彼女
春のどんよりと曇った土曜日、俺は市内の音楽文化ホールまで、演奏会を聞きに出掛けた。職場の女の後輩が楽団に所属していて出演するというので、物珍しさもあって、聞きに行ってみたのだ。
ちなみに演奏者たる当人も、俺にとってはかなり物珍しいと思われる人間である(「逆もまた真なり」で、こちらもかなり物珍しい人間だと思われているのかも知れないけれど)。普段はいつも笑顔を絶やさず頑張り屋で生真面目なイメージなのだが、酒席になると似ても似つかないくらい変貌するギャップが面白く、今までにあまり見た事のないタイプの人間だった。確かにそんな人間は何処にでもいるのかも知れないが、ギャップの度合いが想像以上だった為(例えば、仕事上とてもしっかりしているように見えるのだが、酔った時はある種の変態に変わってしまうなど)、こちらもかなりの衝撃を受けたのであった。
例えば、上司のK副課長を「格好いい。ダンディだ」なんて言うのが信じられない。どちらかと言えばあばた顔で、少しくしゃっとした風貌のKさんに本気で憧れているような口振りだ。Kさんは本人を目の前にしても、男を「彼」、女を「彼女」と呼ぶ変わった人なのだが、「『彼女』なんて呼ばれたら痺れます~」なんて訳のわからない事を言う。
その彼女がオーケストラに参加しており、演奏会でコントラバスを弾くと聞き、これまた興味津々で足を運んでしまったのである。
もっとも俺は小学生以来、オーケストラの演奏など全く聴いた事がない。そういう意味でも、知っている人間が出演するのであれば聴く気にもなるであろうし、めったにない経験をする良い機会だと思ったのだ。
会場へ着いてみて驚いた。予想以上に観客がいて、ホール内は満員だった。彼女がこれだけの人間を集める楽団に所属している事に、まず感心させられてしまった。
壇上にバイオリンの親玉のような楽器が置いてある。あれがコントラバスであろうと思い、俺はその真正面の座席に陣取った。果たしてしばらくすると開演時間になり、満場の拍手の中、演奏者達が姿を現した。年齢層は白髪の混じった人から、大学生くらいまで様々だったが、その中に確かに見知った顔があった。そしてその人はやはり笑みを浮かべながら、バイオリンの親玉の前に腰掛けたのだった。
指揮者が舞台袖から颯爽と出てきて構えると、すぐに演奏が始まった。彼女からは仕事とはまた違う真剣な表情が見て取れる。俺は何故か人が大勢の前で何かを発表しているのを見ると、失敗しないかどうか心配になってしまう性質がある。他人事である筈なのに、「こいつ失敗しないだろうか。心配だ」と妙に感情移入してしまうのだ。最初の内は、そんなはらはらした気分で見ていた気がする。
しかし、見ている、いや聴いている内にそんな感情は消え、一生懸命演奏している彼女が凄く輝いて見えてきた。弦を震わす左手が、他のコントラバス奏者より派手に動き、物凄く思い入れがあるのだろうと感じた。また、演奏の合間には、他者以上に大きく拍手(この場合、楽器を叩くようだが)をし、盛り上げようとしている様が見て取れた。音楽を通して、本当に好きな事に打ち込んでいる様子がよく伝わってくる。これは「酒席の姿を知らない職場の奴が見たら惚れるんじゃないか」と、変な邪推まで浮かぶ程だった。「コントラバスが恋人」と嘯いているのを聞いた事があったが、本当に愛情を持って弾き奏でている感じがした。俺が見ても格好良かったし、変態女のまた違った一面を見せてもらった。
と同時に、何だか凄く悔しくなってきた。俺にも一応は志すべき夢がある。演奏を聴きながらそれを考えると、こうやって大勢の前で輝ける場を持てる事が無性に羨ましく、目の前の後輩に嫉妬心や敗北感すら覚えるのだった。そしてこういうのを見た後は必ず「このままではいけない」「俺ももっと頑張らなくては」という気分にさせられるのだ。しばらくの間、この気分に苛まれ、俺は自分がちっぽけに思えて苦悩した。彼女も含めて目の前の奏者達が、凄く高みにいる人間に見えてくる。
そして演奏にのめり込む内に、また別の意識が頭に浮かんだ。指揮者とは本当に凄い、という考えだ。おそらく彼は四十人近い演奏者が十分以上も演奏する曲の組み立てを、最初から最後まで理解している。勿論、奏者各人も曲の流れは理解しているであろうが、彼はそれに加え、全員の動きまで把握している筈だ。俺の能力では、何年掛かってもとてもそれを理解出来るようには思えなかった。やはり指揮を執る者、常人ではないのだろう。もっとも彼女は指揮者より、譜面の方ばかり見ているようだったけれど……
しかしそこから連想して、俺にも何となくわかった事がある。演奏中に俺が考えた様々な思考こそ、音楽と連動するもの、いや音楽そのものなのだと。人の気持ちと一緒で、音楽にもゆっくりとした暗いパートがあれば、大いに盛り上がる明るいパートもある。いや、そんな単純なものではなく、音楽は歓喜・苦悩・不安・真剣・堕落・平凡・憧憬・恋愛・生死など、全てを内包し、一つの世界を作り上げているものだ。俺が先程まで演奏を聴きながら思った事は、全て音楽のその作用と連動していたのだ。俺が音楽を聴きながら色々と考えるのと同時に、音楽が色々と考えさせていたのだろう。だから俺の思考そのものも音楽の一部であり、知らずの内に演奏の渦の中に参加させられていたのだ。ちょっと格好付けるみたいだが、演奏中、そんな風に感じた俺が確かにいたのだった。
演奏が終わった。何だか俺の頭もすっきりとしていた。彼女をはじめ、奏者全員が充実した表情をしており、俺はまた少し羨ましくなったが、勿論素直に賞賛する気持ちもあり、心から拍手を送らせてもらった。今日は本当に良いものを見せてもらったと思う。
帰ってから俺は思った。この文章で再三「彼女」という書き方をしてしまったが、月曜日、この御礼としてK副課長に本当に「彼女……」と言ってもらい、コントラバス奏者にも歓喜に浸ってもらわねばと。
5年以上前に書いて眠っていた作品です。あまり発表を意識せず、演奏会を聴いて即興で書いた異色作(笑)です。