8
爺の隣にいた人物は、俺を見るなり青ざめた顔をした。
ひと目でこいつが誰か分かった。3年前この病院で別れたときから背はずいぶん伸び、顔も少し細くなったが、相変わらず色白で痩せている。
その人は目を泳がせ、挙動不審に俺と爺を交互に見た。まるで、助けを求めているように。
「…高橋さん、僕はこれでおいとまさせていただきます…すみませんっ」
いてもたってもいられなくなったのか、やつは慌てて立ち上がり、この部屋を去ろうとした。本能的に捕まえなければいけないと感じた。やっと会えたのに、このチャンスを逃しては次はない。
部屋から逃げようとする彼の手首を掴む。彼はビクッとはねて、振り返った。
その大きな瞳からは、今にも溢れそうな涙で一杯だった。
俺は驚いたのと同時に、胸が高鳴った。前にも同じようなシーンを目にした気がして、彼に見いってしまった。
彼の華奢な手も、熱くなっていた。
しかしそれはつかの間、「離して」と悲痛な声と共に、彼は俺を振り切り、再び逃げ出した。
「おい…っ、待てよ…!!」
長い通路をゆく彼の背中が、どんどん小さくなっていく。
「…坊っちゃん、追いかけなされ」
爺の声が聞こえた気がした。
頭で考えるよりも先に体が動いていた。本能で、やつの後を追う。
本当は爺の見舞いに来たのだけれど、もう一度出直そう。まずは、あいつのけりをつけなければならない。
病院の中だというのに、彼は全力で走っている。だから俺も、負けじとスピードを出す。彼の名前を呼んでも、一向に止まってくれる気配はない。
建物の中を抜け、病院の敷地内を出た。それでもまだ追いかけっこは続く。細くてか弱そうなクセに、意外と足が速い。
逆に俺の脚が遅くなったのかもしれない。怪我したせいで。
無我夢中で走っていると、ふいに黒木が言っていた言葉を思い出す。
『……あいつは今でも、自分のせいだと思っているんだ……だから自分を責めて、萎縮して、自分を見失ってしまっている。…誰が慰めても駄目なんだ…』
長らく激しい運動をしていなかったために、息が苦しくなる。ついでに、怪我した右脚が痛み出す。
数メートル先の小さな背中は、まだ遠い。
『…お前以外はな……』
夕方とはいえ、真夏のくそ暑い中俺たちは何をやっているんだろうか。汗がにじむ。道行く人、驚いて俺たちを振り返る。
「おいっ、止まれよ!!」
叫んでも無駄だ。うまくいかない状況に、だんだん苛立ちが芽生えてきた。
俺は最後の力を振り絞って地面を蹴りあげた。太ももの筋肉がピリピリする。
少しずつ距離が縮まっていく。左手には道路、右手には大きな公園が景色を変えていく。自分の肺が限界にきていても、気づかなかった。
やつは俺を撒こうとしたのか、突然右手の公園に入っていった。俺も歯軋りしながら進路を変える。
茂みの中に入っていく。俺はあと数十センチのところまで迫っていた。意地でも捕まえてやる。俺は手を伸ばす。まだ届かない。でもあとちょっと…――。
「…冬夜…っ!!」
身を一瞬宙に浮かせ、目的の獲物に飛び付いた。華奢な身体を腕に抱きしめ、そのまま芝生の地面に崩れ落ちた――。
――温かい。
いつの日か味わった感触。
この形。この温もり。この、柔らかさ――
ぼやけた頭でも、はっきりと理解できるものがあった。
“こいつ”、だ――。
「……ばっ、離せよ…っ!」
胸の下の獲物はもがく。俺は目を覚ます。
倒れた衝撃で頭を打ったらしく、目の前がチカチカ光っている。
「離せったら…離せ!!」
俺は身体をどけて、か弱い青年を自由にした。苦々しい顔をしている彼は、起き上がって俺を睨む。
「…なんで…ッ、ついてくるんだよっ!!」
彼は瞼を涙いっぱいにして泣き出した。俺はいまだに頭がくらくらして、言い返す元気がなかった。
頭を押さえ、彼をぼんやり眺めていたら、ぐわんぐわん揺れていた視界が、一気に落ち着いた。
(…前もこいつが泣いていたのを、見た。しかも、この目で)
覚えている。
彼は傷と埃にまみれて、俺の名前を読んでいた。
あの時俺は、こいつに笑ってと諭した記憶がある。
(…思い出した)
闇に包まれていた部分に、光が差し込んだみたいだった。
確か、学校ではいつも隣にいた。一緒に海へ行ったこともある。けんかもした。デートもしたし、迸る熱い夜だって――。
(こいつは、“冬夜”だ。長年自分の中の自分が探し求めていた恋人だ)
荒れていた中学の頃、俺はこいつに出会った。あの日も今のように夏だった。道でうずくまっていた冬夜を、この公園に連れてきたんだ。
(…ああ、そうだ…)
それから関係が始まった。まもなく冬夜から告白された。俺は内心びっくりしたけれど、とても嬉しかった。すぐに俺は、こいつが好きになった。後で、どうしようもなくなるくらいに。
それまで本気になることが分からなかった俺に、冬夜は愛を教えてくれた。彼は、退屈で鬱憤が溜まっていた日々を、パッと明るくしてくれたんだ。
その純粋な心とあどけなさに惹かれた。見ているだけで、傍にいるだけで、優しい気持ちになれる。欠けた自分を、満たしてくれるんだ。
現に、今だって…――。
「…ごめん」
俺は座ったまま、そいつに手を伸ばした。儚そうな雰囲気まるごと、自分の胸に閉じ込める。
いろいろな感情が溢れてくる。
「…はな、して…っ」
冬夜は俺の胸に手を当て、小さく嗚咽を漏らした。
「離してよ…っ、」
「ごめん…冬夜」
「だめ…だめ、だよ…」
「…何が駄目なんだ?」
聞き返すと、冬夜は黙りこくった。胸の辺りがじんわり濡れてくるのを感じる。
「…だって、僕は…」
数秒間があった。変な緊張が訪れる。
俺は腕の力をゆるめ、冬夜の顔をうかがった。俯いているので、表情は分からない。
「僕は…疫病神…だから…」
「…疫病神?」
「ごめんなさいっ、全部僕のせいなんだ…っ」
「…冬夜」
「僕がいなければ……」
あなたに傷を負わせることもなかったのに、と涙声になる冬夜は見ていて痛々しかった。
本当に、おまえのせいじゃないのに…。
「…謝るのは、こっちだよ」
冬夜が抱え込むことではない。寧ろ、俺の失態が招いたことなんだ。
「…ごめんな、独りでつらい思いをさせて」
もう一度、冬夜の細い肩を抱きしめる。今度は少し強めに。
過去の記憶が蘇る。群集にたたずむ冬夜の、呆然とした顔を思い出す。
事故の数分前のことだ。
「い、痛い……」
今なら、どういったきっかけでこうなってしまったのか理解できる。
「……あの時、あの女が仕掛けた罠に気づかずにいたんだ。あの女は俺とおまえの仲を引き裂きたがっていた。俺に何をやっても無駄なんで、おまえにターゲットを変えようとしたんだな。だから…」
話している間、冬夜の身体がどんどん硬直していくのが感じられた。
「…冬夜?」
冬夜は、目を見開き、俺を見上げた。
「き、記憶…、戻ったの?」
冬夜の驚いた顔に、苦笑いが込み上げた。泣き晴らして、赤い頬に涙のあとが幾筋もついている。
「…ああ。もうバッチリさ」
「そう、なんだ…」
「うん」
俺は両手で冬夜の小さな顔を包み、親指で涙を拭いた。
「…あの女とは、最初から何もないから」
「…でも、キスしてたじゃん…」
「そんなの、無理やりされたに決まってんだろ。はーぁ、キスされるだけで最悪なのに、おまえに見られるわ、事故って記憶をなくすわ…弁解の余地もなかったわ」
「…ほんと?」
「本当。あの後おまえを追いかけて、これを言いたかった」
冬夜は伏し目がちになった。長い睫毛に細かい滴が載っている。
「…やっぱり、僕が逃げたりしたから…」
「冬夜、それは違う」
「え…?」
俺は、上目遣いする冬夜の瞼に唇を寄せた。火照っているせいか、熱い。
「……おまえは逃げ出して当然だろう。じゃないと俺が悲しい」
「…」
「それに、俺は別に事故で失ったものはないって思ってるから。記憶は確かになくしかけたけど、親ともうまくいってるし、むこうで何不自由ない生活を送れてるんだ」
「へ、へぇ……」
冬夜はぎこちなく目をそ らす。俺はその頬を両手で挟み、正面を向かせる。
記憶にある彼と、ほとんど変わらない。
黒目がちな瞳と、すっとした鼻筋。少し赤みがかった頬と、形のいい柔らかな唇。
自然に自分の頬も弛くなる。
「…おまえ以外はな」
「…っ!」
また冬夜の瞳は潤い始めた。嬉しそうに口元が半開きになっている。
俺はその顔が見たい。
「向こうで生活してるとき、いつも何が足りなかった。物質的にも精神的にも充実していたはずなのに、おまえがいないせいで、満たされねぇんだよ。可笑しいよな、記憶はないのに、心と身体がちゃんと覚えてるんだぜ」
俺が自嘲的に笑いあげると、冬夜もつられて表情が柔らかくなった。涙が弧を描いて流れ、目を細めて抱きついてきた。
「…可笑しくなんかない…」
こんなに、幸せなことがあるだろうか。
大好きな人が、傍にいる。
俺は笑うのをやめ、冬夜の骨ばった背中に腕を回した。
「…すごく、すごく嬉しい…っ」
くぐもった声は震えていた。
「…ああ」
「好き…、大好き…」
「うん、愛してる」
震え崩れそうな身体を押し倒して。
微笑む愛しい人に、ゆっくり口づけて。
幸福の味を、いつまでも味わった。
8月の空は青い…――。
君が好き。
好きなんだよ。
好きで好きで……たまらなくなる。
君といるときは生きているって実感できるん だ。
君の隣で笑いたい。
君の胸の中で泣きたい。
君とどこまでも、たとえ世界が滅びようとも、 手を取り合って生きていきたい。
――……そう、君と。
【完】
『協奏曲~君と。~』完結しました。
長い間本当にありがとうございました。