見えないからこそ
「夏、湖、キャンプの夜ときたら、やっぱり怪談でしょう!」
そう言ってきたのは、サークルでのムードメーカー、内山だった。
大学生ってのは、何でそんなものに夢中になれるんだろうな、なんて思いつつも、今回、たまたま中古のワゴン車を親から譲り受けていたという理由だけで、サークルメンバーでもないのに運転手として駆り出された榊は、ぬるくなりかけた缶ビールに口をつけた。
「やだ、こわぁい」
「眠れなくなっちゃうよ」
可愛い女子の声に、男子メンバーの鼻の下は延びっぱなしだ。
あわよくば、驚かせて抱きついて貰いたいなんて思ってもいるのかもしれない。
「榊君、こういうの平気なの?」
隣に座っている椛島が、興味深げに榊に問いかけてきた。榊は苦笑いを浮かべながら、
「まぁね」
と返した。
「じゃあ、怖いことあったら助けてもらおうかな」
椛島がちょこんと榊のTシャツの裾を掴んだ。その姿がなんとなく可愛く思えたが、敢えて返事をすることはしなかった。
この合宿参加者は総勢14名に及ぶ。大人数でS県のm 湖、湖畔にやってきた。
バーベキューで腹も膨れて、じゃあ、コテージに戻って寝るか、という前段階での怪談話は、夏らしいと言えば夏らしいのかもしれない。
「じゃあ、俺、俺! とっておき!」
いくつかの定番の怪談を話し終えた後、満を持して内山が、大学側の信号機に佇む老婆の話をした。
つい三ヶ月ほど前、そこで老婆が死んだからだ。
「俺、何となくそういうの感じちゃうから、わかるんだよね。あそこにいるのが……」
内山の言葉に女子達が「もう、あそこ行けない!」と悲鳴をあげたが、あそこの信号を通らなければ大学に通うのは遠回りだ。見えないものに対してそこまで拘るのは何故なんだか、と思いながら、新しい缶ビールをクーラーボックスから取り出すと、内山が榊に言う。
「お前、全然余裕だね? ていうかそんな経験もない?」
内山は榊の隣に座っている椛島が好きだから、態と榊につっかかってきたのだろう。
榊はため息を吐くと、缶ビールのプルタブを倒し、
「経験ならあるよ」
と言った。
皆の視線が榊に集中する。
榊は、そんな連中の顔をじっくり一人ずつ眺めながら、
「見えなくても、感じるってことで……」
と口を開いた。
※※※
梅雨があけたばかりだから、ついこの前のことなんだけど、大学帰りに近所の公園に寄ったんだ。
昼過ぎの炎天下。夏休み前だし、暑すぎて子どもなんて一人もいない。
俺はたまたまジュースが飲みたくて、近くのコンビニでジュースを買って、木陰のベンチで涼んでいた。
蝉の声もしない、ただ、ジワジワと汗だけがにじみ出てくる日だった。
風の一つでも吹けば気持ちが良いのに、微風さえも吹かない。
何の音もしない。
ただ、自分の呼吸音だけが、聞こえてた。
そんな、真昼の昼盛りに有り得ない沈黙を破ったのは、ブランコだった。
ベンチから真っ正面、見渡せる視界のよい場所に、錆び付いたブランコが二つ。勿論、子供も乗っていないし、付近に誰もいない。
なのに、
ぎぃ
って、小さな軋みの音を立てて、ブランコが揺れた。二つ一緒にというわけではなく、向かって左側のブランコだけが、ぎぃっ、と音を立てて、揺れたんだ。
俺は、ジュースを飲みながらそのブランコを眺めていた。
ブランコは、僅かな軋みだったはずなのに、徐々に、ゆっくりと動き始めた。
ぎぃっ、ぎぃっ、と、耳障りな音を立てて。
片方だけがそうして動くのに、周囲に人はいない。無人のブランコだけが、ただ、動く。
俺はそれをじっと見ていた。
風も吹かない場所で、どうしてブランコが動くのだろうと思って。
あまりにも集中してしまって、無意識に飲みかけのジュースを、座っているベンチに置いたのだか、その音がやけに大きく響いた。
カツンって、缶を置く音。
そうしたら、動きを大きくしていたブランコが、まるで此方の視線に気づいたみたいに、
ピタリ、
と止まった。
誰かが止めたみたいに。
でもブランコには誰もいない。
その代わり、ブランコからこちらに向かって、奇妙な土を引きする跡が出来始めた。
ズッ。ズッ。ズッ。
一本だけ、まるで何かを引きずるかのような跡が、土の地面に出来ていく。
それはブランコから、真っ直ぐ、このベンチに向かってくる。
あ、何か、不味いか?
と思った時には既に遅くて、身体が動かなくなっていた。金縛りというやつなのかもしれない。
だけど、そう気づいたときは身体が動かなかった。
ジュースを飲んでいた筈の喉がカラカラになり、暑いはずの周囲の温度が、一気に下がった気がした。
キンっ、と金属をぶつけたような耳鳴りの後、一切の音がなくなり、その、引きずる何かが迫ってくるのだけか見えた。
風なわけはない。土中に動物がいて、蠢いているわけでもない。
だって、土だけが削られている。
人が足を引きずっていて、その片方の足が土を削るとしたら、そんな感じだろうな、と何となく分かったのは、引きずるのにタイミングがあったからだ。
ズッ、ズッ、ズッ。
音が段々近づいてくる。ブランコから、真っ直ぐ、自分に向けて何かが足を引きずって歩いてくる。
そして、それがとうとう目の前まできた瞬間、「はぁ……」と男の声らしきため息が聞こえて、ガツンと缶が倒された。
「うわっ!」
俺の金縛りはその瞬間に解けて、慌てて立ち上がった。そしてジュースを片付けて周囲を見回して、愕然とした。
先程の引きずった跡が、嘘みたいに消えていたのだ。
俺は暑さに負けて白昼夢でも見たのかと思った。
だけど、それからだった。変なことが起き始めたのは。
最初は気のせいだと思っていたけれど、何だかおかしい。
帰ってきて締め切った部屋のドアを開けた瞬間、玄関から真正面のリビングのカーテンが揺れる。
外の外気にはためくにしては十分遠い距離なのに、ただ、その場所のカーテンだけが、一度、フワリと揺れるのだ。
まるで、俺が帰ってきたのに返事をするみたいに。
大学でのテスト中には、机上に置いていた鉛筆が、勝手に転がり始めた。
俺が触ったわけでも、机が傾いた訳でもない。
コロン、と僅かな音に、目を上げると、机の端まで鉛筆が転がっていた。
講堂の窓は締め切られており、エアコンの風が届くような場所でもなかった。
夜中に寝苦しさに目が覚めて、冷蔵庫からペットボトルをとりだして、直接飲んでいると、ぴちゃ、ぱちゃ、と音がする。
何の音かと流しに目を向けると、水を溜めていた洗い桶の水面が揺れている。地震などではなく、ただ、水面だけが揺れて、外に水をはねさせていた。
場所や時間に共通点はない。
だけど、普通なら起こらないようなことが、確かに俺の周りで起きている。
※※※
そこまで榊が話すと、皆は一同に黙りこくってしまった。
見かねた内山が、
「え? オチはないの? オチ?」
と言ってきたが、そんなものは当然ない。
「何だよ、それじゃ、おもしろくも何ともねーじゃん!」
内山がそう言って、周囲の面子も苦笑いを浮かべたので、榊も「そうだな」と苦笑した。
しかし、その笑いを消すかのように、青ざめた顔をした男が口を開く。
「お、俺、行きの車、榊の車で一番後ろの席だったんだけど……」
皆の視線が男に集中する。
「後ろにボールが入ってて、それが、榊が運転中、コロコロ、転がってて……」
「そりゃあ、運転してたら転がるよな」
内山が笑い飛ばしたが、男は首を横に振る。
「し、信号、停まってるときに転がるから、何かバランス悪いのかと……」
全員が思わず息を飲んだ。
得体の知れない静寂が、辺りを包んだ瞬間、
パチャ。
パチャ、パチャ……
と、音がする。
「な、何の音?」
榊の隣に座っていた椛島が青ざめた。
「ふざけ過ぎだろ、榊!」
内山がやや焦ったように言ったが、榊は首を傾げながら、
「俺は何もしていない」
と返した。
パチャ、パチャ、ピチャ。
何かが跳ねる。
違う。泳いでいるのだ。
黒い夜の湖を───
「じ、冗談やめろよ!」
「やだぁ!」
「誰か懐中電灯!」
誰かの声を合図に、懐中電灯で暗い湖面を照らすが、当然、何も見えない。
やがて、水音はこちらに近づいてくる。
「や、ヤバいって!」
「私、帰る!!」
ヒステリーめいた声をあげる者。
「風で湖面が揺らいでるだけだろう?」
冷静を装う者。
「風なんて吹いてないだろうが!」
叫ぶ者。
各々が混乱しながら、湖を見ていると、やがて、叫ぶこともままならないことが起こった。
ずりっ。ずりっ。ずりずりっ。
ぬかるんだ、湖からこちらへ面した土の部分を、何かが引きずってくる音がしたのだ。
女子は声もなく泣き始め、男子さえも腰を抜かしている。
内山が勇気を振り絞って、その音の方へ懐中電灯を向ける。
「!!!!!」
そこには、無数の何かを引きずった跡が、現在進行形でこちらに向かって伸びていた。
12345……
数を誰かが数えたのだろう。
「な、何で14本なんだよ……」
呟いた数は、丁度この合宿参加者全員の数だった。
熊手でひっかいたかのような跡が、水を滴らせながらこちらに向かってくる。
逃げたい! 逃げ出したい!
それなのに、14人もいるのに、誰一人、その場を動くことができなかった。
やがて、その水濡れた跡はこちらの目の前で止まる。そして、次の瞬間、
「はあ……」
生温かい男のような声を、そこにいる全員が、己の耳元で聞いた。
※※※
「榊君!」
夏休み明け、すっかり秋めいた学内の売店で、次の講義で使うレポートを選んでいた榊は、後ろから聞こえた声に振り向く。
そこには、あのキャンプに参加して、榊の隣で怪談を聞いていた女子、椛島が青い顔で榊を見ていた。
あの日、あの奇妙な出来事は、直ぐに皆が正気を取り戻すと共に、跡形もなく証拠らしき湖からの引きずった跡さえ、消えていた。
夜半の白昼夢か、それとも集団ヒステリーか───
榊は冷静に言い放ったが、誰もその後、怪談を続けることは出来ず、翌日、榊を除いた連中は、夜も寝なかった様子で、ボロボロになって帰っていった。
人数が入りきらないというのに、榊の車できた人間は、誰も彼の車では帰らなかったし、それ以来、榊に連絡が来たこともない。
だから今、あの時のメンバーに話しかけられたのは初めてだった。
椛島は、青ざめた顔のまま、榊に言う。
「あれから、おかしいの……」
「おかしい?」
「夜中に気がつくと、寝室のドアが開いていたり、机の上のものが翌朝、動いていたりするの……」
「気のせいじゃない?」
「気のせいなんかじゃない!
あの日、あそこにいた皆、同じことを言ってる!」
椛島が叫ぶようにそう言った。
榊はその剣幕に、肩を軽くすくめてから、
「何か見えたりするの?」
と尋ねた。
榊の問いに、椛島は唇を噛み締めて、首を横に振る。
「何か見えるわけじゃないなら、気のせいでいいんじゃない?」
「み、見えなきゃいいってものでもないっ! 変なことが起きれば気持ち悪い! あの日、榊君があんな話をしてからなんだからっ!」
激昂する椛島に、榊はため息をつくと、面倒臭そうに見下ろした。
そして、その視線を何もない彼女の背後に移す。
ガラス玉のように何の感情もない瞳が、何もないはずの椛島の背後を見つめ、それから、ふっ、と笑った。
「何がおかしいの?」
「いや、椛島さんがあんまりにも怯えてるから、あんただけ特別なのかと思って……」
「特別……?」
「特別、多いのかと思ったけど、そんなことないから、大丈夫だよ」
何が多いのか。
主旨の見えない榊の言葉に苛立ちながら椛島は、
「ふざけないでっ」
と声を荒げた。
榊はそんな椛島とは逆に、非常に冷めた口調で椛島に言う。
「見えたら、怖くない?」
「……え?」
「『何か』が、見えていたら、怖くない? そうしたら、平気?」
抑揚のない淡々とした声で榊は言う。
「もし、俺が、あの話、実は本当のことと違うって言ったら信じる?」
「本当のこと……?」
榊は、表情のない顔のまま、椛島を見下ろすと、言う。
「本当は、人の形をしてもいない、沢山の手のついた何かが、ブランコを漕いでいて、それが俺には見えていて、そいつが俺の周りをウロウロしてたんだ、って言ったら、信じる?」
「沢山の手……?」
「そう、手は沢山。だけど、足は一本だけ。髪の毛が生えてて、顔は見えない」
榊の語る『何か』を想像したらしい椛島が、一瞬、その顔を歪める。
「だけど、そいつバカだから、沢山の人間に取り憑こうとして、裂けたんだ。湖のあの時に……」
榊の淡々とした口調が、あまりにも不気味に思えたのか、椛島が一歩だけ後ずさる。
と、トンっ、と何かにぶつかる。
「あ、すいませ……」
椛島は振り返ったが、そこには何もない。
ただ、何もないはずなのに、次の瞬間、誰もいない売店のドアが、勝手に開いた。
「……」
何かが、まるで外に出ていったみたいだ。
椛島は榊を振り向く。
榊は何も見ていない目で、椛島の背後を見ていた。
「ただの、自動ドアの故障だよ」
そう言って、もう用が済んだとばかりに榊はレポートを選び出す。
「さ、榊君……。本当は、全部、見えてるの?」
「皆はあの日、何か見たの?」
逆に問い返されて、椛島は戸惑いつつも、首を横に振った。
あの日、音や何かの存在を感じこそしたが、誰も何も見ていない。
榊はレポートを一冊とると、そのまま、レジに向かう。椛島が縋るようにその腕を掴むと、榊はやんわりと苦笑いを浮かべた。
「誰も何も見えてない。もちろん、俺も何も見てない」
他人事のような言葉に、掴んだ腕は簡単にふりほどかれた。
榊はもう、椛島を振り返ることなくレジでレポートを購入する。
そして、そのまま、売店から出ていこうとして、ふと、思い出したように椛島を振り返り、言う。
「何かいるかもしれない……って思える内が花だよ。夏の怪談の一つだと思って、楽しめば?
せっかく14等分されて、もう直ぐ消えそうなんだから……」
14本の引きずる跡。
それの意味するものが……
椛島は、絶句して立ち竦む。
そんな椛島を置いて、榊は売店を出ていった。
「まぁ、見えないからこそ、怖いんだろうけど」
それが分かっていたから、あの日の話は見えない視点で語ったのだ。
何が起こっているのか分からないから怖い。
全く、人の心理というものは面白い、と思いながら、一人、榊はほくそ笑んだ。
榊は人のいない道を、誰もいないにも関わらず、少し身体を反らして歩いたりする。それは子どもの頃からの癖だが、それを誰かに言うつもりもなく。
落葉敷き詰めるキャンパスを、時折不自然に身体を反らしながら、歩いていった。