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――…体の奥深くで刻み続けている鼓動。溢れるぬくもり。
自分とは別に拍を刻むこのリズムは、いったい何なのか。このあたたかさは、いったいどこからくるのか。
目を覚ましてから、ずっと謎のままだった。
「…え、爺やが骨折した…!?」
俺が鼻唄混じりでリビングに戻ると、神妙な顔つきをした母親に爺やの近況を伝えられた。
「…ええ。昨日階段で転倒して、左脚を骨折したらしいの。大事には至らなかったらしいけど」
「まじかよ…」
爺やとはまだ俺が日本で暮らしていた頃、ハウスキーパー兼子守りをしていた人物だ。今でももといた家の管理をしているらしい。
「…まぁ、爺も年だからな…気を付けてないと、大きな事故になりかねないよな」
「…そうね」
母親は考え込むようにうなずいた。その後聞いた話だと、爺は俺が事故った時に世話になった病院にいるらしい。全治2週間の大けがで、今は安静にしているという。
全貌を把握すると、何だか自分も怪我したみたいに左脚が痛くなってきた。爺が心配だ。痩せ気味だし何より高齢だから、治るスピードが遅いのではないだろうか。それに独り身だし、俺は俺で高校の時に渡米してから一度も日本帰っていないから、さびしい思いをしているかもしれない。
「……母さん、俺、見舞いに行っていいかな」
彼は俺の第二の親でもあるから、他人ごとでは済ませられない。
母親は無表情で俺を見上げ、少し間をおいて口を開いた。
「…いいわよ。むしろ、行ってきなさい。爺も、あなたのことをいろいろ気にかけていたわ」
そんなわけで、3日後俺は日本に行くことになった。
「…ふーっ…」
自室に戻り、バカでかいベッドに身を沈める。思ってもみなかった展開に、少し動揺している。
俺は現在アメリカに住み、アメリカのとある大学に通っている。学科は父親のあとを継いで建築学科。スポーツは事故以来、できなくなった。
最初は英語とか文化とかの違いでかなり戸惑ったけれど、最近では一人前に過ごせていると思う。
大学はサマーバケーションに入っていて、もう講義とかは何もない。しかし俺は資格などを取らなくてはならない以上、休みでも遊んではいられない。毎日勉強に取り組んでいる。
「…日本かぁ…」
遠い。
俺の記憶は主に事故以降のものだ。相変わらず中学時代の出来事は思い出せない。すっぱり抜け落ちてしまっているのだ。日本での生活と言えば、幼少期にまで遡ってしまう。だから、距離的にも精神的にも日本は遠い。
うとうととまどろみかけた時、尻ポケットに入っていた携帯が鳴った。慌ててタッチパネルを操作し、耳に当てた。
「…ハロー」
「オハヨウ、コウイチ」
電話の相手は同じ学科に通う女の子、リサだった。講義で一緒になることが多く、また彼女は日系人なので親近感が湧き、仲良くしている。
「リサ、また日本語が上手くなったね」
「アリガトウ。っていっても挨拶だけじゃない」
「ま、頑張って」
ひどーい、と避難する彼女に、内心笑みがこぼれる。
声を聞いただけで分かる。彼女がどんな表情をしているのか。
「…そう言うあなただって…ああでも英語はペラペラね」
「どうも」
「…ムカつくわ」
今、彼女は苦笑いしながら、空いている手で焦げ茶色の髪をもてあそんでいるんだろう。
想像しようとする前に頭に浮かぶ。自分でも驚くぐらい、自然に。
――…俺は気づいてしまったんだ。
少し前から、この子が気になっているんだと。
「……それで? 何?」
俺が聞き直すと、彼女は「ああ、」と何かを思いだし、本題に入った。
「…あのね、明日の夜、アリスの家でパーティーするんだけど。来ない?」
何かと思えば、パーティーの誘い。これはチャンス、と胸が勝手に高まってしまう。
「…ああ、行くよ。そう言えばアリス、誕生日だったね」
「…そうそう。そうなのよ。それで、私と私の友達とでサプライズパーティーしようと思ってるのよ。ただ男子の人手が足りなくて…」
「OK。協力するよ」
俺はリサからパーティーの計画を聞き、久々の楽しそうなイベントに心を踊らせて電話を切った。
脱力してベッドに大の字になる。今度こそは、という期待を抱き、目をつぶる。
(……なんか…)
事故を起こしてから最近まで、誰かを好きになるということはなかった。というか、なれなかった。異国の地という新しい環境に慣れることで精一杯だったからだ。
やっと芽生えたこの感情。少し戸惑いがあるけれど、実らせてみたい。
爺やには悪いけれど、明日は精一杯楽しみたいと思う。
…そう思って寝返りを打った時だった。
自分のとは違う鼓動が、胸の内側で鳴り響いた。そして柔らかいぬくもりが、まるで俺のことを抱き締めるように、体全体を包み込んだ。
度々感じる、この感触。
何なのだろう。
3年前昏睡状態から復活してからずっと、この得体の知れない現象に付きまとわれている。一体、それが何を意味するのかは予想もつかない。そしていつもその時は、自分に欠けているものがあるような、寂しい感覚にとらわれる。
今の自分には、決定的に足りないものがある。失った記憶だけではなくて、他に大事な何かが……。
幼い頃のように、毎日寂しい思いもしていない。アメリカに来て、学校生活も友人関係も、かなり充実していると思う。まったく新しい人生を切り開き、自分でも驚くほど正確が明るく社交的になったとさえ感じる。
なのに、この物足りなさは何だろう。満たされた生活に、馴染めない自分がいる。
何が足りないんだ。何が欲しいんだろう。
(…どうすればこのモヤモヤは解消されるんだろうか)
体が疼く。自分の知らない自分が、勝手に何かを求めている。
それが何か知りたい。
求めているものが分かるだけでも、この浮遊感から抜け出せる気がする。
翌日、リサから言われた通りタキシードを用意して、パーティーにある男友達を連れていった。彼の名はジョナサン。呼び名はジョン。顔は童顔で天使みたいに可愛いのに、体はマッスルな人物だ。アリスはそんな彼に片想い中だという。
「…何だよコウイチ、急に呼び出して」
俺が運転する車に無理やり詰め込むと、ジョンは不服そうな声をあげた。
「まあまあ。今日暇だったんだろ。いいじゃん」
「だから何があるんだよ」
「ほれ。これ着て? 今日はマジだ」
「何がマジなんだよ」
「今日はアリスの誕生日。サプライズ。これ言えば分かるだろ?」
彼はうつ向いて赤くなった。実はこいつも好きだったりする。奥手なジョンを勇気づけてくっつけさせてやろうというのが今回の最大の狙いらしい。
「…そんな、心のじゅ」
「やらないとは言わせないよ。お前が彼女を好きなのは皆気づいてたから」
「…でもなぁっ、」
「いちいち騒ぐなよっ。彼女のひとりやふたり出来なくてどうする。ほら、いくぜっ」
俺はアクセルを踏み込み、ハンドルをきった。反動で体がシートにむち打ったが、そんなの気にせずスピードを上げる。
――その数分後。
「…別に彼女ふたりいらない」
ジョンの呟きに俺は訂正を加えなければならなかった。
アリスの家に着いた。家の脇に車をとめると、ちょうどなかからリサが出てきた。夕暮れ時で薄暗かったけれど、彼女のことはすぐに分かる。その華奢な体のラインに、自分の胸が高まるのを感じた。
「やあ、リサ」
俺は車から降り、彼女に手を振る。彼女は俺に気づくと、にっこり笑い返してくれた。そのえくぼのある笑顔はとてもかわいい。
「…ありがとう、コウイチ。ジョンは?」
「ここ。ちょっとふて腐れてる」
「だろうね。でも、もうじきアリス帰ってくると思うから……」
言いながら、彼女はこちらに近づいてくる。ぼやけていた輪郭が、はっきり見えてくる。
「早く着替えたほうがいいわ。主役がいないなんて、このパーティーをする意味が半減しちゃうから」
おしゃれをしているからなのか夏だからなのか――今日のリサは少し大胆な格好をしている。桜の花びらのような薄ピンクのドレスは、胸元が大きく開いていて、邪な感情がなくても自然と胸の膨らみに目がいってしまう。化粧だっていつもと違う。
彼女がすぐ隣に立つと、心臓が激しく暴れ出した。それは抑えようにも抑えられず、ただ気づかれないようにじっとしているのが精一杯だった。
「――ほーら、ジョン。今日は頑張って?」
彼女は屈んで車の中を覗く。ジョンは目を丸くした。
「…リサ…君の提案か」
「そうよ? だから?」
「いや…」
「こうでもしないとあなたは動かないでしょ? ほらあなた男でしょっ、ぐずぐずしないで車を降りなさい!」
見ているとまるで母親とできの悪い息子だ。ジョンはリサの迫力に負けて車から飛び降り、リサは腰にてを当ててフンッと鼻を鳴らした。
「…なんでアリスのことになるとあんなに消極的になるのかしら」
「さぁ。大好きだからじゃないかな」
リサはぷぅっと頬を膨らませた。どうやら納得がいかないようだ。
「…まぁいいわ。あの子に早く着替えるように言ってね。あと逃げ出さないように監視してて」
そこまでしなくてもいいんじゃないかなぁと笑うと、彼女は分かってない、と首を横に振った。
「これがあなたの役割よ。よろしくね」
念を押すようにギロリと睨まれ、俺はうなずかざるを得なかった。
それから家に入り、奥の小さな部屋で何とかジョンを着替えさせた。ついでに自分もタキシードを着る。
「うげぇ、オレこんなの着て出るのかよーっ」
ジョンは姿見を見ながら露骨にいやな顔をした。
「うるさい。なかなか着られないんだぞ、それ。文句あっか。あ、それ親父のやつだから汚すなよ」
「…分かったよ」
俺は自前の黒いものだが、ジョンは白だ。なぜ親父がそんなもの持っていたのか不思議だが。
「……で。だいたいの手筈を説明するんだけど。いいか?」
「…うん」
「まあ、アリスが帰ってきて部屋で皆が驚かしている最中に、ここから出る。頃合いを見計らってリサが何か言うと思うから、そしたらアリスのところへ進んでいけばいい。あとは臨機応変に」
「何か分かったような分からないような」
「細かいことは気にするな。取りあえず、お前が上手くいくことを願ってるよ」
俺の適当な説明だったが、ジョンは最初から頭に入っていたのだろう、彼はパーティでは迷うことなくことを進めた。皆の前で緊張しただろう、しかし堂々と思いを伝えていたジョンを見ていたら、まるで自分の息子が巣立ったみたいな気分になった。
パーティーは大成功に終わり、ジョンとアリスはめでたく付き合い始めることになった。俺も含めて皆、楽しいひと時を過ごした。ただ、ひとりだけ、リサは始終いつもより表情を硬くしていた。
その理由が分かるのは、パーティの帰り道だった。
「…じゃあ、またね」
深夜、俺は女の子を数人車に乗せて家まで送った。もちろんそこにはリサも乗っていた。
彼女の家は一番遠かったので、他の女の子が全員降りてしまった後は、必然的に二人きりになった。
空がまだ暗いせいもあって、気持ちが落ち着かない。何せ、気になっている人が隣にいるのだから。
運転中はずっとリサと他愛もない話をして自分の理性を保つ。こういうときだけは自分がうぶになったみたいで可笑しかった。
「…あ、コウイチ」
彼女の家が近くなってきた頃、突然彼女が車を止めて、と言い出した。
「どうしたの? リサ」
彼女の顔は少し赤いような気がした。酔っているせいもあるのかもしれない。
「ちょっと飲みすぎたみたい。そこに公園があるから、少し散歩でもしない?」
「OK。あんまり無理はするなよ」
適当なところに車を止め、二人で公園に足を踏み入れる。空はまだ暗い。空気も少し冷たい。
俺たちは芝生の上をゆるゆると歩く。夜なので、景色はほとんど分からない。でも多分ここは芝生が遥か彼方まで敷かれているんだと思う。
彼女は控えめに、俺の一歩後ろについてくる。何だか、ためらっているようでもあった。
(リサ……?)
内心、彼女の不思議な言動に驚きながらも、彼女の気持ちに気づかなかったわけではなかった。俺は歩を止め、リサと向かい合った。
「…リサ」
彼女は俯いていた。そして軽く数回うなずいた後、意を決して顔を上げた。
「…コウイチ、あのね、」
見上げてきた彼女の顔に、俺は異変を感じた。これは、彼女ではない誰かに見える。
それともまぶしいくらいの月明かりがそう見せているのだろうか。
「…前から言おうと思ってたんだけど…」
おかしい。何かが違う。彼女の声がだんだん別のものに聞こえてくる。
さっきまで暴れていた自分の心臓が、急に凍りつくのが分かった。
「……好き、なの…っ」
彼女は感極まって抱きついてきた。その体のぬくもりを抱き返そうとするも、「慣れ親しんだ」感覚と違う。自分の腕が思うように動かない。
「リ、リサ……」
自分ではその感覚がどこから来るのか分からない。しかし、体が何かを覚えているのだ。これは違う、昔よく抱きしめていたのはこの人ではない、と。
だから今抱きつかれた感触に、とても違和感があった。 故に告白されたという事実を一瞬忘れかけたほどだ。 これは日頃から感じていた「不可解な現象」の延長上なのかもしれない。
酷く困惑した。この状況を打開するには、どうすればよいだろうか…。
「やっぱり、……ダメ?」
彼女は涙目で顔を上げた。もう、俺は相手を正視できなかった。
「いや…」
眩暈がした。頭の中もぐるぐると渦を巻いている。自分の中で何かが起こっている。俺は我慢ができなくなって目を強くつぶった。
体の隅々で、違う、これは違う、と悲鳴を上げている。
何がどうなっているんだろうか。自分でも分からない。
俺はもう一度、目を開いた。そしてしっかりリサを見るつもりでいた。
(……っ!)
彼女の顔が、一瞬本当の別人に見えた。
そいつは青白い顔して、大きな黒い瞳をじっとこちらに向けている。中性的な顔立ちだから、女か男かは区別できない。でも、彼女のように髪は長くなく、どちらかというとボーイッシュだ。
(……こいつは…!?)
見覚えはある。確実に知っている人物だ。そいつもまた、瞳を潤ませ、透明なしずくを頬に伝わせていた。
そしてそのピンクのきれいな形をした唇が、”こういち”と言った。声こそは聞こえなかったけれど、そいつはしっかりそう口にした。
(何なんだ…一体)
見ていると、胸の奥が熱くなり、涙が出そうなほど心が締め付けられた――。
数秒後、コウイチッ、と誰かに叫ばれ、俺は目を覚ました。先ほどの幻覚はスッと消え、目の前には長い髪のリサがいた。
彼女は幻覚の人物とは違い、健康な肌と女性的な顔立ちをしている。少しホッとした反面、物足りなさが心の中に残った。
「…ボーっとしないで。たまに、あるよね。コウイチって」
「……ごめん」
彼女がこんなに近くにいるのに、もう…ときめかない。自分の心臓も驚くほど落ち着いてしまっている。
好きじゃないわけではないのに、何も感じない。緊張も照れも、心の底からの愛情も。
「…ごめん、リサ。とても嬉しいんだけど…」
彼女は求めていたものと違うことに、気づいてしまったんだ。
「君と付き合うことはできない…」
言い放つと、彼女の瞳から涙がぶわっと溢れ出した。そして泣き顔に歪んだ顔を手で覆い、走り去っていった。
俺はその後姿が小さくなるまでその場に立ち尽くしていた。ドラマなんかだとここで追いかけたりするのかもしれないが、今の俺にそんな気力はなかった。
(最低だ…俺)
気落ちして、月光が降り注ぐ大地に座り込む。リサへの謝罪の言葉を胸のうちで反芻し、空を見上げた。
紺碧のカンバスに、ぽっかりと満月が浮かんでいた。
日本では月には兎がいるという。それを穴が開くほど睨んだ後、もと来た道を辿って自分の車に乗り込んだ。
シートに座った途端、自然と長いため息が出た。体の緊張がとけて、疲労感が体を蝕む。
車に乗ったはいいものの、運転する気にはなれなかった。
何せ、ここから1時間ほど車を走らせないといけない。
それに、今の精神状態は最悪だから、まともに運転できずに事故ってしまいそうだ。
(事故か……)
そういえば自分は交通事故によって記憶をなくした。今もまだ、全部は戻ってきていない。
幻覚で見えたあの人物は何か俺に関係するのだろうか?
(しかし、誰なのだろう…見たことはある気がする)
ずっと前、遥か昔、俺がこっちに来るより以前に見た顔だ。
確かその時は病院で…。
(もしかして、冬夜!?)
春日井冬夜。事故の後に何度も見舞いに来てくれていた人物だ。やはりあいつも白くて顔も容姿も女みたいだった。思い返せば幻影にそっくりだ。
そういえば、恋人疑惑が持ち上がっていたこともあった。
なら、もしかして…。
(ずっと感じていたあのぬくもりは…あいつと過ごしていた時のものなのか?)
でも彼は俺の親友だかそんなことを言っていた。病院で別れてから一度も連絡が来なかったから、本当のところは不明だが。
(でも爺の話だと俺の恋人っぽいことを言っていたし、本人の話もちょっと曖昧なところがあった。他のやつらは教えてくれなかったし。最後まで腑に落ちないところはあったんだよな)
こじつけかもしれない。これはただの自分の妄想でしかないのかもしれない。
でも、可能性はあると思う。
ここまできたら、男とか女とか関係ない。
ただ、もう一度、あいつに会ってみたい。