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「…は…ぁ…っ」
長らく馴染みのなかった行為に、僕は戸惑いの最中にいた。
男の唇が首筋にかかる。躰の芯から震えが止まらなくて、身動きがとれなかった。
「…んっ…」
男の手が僕の性感帯を妖しく撫で回す。感じてしまう度、罪悪感に苛まされる。
(ごめんなさい…っ)
誰に謝っているのかは自分でも分からない。けれど、これはしてはいけないことだということは心得ている。
(ごめんなさいっ…ごめんなさい……っ)
どうしてだろう。僕はもう、誰を好きになっても構わないのに。
誰とこういうことをしても許されるのに。
僕はいったい誰に申し訳なく思わなくてはならないのだろう?
見えない鎖が僕を蝕んでいる。自由になりたくて、束縛という深い沼でもがいている。
でも、もがけばもがくほど、自分の体は重く沈んでいく。無駄な足掻きなのかもしれない。
(店長……っ)
誰かを好きになりたい。自分の弱さが嫌になる。
もう、あの人とは結ばれることがないのだから――。
「……冬夜」
呼ばれて目を開けると、男の無表情があった。窓の外からは、明るい光が差し込んでいた。
店長は大げさにため息をつき、乱れた髪をかき上げて僕の上から体をどけた。
「…馬鹿冬夜。んな怯えた顔してんじゃねえ。萎える」
「ご、めんなさ…」
「謝るな。余計気分悪ぃ」
店長はベッドの縁に腰掛け、猫背になりながらタバコをふかした。
鉛のような沈黙が降りる。僕はどう切り出せばいいのか分からなくて、俯いていた。
今度こそ本当に彼を怒らせてしまったのだろう。
泣きたくなった。
「…冬夜、お前他に好きな人いるんだろ?」
しばらくして、店長が口を開いてくれた。彼は二本目のタバコに火をつけていた。
僕は涙目のまま店長を睨んだ。
「…いました…けど、」
「過去形か。じゃあ今は違うのか?」
意地悪い言い方に、僕は少しカチンと来た。自制がきかなくなって、僕は声を荒げた。
「…もう、いいんですっ……過去のことは…」
あの人といた時の記憶は、今となってははがそうとしてもはがれなくなったガムみたいに、鬱陶しいものでしかない。とか言っているくせに、きっぱりと切り捨てる勇気もない。
「あのなぁ、冬夜」
店長はいきなり立ち上がった。僕は反射的に見上げる。
「どういう経緯があるのかは知らんが、俺はそいつの身代わりにはなれん」
「…身代わりだなんて…っ!」
「心ではそう思ってないのかもしれんが、お前は俺を見ていないだろ。そんなの、言われなくても分かる」
僕は押し黙った。確かに、あの人のことは引きずっている。でも店長への気持ちは、それとは関係ないものだと思っている。
潜在意識の中であの人と店長を重ねてしまっていたのなら、僕はとても罪深いことをしてしまったことになる。そうでないと信じたい。
…本当に自分で自分が分からない。
「…まあ、お前はまだ20にもならないガキんちょだ。ちょっと何かあるとフラフラしちまうんだろう。それは俺もそうだった。でもな、冬夜」
店長はタバコを口に咥えながらシャツを羽織り、ボタンを閉めていた。
「本当に大事なことは見失ってはだめだ。お前はまだ若い。一時の過ちが、大きな傷になるんだぞ。今回は俺がお前に酒をすすめたのも悪かった。すまないな」
「そんな……」
「んなしけた顔すんな。ほら、着替え」
目の前に僕の服を投げ捨てられる。店長はもうすべて服を着終わっていた。
「要は、フラつくなってことだよ。お前の俺への気持ちは、すべてそいつに向けられたものなんだ。中途半端なままにするな」
その後約1時間のお説教をくらい、終わった頃には朝の7時になっていた。朝食は店長が作ってくれた。僕はそれを食し、店長の家を後にした。
もう何も感じられない。考えられない。自己嫌悪以外は。
(何ということをしてしまったんだろう。今回は店長が分かってくれる人だから救われたようなものだ。本当馬鹿だ、自分)
茫然としながら歩いて帰宅する。よりによって、今日は地元に帰る日だ。
(嫌だな……)
でも荷物はまとめてあるし、母さんにも連絡してしまった。どんなに拒んでも、今日帰郷しなければいけないだろう。
アパートに入っても、しばらくぼーっと座り込んでいた。今は何もしたくない。誰にも会いたくない。
その体勢のまま、3時間ほど経過した。
気づいたら、もう太陽は真上にあった。
いい加減、いつまでもこうしているわけにはいかないので、僕は自分に鞭打って立ち上がった。ほとんど何も考えないまま、出かける用意をし、昼食も食べないで外に出る。足取りもおぼつかない感じだったけれど、何とか駅に到着した。
(皆にどんな顔して会えばいいんだ…)
新幹線に乗ろうとする直前、一通のメールが入った。母さんからだ。
開くと、可愛く装飾したデコメールで、「早く帰ってきてね」と書かれていた。僕は大して気にもとめず、携帯をしまう。
あの人のことだから、今頃呑気に僕の帰りを待っているのだろう。ケーキでも焼きながら。
複雑な気持ちになりながら、新幹線に乗り込んだ。しばらくこの憂鬱は晴れないだろう。