秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ
――こんなところ大嫌いだ!
僕はこの夏、この村に引っ越してきた。僕はこの村が大嫌いだ。東京のようにゲームセンターも、ショッピングモールも、遊園地もない。道も土を固めて作られていて、自転車で通るとがたがたと揺れる。電車も古ぼけた電車が一時間に一本、走ってくるか来ないかだ。コンビニだって、行くのに車で20分もかかる。こんな村、大嫌いだ。
学校が始まっても、僕は誰とも仲良くできなかった。しようともしなかった。みんなは毎日、「釣りしよう」「虫取り行こう」と毎日泥だらけになるような遊びしかしない。そんなことをしたらママに叱られるのに。ママだって嫌ってる。あんな泥だらけで、気持ち悪いカエルを触るなんていけないと言っていた。
秋になっても、夜は虫たちが鳴き声をけたたましく立てている。それがうるさくてうるさくてたまらなかった。そんな夜はiPodを耳に好きな音楽を聞きながらベッドに入るのだが、今日は違った。
「何してるの! 寝るときに音楽なんか聞いて!」
「だって虫がうるさいんだもん。眠れないよ」
ママが「没収」と言って、エプロンのポケットにiPodをねじ込んだ。
「なんでそんなことするんだよ! 返せよ!!」
「ママになんて口を聞くの、この子は! いいから寝なさい!」
ママは大股に部屋を出て行ってしまった。僕はむしゃくしゃして、窓から外に飛び出した。最近ママはむしゃくしゃしてる。パパがここに引っ越そうと言うのも、ママは反対だった。パパはおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしたかったみたいだ。僕もそれには賛成だった。だって、好きなゲームは買ってもらえるし、お小遣いももらえる。そんなおじいちゃんとおばあちゃんと一緒にいるなんて、嬉しくて仕方なかった。もっと言えば、こんな田舎じゃなかったら、もっと良かったけど。
――あれ? どうしてだろう。僕は遊びに来たときは、とてもここは楽しいのに、なんで今楽しくないんだろう。
石を蹴りながら、考えた。考えて、考えても答えは出てこなかった。
「おぉい。おぉい……」
遠くで聞こえた声にびっくりして、後ろを振り返った。誰もいない。僕はびくびくしながら前を向くと、また「おぉい、おぉい」と聞こえた。僕は怖くて怖くて、走り出したが、その声はずっと聞こえる。もう無我夢中に走ってると、突然腕を掴まれた。
――お化けだ!
本当にそう思った。だって、変な声も聞こえるし、真っ暗で誰もいない。
「お前何やっとんじゃ。ガキがこんな時間に……」
僕はその声に恐る恐る目を開けると、高校生くらいのお兄さんが立っていた。僕はびっくりしたし、お兄さんもびっくりしてた。だって、僕は僕以外、誰もいないと思ってたし、お兄さんもきっとお兄さん以外いないと思っていたから。
「えっと、その……」
僕が言葉に迷ってると、お兄さんは突然僕を抱っこして近くの草むらに連れ込んだ。お兄さんは僕の口を塞いで僕が走ってきた道を指差した。キィキィと小さい音と、揺らめく光が迫ってくる。学校の途中にある駐在のお巡りさんだ。
「あの駐在のジジイにこんなとこ見られたら大変じゃろ。とりあえずおれの秘密基地に来い」
お兄さんは僕を抱っこしたまま来た道を戻り始めた。戻って戻って、僕が最初に変な声を聞いた場所までくると、僕を降ろした。お兄さんは、僕から見たらただの藁の塊にしか見えないところに入って行った。すぐにお兄さんの手が手招きする。僕はそれに従って中に入った。藁の中はキャンプのテントみたいになってて、お兄さんが秘密基地と言った意味がよく分かった。
「そこに藁があんじゃろ。そこ、寝ていいぞ。あと、俺の後ろには手を付けるなよ。刈り取ったばっかの稲があるから」
僕はこんな枯れ草で寝るのか、と驚いたし、嫌だった。お兄さんは小さな机に向かって何かしてる。
「お兄さん何やってるの?」
「ん? 勉強。いっつもは家でやってんじゃけど親父の奴、夜中起きて勉強するならついでに稲守もやれ。上の学校行かせてやるんだからそれぐらいはしろけ、とよ」
「稲守って?」
「この前稲刈りしたんじゃ。その稲を守るための番をするんじゃ」
「ふぅん」
僕は特に感動も感じなかった。
「で、なんで小学生のガキがこんな時間に外にいんじゃ」
「ママとけんかした」
僕の言葉にお兄さんは吹き出して笑い始めた。
「そっかぁ。いやいや、母ちゃんと喧嘩なんて最近してないなぁって思って」
「ママ最近いらいらしててちょっと失敗しても怒ってくるんだ」
「そりゃあ仕方ねぇ。母ちゃんにだって、いろいろあるさ」
僕が「いろいろって?」と聞くと、お兄さんはただ一言「いろいろじゃ」と答えた。
「お前、母ちゃんとばあちゃんどっちが好きじゃ?」
「うーん。どっちも」
「それじゃだめだ。どっちじゃ?」
「えー。ママ、かなぁ……」
お兄さんはにこりと笑って、僕の肩を叩いた。
「じゃあ、母ちゃんが意地悪されてたら、男だから助けてやれ。な。それが、男ってもんだ」
「お兄さんも、助けてるの?」
僕の言葉にお兄さんはにかっと笑った。
「俺には、連れの女がいる。母ちゃん守ってると連れが怒る。お前みたいな子どもは、女は母ちゃんしかいねぇだろ? なら母ちゃん守ってやらねぇと」
お兄さんは「でもあの女いなかったら母ちゃん守ってるぞぉ」と笑った。僕は頷きながら話を聞いてると、ピチョンと首に水が落ちてきた。
「つめたっ!」
「わわ、夜露だ」
お兄さんは慌ててビニールを稲に被せた。上を見ると、藁の先端に雫がついている。
「さっさと小屋建てればええんだ。こんな藁小屋、夜露が防げんし、稲守だっているのに」
お兄さんはぶつぶつ言いながら、机に向かった。それからは他愛もない話を繰り返した。お兄さんは看護の学校に行くのに勉強しているようだった。僕は空が白んでから家に帰った。それ以来、お兄さんには一度も会わなかった。
僕は大人になって、大工になった。僕がお兄さんと変わらない歳になってもお兄さんに会うことはなかった。何より、僕は田舎に引っ越してから一年も経たないうちにまた都会へと引っ越してしまったこともあった。母と、祖母の仲が粗悪になり、母が居た堪れなくなったからだ。今からなら分かる。何故お兄さんが母を大事にしろと、母の味方をしろと言ったのかを。
秋の虫のような一瞬の灯火を過ごしたあの田舎の風景は僕の心に深く残った。大工になった僕は、無償であの田の近くに小屋を作った。誰も夜露に濡れないように、と。
秋の田の 刈穂の庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ
天智天皇