


 ややこしい。なんてややこしいのだろう。こんな事ならば演技なんてしなければ良かった。

 いや、でも、あのキャラ作りがなければ今ここにはいないし、そうなったら会長にも会えなかった訳で……あーっもう!


 会計が訝しげに見ているのも構わず、苛立ちのままに頭を掻き毟った。


 結局やっぱり失恋じゃないか! あの人が好きなのは『副会長』であって、『オリ』じゃないんだから!


 ツキン。ツキン。散々苦しめてくれた心痛がまたも僕を痛め付ける。ちくしょう、胃に穴が開いたら治療費請求してやる。


「は、はなちゃん? ほんとに大丈……あ、」

「――花京院、どうした」

「――ッ」


 ポン、と軽く叩かれた肩。耳に心地好い低音。自覚した途端、その声が妙に甘く聞こえる。


「か、いちょう……」

「……大丈夫か?」


 サラリと、大きな手が僕の前髪を掻き上げた。


「……っ」


 クソッ、ときめくな僕! これは僕に対してのものじゃなくて、副会長への気遣いであって、

 いや、副会長も僕には変わりないんだけど、――てほんとややこしいな!


「っだ、い丈夫ですから」


 思わずやんわりとその手を跳ね退けた。


 もやもやする。苦しい。

 なんで自分自身に嫉妬しなきゃならないんだ。もうわけがわからない。


 結局、その日の生徒会活動は、

 空気の読めない書記が突撃してくるまで、ひどく気まずげに過ぎていった。




「以前にも増して避けられた」

「……うん、知ってる」


 今日も今日とて、 僕の複雑な心境なんかそっちのけで行われる生徒会長専用相談室。


「機嫌が悪いのか? オリ」


 キョトンと不思議そうに尋ねてくる天然タラシ様に、沸々と理不尽な怒りが沸いてきた。


 そりゃあね! アンタってばこっちの気も知らないで、あの日の告白で吹っ切れたのかべったべたべったべた副会長の僕に構ってくるし! そのたびに僕は僕に嫉妬しなきゃいけないし! そりゃ疲れるわ!


 ――けれど、会わない、という選択肢はないのだ。

 だって、『僕』とあなたの世界は、ここしかないから。


(……往生際、悪いかな)


 でも、しょうがないだろう? だって、――好きなんだから。


「会長サマはさ、副会長のどこが好きなの? 前は、信頼を得たい、とかそんなんだったじゃん。どうして、恋に変わったの?」


 こんな事聞いたって、意味はないけれど。

 ねえ、『僕』じゃない理由を教えて。


 同じ人間なのに、どうして『僕』じゃだめなの――――


「……お前のお陰で、あいつをよく見るようになった」


 会長は、語った。


「それで、気付いたんだ。あいつが、――とても優しい人間である事に。ただ、不器用なだけだった。俺は、仲良くなりたいなんて言っておきながら、表面しか見ていなかったんだ。……そんな、罪悪感もあったのかもしれない。目が離せなくなった。自然と追っていた。疲れた時には何も言わずとも全員分の飲み物を用意してくれていたり、それも、一人一人好みを把握して、礼の言葉なんて全く期待しないで、当たり前のように動いて。自身の能力の高さを鼻に掛ける事もない。誰も見ていなくとも、賛美の声がなくとも、あいつは自然に人を気遣えた。生徒会室がいつも綺麗だったのも、誰かが壊した裏庭の畑が美しく変わっていたのも、人知れず手を掛けていた花京院のお陰だった」

「――――」


 ……知って、たんだ。


 今までなんとも思っていなかった行動の筈なのに、思わぬ事実の発覚に思わずこの場を逃げ出したくなった。


「あいつにとっては、全て『当たり前』の事だったんだろうな。それが俺には、澄ましているように見えたんだ。――最低だと、思ったよ。俺は、花京院に対して、なんて失礼な真似をしていたのだろう、と。……けれど、きっと奴は怒らない。俺が彼に対して、こんな感情を抱いていたと知っても、きっと、呆れた顔をして、『本当に馬鹿な人ですね。貴方は』なんて言って。それで小さく、笑ってくれる。――俺は、きっとその笑顔が、何よりも好きなんだ」


 慈愛に満ちた瞳で、僕ではない『僕』に笑みを向ける会長。

 好きだったその微笑みが、ひどく苦しい。


 だって、それは、――僕だけれど、『僕』のものではない。

 あなたが愛している人は、――『僕』じゃない。


 こんなにも僕を見てくれていたなんて、知らなかった。僕を、優しいと言ってくれた。


 嬉しい。嬉しいよ。嬉しいけど、


 ――嬉しくないよ。


 ああ、なんてひどい恋愛だ。両想いなのに、決して叶わない片想いなんだもんな。……参るよ、ほんと。


「……そっか。ははっ、こりゃ、副会長サマはとんだ幸せ者だね。こんな完璧超人に好かれてんだもん。……羨ましいなあ」

「オリ、」

「大丈夫だよ。たぶん、両想いだから。なんなら明日にでも告白してみなよ。それを受けてくれるかどうかはわかんないけど、副会長がアンタの事を好きなのは、確実だからさ。だから、――もう、相談室は、必要ないね」


 ハッと黒曜の瞳が開かれた。


 はは、そんな顔してくれるんだ。

 少しくらい、寂しい、て、思ってくれるのかな。


「オリ!」

「もう僕、明日からここに来ないから。アンタなら、大丈夫だよ。――さようなら、会長サマ」

「オリっ!!」


 返事も聞かず、言い逃げよろしく扉へ向かう僕の腕を、

 掴もうと伸ばされた手をヒラリと避けた。


 僕、アンタに本気なんだよ。本気で、好きなの。


 だからさ、もう苦しいのは嫌なんだ。

 わかりきった結果から逃げ出すことくらい、許してよ。


 振り返る事なく、扉を閉めた。

 廊下を歩く足音は、一つだけだった。




「……あのさあ~、まぁたケンカしたのおー? お二人サン」

「違う」「違います」

「「…………」」


 間髪入れない返答に、後輩組二人は微妙な顔をして見合わせた。うち、一人は苦笑いで、もう一人は涙目だ。


 僕だってわけわかんないよ! なんでこの人不機嫌なわけ!?

 え、アンタ僕の事が好きなんだよね!? この言い方、自意識過剰みたいですっごい嫌なんだけど、確かにそう言ってたよね!?

 じゃあなんで若干避けてる節あんの!?


 生徒会活動が始まってから一度も目が合わない上に、出来上がった書類を彼のデスクへと持って行っても「御苦労」の言葉だけで此方を見もしない。これは誰がどう見ても避けられているとしか思えないだろう。


 なんなのさ! こっちはアンタの顔見るだけで緊張してしょうがないっていうのに!

 互いにムスッと剣呑な雰囲気を醸し出したまま、カリカリと無心で書類を仕上げていく。そして。


「あ、もう十七時じゃん」


 後輩の二人がドギマギとする中、結局最後まで会長と顔を合わせる事なく、その日の活動は終わってしまった。なんてことだ。


(むかつく、むかつく、むかつくうううっ!)


「はーなーちゃん。落ち着いてよお~」

「私は落ち着いてます!」


 寮へと帰る途中、後ろをついてきた会計に思わず怒りのまま怒鳴り返してしまった。


 ……うん、落ち着こう。いつもの冷静な花京院織色を思い出せ。


「なんかあったのお~?」

「……知りませんよ。会長に聞いてください」


 ――ほんとに、知らないんだよ。あんな、顔。


 ほんとは、こわかった。不安で、不安で。


 何かしてしまったのかな、とか。

 変なこと、言っちゃったかな、とか。


 色々、考えて。でも、わかんなくて。

 だから、余計に苛ついて。


 ……あ、ヤバイ。なんだか泣きそうだ。


「……ん~、でもなあ、会長、なんでか校舎の方行っちゃったしい~」

「……え?」

「なんか切羽詰まった顔してたよお~? ……誰か、会いたい人でも、いたのかな?」

「――っ」


 バッと寮へと進んでいた道を引き返した。


 まさか、まさか――!


(……っほんっと、バカじゃないの!?)




「……どう見ても両想いなんだけどなあ」


 不器用な二人を見守る少年の呟きは、

 どこか呆れと共に寂しげに空気を揺らした。




 柄にもなく全力疾走したその先、求めていた人の後ろ姿を見つけて、僕はそっと扉の影へと隠れた。


(……ほんとに、居たし)


 来るのが当たり前になっていた古典準備室。けれど、室内にある人影は、一つだけ。


「……オリ」


 囁くような声で呼ばれたこの世界にだけ存在する『僕』の名前に、小さく息を呑んだ。


「オリ、いないのか」


 どこか切なげに声帯を震わせる低音に、言い知れない感情が込み上げてくる。


 やめ、てよ。なんで。そんな、声で、


(そんな、かなしそうな声で、……『僕』を呼ぶの)


 じわりと視界が滲んだ。

 嗚咽が漏れかけて、咄嗟に口元を手のひらで覆った。


 いやだ。こんな、女々しくなんてなかったのに。


「オリ……」


 なおも紡がれる恋しい人の声に、堪えきれずその場を逃げ出した。


 期待なんてしたくない。

 これ以上、傷を深くしないで。


 振り返る事なく駆けた。


 だから。


「――オリ?」


 気付かなかったんだ。

 彼がそんな僕の後ろ姿を、じっと、見つめていた事に。




「……あのさあ、いい加減仲直りしなよー」

「別に、喧嘩じゃないですし」


 放課後に古典準備室へ寄らなくなってから一週間以上が経った。その間、僕等の空気は悪くなる一方で。

 いや、目に見えてわかるような罵詈雑言が飛び交うだとか、そんな険悪なものではなくて、互いが干渉し合うのを躊躇っているみたいな、随分とよそよそしい雰囲気が僕等の間に流れているのだ。


 もう、お腹が痛いです……。


「このままじゃさあ、なんも変わんないよお~? その辺ははなちゃんだって、わかってんでしょう?」

「…………」


 的確な後輩からの指摘に、情けなさすぎて顔が上げられない。


 ……僕だって、きっかけさえあれば……


「――裏庭」

「……え?」

「裏庭のベンチに今、カイチョーいるらしいから、行ってきたら?」


 緩やかに梳かれた髪と思わぬ言葉に、そっと顔を上げた。

 柔らかな照明を背負う彼の表情はひどく優しげで、大丈夫だと、そう、背中を押してくれているように見えた。


「会計……」

「――ほら、行っといで」


 トンッと軽く背中を叩かれる。


 足は自然と駆け出していた。




 滅多に一般生徒の姿を見掛ける事のない裏庭。それもそうだ。主にここは、生徒会役員が疲れを休める為だけに使われている憩いの場なのだから。

 そんな場所にいた人影は、一人ではなかった。


(会長と……書記?)


 恋い焦がれる彼と、小さく小柄な愛らしい後輩の姿。二人は、何やら会話を交わしながら同じベンチに腰掛けていた。

 その仲睦まじい姿に、モヤッと不快な何かが僕の胸内を占める。

 あの二人に邪な関係がない事くらい、わかっているのに。


(僕、案外心狭かったんだな)


 ……なんて。

 そんなの、彼に恋した時点で、わかりきっていた事だけれど。


 そっと、無意識に息を潜めて二人の腰掛ける背へと近付く。

 漸く、細々と会話が聞こえてきその時。それは、彼の口から紡がれた。


「――わからないんだ」


「えー? 自分の気持ちが、てことおー? さっきあんだけ散々のろけといてえー?」

「いや、花京院が好きなのは確かだ。けれど、……あいつを探しているのも、確かなんだ」


 ふっ、と足を停めた。否、動かなかった。


 ――あ、いつ? ……あいつ、て、だれ。


「うーん、そりゃ複雑だねえー」

「……悪いとは、思っている。だが、こんなはっきりしない状態で、告白なんてしたくない。花京院にも、あいつにも失礼だろう」


 ゾクリと、指先から温度が失われていく。


 なに、それ。

 ねえ、なに言ってるの。会長。


「どちらが好きかわからない今、――花京院を好きだとは、言えない」


「――ッ」


「えっ、京ちゃん!?」


 駆け出した。


 どうしようもなく痛かった。

 目も。胸も。鼻も。足も。どこもかしこも痛かった。


 なんだよ、それ。なあ、なんなんだよ。

 そんな理屈が、あってたまるか。


 今さら、わからないなんて。

 今さら、好きだとは言えない、なんて。


 それじゃあ、


「――ッ我慢した『僕』の気持ちは、どうなるんだよ……!!」


 堪えきれず、涙と共に叫んだ。周りにいた生徒達が、驚きに目を見開いているのが見えた。


 ああ、いつのまにかこんなところにまで来てしまった。廊下を走るだなんて。副会長失格だな。らしくない。らしくないな。――けれど、止められない。

 だって、僕を追う足音が、聞こえる。


 こわい。こわい……!

 彼の口から、“それ”を聞くのがこわい――!


「花京院!」

「京ちゃん!!」


「――ッ来るな!!」



 右へ左へ。バタバタとあの『花京院織色』とは思えない形相で、追う彼等から逃げ惑う。


 こんなひどい現実があっていいのか。

 振り回すのも大概にしてくれ。


 どうして、諦めさせてくれないんだ。


「もう、いやだ……っ」


 わけがわからなくなって、何も考えたくなくて、逃げることしか頭になくて、


 だから、


「――ッ止まれ花京院!!!」

「――え、」


 浮いた右足。傾く重心。投げ出された体躯。

 咄嗟に伸ばした腕は無情にも宙を切って、馬鹿げた悲劇の三流ドラマみたいな、そんな悲鳴が耳の奥にこだました。


「――――ッ」


 最後に見たのは、光の反射した眩しい天井と、見た事がないくらい必死な貴方の手を伸ばす姿。


 ……ねえ、あなたが叫んだ名前は、


 ――誰の名前?



「――――ッ!!!」






「身体はどう? はなちゃん」

「大丈夫ですよ。幸い、打ち付けたのは背中だけでしたから」


 先程の騒動から階段の踊り場に投げ出された僕は迅速に保健室へと運ばれたらしく、抜かりない治療により容態も安定した現在。

 僕はぐずぐずと泣く後輩二人に抱き付かれながら、彼等の事情という名の言い訳を聞いていた。


「ごめんねえ、本当にごめんねえ、京ちゃん。ぼくこんなつもりじゃ、」

「ええ、わかってますよ。わかってますからもう泣かないでください。ほら、鼻チーンして」

「うう、チーンっ!」

「……はなちゃん、オカン属性もあったんだね」


 ポンポンと泣きじゃくる書記の背を叩きながら苦笑を浮かべた。まあ、こんだけ泣かれちゃあね。


「それに、会長が誰をどう思おうと私にどうこう言う権限はありません。元々希望なんてないも同然だったんです。ほら、初恋は叶わない、というでしょう?」

「はなちゃん……」

「京ちゃぁん……」


 あ、さりげなく初恋だ、て言っちゃった。


 ……たぶん、初恋、だった。


「それで、会長は? 確か、彼が運んでくれたのですよね?」


 早速、会長が副会長を横抱き、俗にいうお姫様抱っこをして廊下を疾走していく姿が大多数の生徒に見られた、という報告が生徒会へと上がっていた。


 ああ、明日から学校どうしよう。校舎歩くの恥ずかしい。


「ん、オレが来た時にはいなかったよ~」

「京ちゃん寝かせてから、なんか確認したらそのまま出てっちゃった。たぶんすぐ戻ってくると思うよ?」


 目を真っ赤にさせたまま、

「なんなら呼ぼうか?」なんてケータイを握り締める書記に、ゆるりと首を横に振った。


「いえ、忙しいでしょうし、そこまで迷惑は掛けられません。お気遣いありがとうございます」

「京ちゃん……」

「でも、……そうですね。会計は鞄を、書記は今日のノルマ分の書類を取ってきてくれませんか?」

「え、けど、」

「――少し、ひとりにしてください」

「あ……」


 名状しづらそうに眉を下げる二人には悪いが、僕もまだ混乱しているのだ。ゆっくり、考える時間がほしい。


「……わかった。なにかあったら、絶対電話するんだよ? 無理は禁物なんだからね!」

「はいはい。わかっていますよ」


 チラチラと頻りに振り返りながら不安げに去る後輩二人に手を振って、保健室の扉が閉まったのを皮切りに、ポスッと背中からベッドの上へと倒れ込んだ。


「……つかれた」


 とても、つかれた。

 恋愛は体力勝負、なんて言うけれど、本当だ。

 こんなにも精神力を持っていかれるなんて、思わなかった。


「やだなあー……、もう」


 そっと手の甲を光を遮るように目元へと持ってくる。


(……あれ?)


 普段はしっかりと留めてある筈の袖のボタンが開いていた。


 おかしいな。オリの時ならまだしも、副会長モードで制服を着崩したりなんてした事ないのに。


 うっすらと赤みを帯びているだけになったケロイド。けれど、依然と消えない傷痕に、ズクリとまた胸が苦しくなった。


 ――泣きたくなんて、ないのに。


「――どこか痛むのか」


 聞こえてきた低音に、ビクリと肩が震えた。

 固まる手の平は、腫れ物でも触るみたいに優しく払われ、見開くブルーに映ったその姿は、憎らしいくらいに普段通りの冷静さを見せていた。


「か、いちょう……」

「心配した。目の前で階段から落ちるんだ。目を開かないお前に、生きた心地がしなかった」


 全身が麻痺したみたいに動けない僕を他所に、会長は払った手のまま、ゆっくりと僕の髪を梳いていく。


「やめっ、」


「――オリ」


「――!」

「オリ、という少年を、知っているな」


 冷たいのに熱い。そんな魅惑的なオブシディアンが、真っ直ぐに僕の瞳を射抜いた。


「オリに、伝えてほしい。――今日も、あの場所で待っている。と。今日でなくてもいい。明日も、明後日も、ずっと待っている」


 きっと情けなく腫れてしまっているのだろう、目尻を涙でも拭うみたいに撫でていく指。


 なにも、答えられない。


「それだけだ。今日の活動は来なくていい。安静にしていろ。……またな」

「かいちょ……っ!」


 ゆらりと離れていく背に思わず手を伸ばすが、それは蜃気楼のように扉の向こうへと消えていってしまった。


「……なん、なの……」


 いつのまにか、

 胸の痛みは消えていた。




 放課後。若干まだ痛む背など気にせず、僕はこの場所、――古典準備室にて、狐面を片手に黄昏ていた。


 これで、最後かも知れない。いや、最後にする。

 生徒会長の相談役(アドバイザー)はもういらないのだから。これは、けじめだ。


「――オリ」


 心地好い低音。もしかしたら、僕が一番に好きになった理由は、この声だったのかも知れない。……なんて。


「おひさしぶり、だね。会長サマ」


 にっこり笑いながら、一身に茜を受ける影へと振り返った。

 仮面の向こうの世界。たった一枚隔てただけで、こんなにも遠い。


「……オリ」

「副会長から伝言聞いた時はびっくりしたよ。まーだ僕の事待ってたんだ、て。僕、もうここには来ないって言ったでしょ?」

「オリ」

「大体さあ、見てる感じ君ら全然上手くいかないし。これはもう、端から相性が合わなかったって諦めるしかなくない?」

「オリ」

「だからさ、」


「オリ、――――好きだ」


「は……?」


 ポカンと。今までの比ではないくらいに、固まった。


「気付くのが遅くなった。すまない。……好きだ、オリ」

「は、え、」

「好きだ。君が、欲しい」

「――ッ」


 自然と詰められた距離。避けられる筈の緩慢な腕から逃げられず、優しく手首を掴まれた。


「な、に、」

「こんなにもわかりやすかったのにな。本当に、俺の目は節穴だ」

「なに、言ってんの」

「好きだよ。……もう、逃がしてやれないくらい」


 自由な片方の手が、そっと僕の輪郭を撫でる。


「なっ、アンタは副会長が……! ――っ!?」


 小さな小さな、二つの穴から覗くだけだった茜色の世界が、漆黒に塞がれた。


 仮面越しのキス。

 感触なんて、温度なんて感じる筈がないのに、そこに吐息があるかのように体が火照っていく。


「……もう、いいだろう?」

「は、」


「なあ、――花京院」


 バッと、力一杯にその腕を振り払った。


「なんっ、そっ、」

「俺は花京院が好きだ。けれど、――オリ。お前が頭を離れない事も事実だった」


 声を、なくした。

 まさか。そんな、都合の良いことがあるものか。


「自分で自分がわからなくなったよ。こんなにも惚れやすい性格だったのか、てな。けれど、お前らの事を考えている時、気付いたんだ。――『花京院織色』と『オリ』が、とてもよく似ている事に」


 払われた事など関係ないとばかりに、再度彼の手が僕の手首を掴む。


 似ている、だなんて。そんなわけない。そんなわけないじゃないか。

 だって、花京院織色は、あんなにも冷たくて。笑えなくて。つまらない人間で。


 ……ああ、熱い。手が、熱い。


 ――火傷、したみたいだ。


「よくよく聞けば声も似ている。背格好も同じだ。何故気付かなかったのか、不思議なくらいだ。――なにより、」


 会長の指が、スルリと『そこ』を撫でた。


「同じ傷が、花京院の手にもあった」


 彼が、初めて僕に好意的に話し掛けてくれた、あの日の傷痕。

 この『痕』が目に入るたび、あなたを思い出していた。


「もう、いいだろう。オリ。仮面は、――必要ない」


 ゆっくりと、後頭部で結んでいた紐が解かれた。


 カラン。足元から奏でられた、とてもとても軽い音。

 きっとそれは、――『オリ』の世界が壊れる音。


「……やっぱり、綺麗な色だな。――織色」


 見開きすぎて、涙を溜める役割を果たしていない下瞼から、ポロリポロリと滴が落ちていった。

 頬に添えられた広い大きな手が、それを拭った。何度も。何度も。


「泣くな、織色」

「……なにナチュラルに呼び捨てしてんのさ」


 歪んだ視界で笑うその人に、皮肉げに笑い返した。


「オリ、相談だ。花京院織色に告白したいんだが、どんな言葉を送れば、あいつは喜ぶと思う?」

「……ばぁか」


 もう、アドバイスしないって言っただろう?


 アンタが落としたい相手は、

 ――とっくの昔に、焔蓮哉(ホムラレンヤ)にベタ惚れなんだから。



 紫が迫る茜色。

 二人だけの世界に重なる影に、仮面はもう、存在しない。











「――――と。まあそんなこんなで今でも相思相愛です。ふふっ、羨ましいでしょう?」

「うぎゃー! 膝擦りむいたから絆創膏貰いにきただけなのに、なにそのノロケ話! もうお腹いっぱいだよ!」


 僕に恋人がいる事を知って根掘り葉掘りと下世話に尋ねてきた生徒達に、懇切丁寧に説明してやったら砂糖の塊でも丸飲みしたみたいな顔で逃げられた。

 聞いてきたのはそっちなのに。ひどいなあ。


「うひーっ、まじリア充爆発しろ! ……て、あっ、噂をすれば!」


「――これは何の騒ぎだ。織色」


 相変わらずちっとも艶を失わない漆黒を、男らしくオールバックにまとめたその人が顔を出す。

 鋭さの増したオブシディアン。その輝きも、年を重ねていくごとに磨かれているような気がする。

 ――魅力が衰えるどころか増していくだなんて、やっぱりずるい人だ。


「ふふっ、私達の馴れ初めの話をしていたのですよ。それから、一応ここは職場なのですから、ちゃんと役職名でお願いしますね。――焔理事長?」

「ああ、そうだったな。――花京院先生」


 悪戯に笑う恋人に、ふわりと笑い掛けた。


 可愛い生徒達に語って聞かせていた話は、青く幼い、今も尚色褪せる事のない『僕達』の物語。

 不器用で、拙くて、実るまでに沢山の傷を背負った恋の蕾は、見事な大輪を咲かせた。……まあ、実ってからも、一筋縄ではいかなかったけれどね。


(……幸せすぎる、てのも、なかなか怖いなあ)


「――ああ、そうだ」


 ふと、愛しい恋人がニヤリと何か企んだような笑みを浮かべた。


「相談があるんだが、聞いてくれるか? ――オリ」

「――勿論」


 ――なんたって僕は、焔蓮哉専用の相談役(アドバイザー)だからねっ!






 ――それから、

 校舎の隅にひっそりと鎮座する古典準備室が恋愛成就のスポットとして、

 そして、その部屋を代々『オリ』と名乗る少年が縁結びのアドバイザーとして使用するようになったことは、また別のお話。











  仮面にキスを

 (どんな君だって、愛してる)


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