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それから、数年後…
「ありがとうございました」
――あれから3年。
僕は大学受験という山を乗り越え、日本の音大に通っている。
たった今フルートのレッスンが終わったところで、大学の長い長い通路を歩いている。道行く人、それぞれの楽器を背負い、急ぎ足で歩いている。
僕はというと、夕方からバイト。それまで暇だからのんびり図書館にでも行くつもりだ。
「あ、おはよ、春日井くん」
「おはよ」
前から来た茶髪の女の子が笑顔で話しかけてくる。同じフルート吹きだから、何かと接点がある。
すれ違おうとしたとき、少し大きな声で呼び止められた。
「あ、春日井くん、明日の管楽休講だよ」
「え、そうなの?」
「うん。春日井くん今度の曲乗り番だったよね」
「あー…うん。ありがとう。わざわざ」
いえいえ、とはにかみ、彼女は背中を向けた。僕は親切な彼女に感謝した。
くねくねとわざと遠回りして外に出る。図書館は別館にあるから、その途中のどかな中庭を通ることになる。
今日はいい天気だ。日差しはあたたかいし、木々はさわさわと揺れ、もえぎ色をしている。
世界は何も変わっていない。冬の暗い夜が過ぎれば暖かい春の朝日が昇る。過去に追った傷も、だんだんと風化していくみたいにもう痛いとは感じない。
気分は幸せなのに、目の前に現れた人物によってすべて壊された。
「おーい春日~」
赤髪に近い頭でチャラチャラしている男が手を振っている。まるで高校の時にいた相葉零士を思い出す。
こいつは僕の名前があれに似ているからってよくバカにする。だからスルーする。
「おいカスガ、無視すんなよ」
近寄ってきて、肩をぽんぽん叩かれる。ニヤニヤが、うざい。
「…僕はトゥース!とか言わないし春日じゃなくて春日井!!」
「ぷっはははははははは」
こいつ、腹を抱えて笑いやがった。ムカつくやつはほっといて前に進む。
「ま、待てよ。笑わないからっ」
「…たった今、笑ったよね」
「ごめんごめん、反応が…」
キッと睨むと、やつは冗談っぽくハッと口を塞ぐ。禁句ワードを言おうとしたのだろう。
僕は心の中でため息をつき、面倒くさいけれどやつの相手をする。
「…何か用」
「あーかすがいくんもう講義ないだろ、今日」
やつはにっかり笑う。これは何かを企んでいる顔だ。
「…あるよ」
とっさに嘘をつく。しかし、それはすぐにバレた。
「嘘だー! オレ、知ってるからね。春日井は火曜日の午後暇だって」
「…何で覚えてんだよ」
「そりゃ、皆が注目するカスガイクンですから」
赤髪野郎はナントカスマイルを炸裂させてそう言った。
「きも…」
うわマジで言っただろ、と嘆くバカはほっといて、僕は逃げるように歩き出した。しかしいくら早歩きしても、やつは後ろから金魚のフンのようについてくる。
「春日井~構ってよ~」
「ウザい」
「今日オレ張り切って来たのに授業もレッスンも休講になってさ~、このブレイクハートをどうにかしてほしいの」
「いいじゃん。家帰って練習すれば」
「うわ、冷たっ。カスガイクンってそんな子だったっけ」
「だよ」
「え~」
僕はしばらくスルーしていたが、あまりのしつこさに負けて、やつの昼食に付き合わされることになった。この敗北感は半端ない。
「…しかもマックかよ…」
「何だよ~貧乏学生には優しいんだぜー!?」
「…はいはい」
僕は油っこいのが苦手で、あまりこういうところは来ない。だから、ハンバーガーを美味しそうにかぶり付くやつを見て、恨めしい気持ちになった。
こいつは確か、名前が清水とかいうんだとおもう。専攻は知らない。いつもフラフラしている姿しか見たことがない。
暇を持て余し、僕は楽譜を開く。今日注意された箇所を鉛筆で印をつけていく。
しばらくして、さっきまでハンバーガーを食べていた清水が、顔を上げて僕を覗きこんでいた。
「ふーん」
「…何だよ」
「真面目だねー」
「うっさい。食べることに集中しなよ」
「……疲れないの?」
バカにしているのかとちょっと頭に血が上ったけれど、清水が意外と真剣な眼差しでこちらを見ていたことに驚いた。
続けて、清水は言った。
「何かさー、春日井って心から笑わないよな。いつも気を張ってる感じで。ちょっと不気味」
「…帰っていい?」
「嫌ですごめんなさい」
僕が睨みをきかせると、やつは何もなかったようにムシャムシャ食べ始めた。本人は何気なく言ったのだろうが、僕には少し気になってしまう。
(…そんなこと言われるほどじゃないと思うけどな)
そんなに僕、笑えてないだろうか。普通にしているつもりなのだけど。
清水が全部食べ終わるのを待って、やっと解放された。いったい僕は、なんのために付き合わされていたのだろう。
清水と別れて、ひとり賑やかな大通りを歩く。あいつのせいで、せっかくの時間が台無しになってしまった。僕は諦めて、少し早いけれどバイトに行くことにした。
バイト先は、ファミリーレストラン。僕は大通りに面したイタリアっぽい店に裏から入った。
業務は主にホールスタッフだ。正直厨房がよかったのだけれど、そんな我儘は店長にはね飛ばされてしまった。僕はモノトーンの制服を身につけ、頬を軽く叩いてその日のノルマに取りかかった。
バイトが終わり、へとへとになりながら更衣室で着替える。今日は残業とか言われなくてよかったと内心安心していたところ、部屋にとある人物が入ってきた。
「ういーっす」
人相の悪いスポーツ刈の男。背だけはバカに高い。この人もバイトの仲間だ。仲間と言いたくないけれど。
僕は心の中でため息をつきたくなった。
「あれ、冬夜じゃん」
着替えている僕をチラリと見ては、薄気味悪く笑った。黄色くて歯並びが悪い口は、気持ち悪さを倍増させている。僕は服を着る速度を速める。
「お着替えを見られるなんてラッキ~。最近シフト一緒にならないからさ」
やつはニタニタ笑いながら僕に近寄ってくる。
(…そんなの、わざと違う時間にしてるに決まってんじゃん)
僕は何とか平静を保ち、素早く上着を羽織った。早くここを出たい。しかしやつは後ろから僕に抱きつき、着衣しようとした腕を封じた。
全身に鳥肌がたった。
「な、冬夜。無視するとはいい度胸じゃん?」
耳元で囁かれ、生ぬるくて臭い息が顔にかかる。それだけでもう地獄にいる気分だった。
「…気持ち悪い」
「おい、第一声がそれかよ。可愛い顔して言うことは一人前だな。ちょっとは気を付けた方がいいぜ? お前目当てで店に来ている男はいっぱいいるんだからな」
そんなの願い下げだ。別に男にモテても嬉しくないし、媚びようとさえ思わない。
ましてやこんな男、一緒に働いているというだけで不愉快だ。
「…離してよ」
言っても無駄なのは分かっているが、とりあえず言ってみる。
「やーだね。前言っただろ。今度会ったときはメチャメチャにしてやるって」
セクハラ変態男。僕がここで働いているのを知ってここまで追いかけてきた正真正銘のストーカー。
声に出さないだけでさんざん罵ったけれど、こいつには伝わらない。
「……お前の澄ました可愛い顔が狂っていくのを見たい」
悪寒がした。
「…目を覚ませよ。僕は男だ。それに、可愛い言うな」
「いや、お前は何もわかっちゃいない。こんなに可愛い顔して男っていうのが奇跡で、……そそられるんだよ…」
変態は僕の首筋にキスをした。しかもいやらしい音つきだ。帰ったら即行洗い流す。
やつは興奮しているのか、いささか鼻息を荒くして言った。
「それに…聞いたよ。中学の時か高校か知らんが、…男と付き合ってたんだろう? …なら大丈夫だよな」
「何がだよ」
「ここだよ……」
するっと臀部を触れられる。僕は言葉がでなかった。
「……」
「男とは別れたんか? お前を手放すなんてもったいない。…俺だったらもっと良くしてやるのにな。冬夜だって、気持ちいいの、好きだろ?」
やつは僕の躰を妖しく撫で回した。僕はこんなの望んでいない。それに大切な人を悪く言われて、苛立ちが爆発した。
「ふざけるな!!」
怒りで躰が震えて、やつの鳩尾に一発肘鉄を食らわせた。やつは体をくの字に曲げてしばらくもがいていた。僕はその間に荷物をまとめる。
「…ツッ」
実はこれ、二度目だ。この間も同じことをした。
「気持ち悪いし近寄るな!! 僕はお前の顔なんか見たくない!」
僕はリュックを背負って部屋を出る。ドアを閉めると同時に、やつが「今度メチャクチャに犯してやる…」と呟いたのが耳に入ってきた。
僕は身震いしながら店を出た。今すぐにでもバイトを変えたい。でも僕はあの店で長年勤めているから、「お前はここの顔だから」とか言ってなかなかやめさせてくれない。
疲れる。毎日毎日違う男が寄ってくる。大抵が下心のある変態だ。気持ち悪い。僕は別に男が好きなわけじゃない。
こうなり始めたのは、3年前「あの人」と別れてからだ。まだ高校の頃は黒木くんたちが守ってくれたけれど、今は別の大学だ。僕はひとりで振り払わなければならない。
自分の女みたいな顔と容姿が嫌いだ。ついでに可愛いという単語も言われたくない。こんなだから、ロリコンだかショタコンだかよく分からない物好きが寄ってきてしまうんだ。
外は暗かった。急いで家に帰る。大学に入ってから一人暮らしを始めたから、帰宅してもひとりぼっちだ。玄関から狭いキッチンを通って寝室のベッドにダイブする。
気分は落ち込み、慢性イライラが原因で頭痛と吐き気がする。毎日、嫌なことが多すぎる。
「あの人」がいた頃は今の自分とまったく逆だったけれど…。
「…うっ…んっ」
抑えていた感情が涙になって溢れてしまった。「あの人」のことを思い出すと感傷的な気持ちになってしまう。最近は頑張って思い出さないようにしていたのに、さっきみたいに変な男に嫌なことをされると、それは出来ないみたいだ。
つらい。苦しい。ひとりは、嫌だ。
――…でもこれは、自分が招いた結果。
「んっ…ふっ」
悲しいことが目の前で起こったわけじゃないのに、次々と大粒の涙がこぼれ落ちる。止めたくても止まらない。
「こういち……」
精悍な顔立ちの、愛しい人。切れ長の目と高い鼻が僕は好きだった。笑った顔にドキドキした。
何年経っても好きなのは変わらない。
もう一緒になれるはずないのに、いつまでも未練たらしくしている自分が嫌だ。かといって、他の人を好きになれそうもない。
それだけ、大好きなひとだったから……。
***
「…冬夜、顔疲れてる」
会って早々そう口にしたのは、何を隠そう黒木くんだ。
高校の友達が恋しくなって、黒木くんが通う大学に遊びにいっていた。眺めの綺麗なラウンジで、僕らは見かけ優雅なティータイムのようなことをしている。でも実際は僕の愚痴大会だ。
「……また男に追いかけ回されているのか?」
黒木くんは何でもお見通しらしい。
「……うん」
「まぁ、分からなくもないけどな。冬夜みたいな別嬪さんはなかなかいないから」
「それ黒木くんに言われたくない」
黒木くんだって…今こそひとりに落ち着いているけれど、高校の時は皆の注目の的だった。
逆に今の状況のお陰で、当時の黒木くんの気持ちは分かったけれど。
(でも別に分かりたくはなかったけどね…)
「いや、俺の場合は違うから」
「そんなことないでしょ」
「…いや…。でも冬夜の気持ちは分かるよ。俺一時期夜ひとりで歩くの怖かったし」
黒木くんは苦笑いした。その笑った顔だってイケメン過ぎる。
彼が人気あるのは分かるけれど、何で僕が…。
「……冬夜は純粋だからだよ。今どき、冬夜みたいに頑張り屋で素直な子ってなかなかいないからね。おまけに美人だし」
「何それ」
「男ってそういうのが好きなんだと思うよ」
黒木くんは腕を組んで、伏し目がちに頬を緩ませた。
(純粋なものが好き、かぁ…)
そう言う彼はどうなんだろうか。他の男連中と同じことを思っているのだろうか?
「…黒木くんもそうなの?」
おそるおそる聞いてみたが、黒木くんはためらいなく首を縦に振った。
「…そうだよ。自分が汚れていることを知っているからね。純粋な心って憧れるんだよ。俺の場合、そういうやつに近づきたくなる。それは距離っていう意味よりかは目標に似てるけど」
「ふーん…」
黒木くんは自嘲的に笑いながら、コーヒーを啜った。この人には、確か人に言えないほど暗い過去があるという。それは何かは聞こうとは思わない。
……でも。
「…汚れてるなんて言わないで」
「え?」
黒木くんには似合わない。そんな言葉。
彼はきっと、他の連中とは違うと思う。
「黒木くんは汚れてなんかないよ。そんなこと言ったら僕なんか…」
一番愛しかった人を死の淵まで追いやってしまった過去がある。それでいてどうして、汚れていないというのだろう?
「…どうした、冬夜」
「だって…」
情けなくて、自分の言葉も尻すぼみになってしまう。一時の自分の感情に流されて起こした結果がこれだ。
自分は罪を負うべきなんだ。
「……まだ引きずってんのか? ……事故のこと」
僕は返事ができなかった。図星だからだ。
だって、自分のせいで人の人生を大幅に変えてしまったのに、どうして忘れられるだろうか?
引きずらない方がおかしい。
ましてや命より大切だった人を。
「…そうだよな、そう簡単には自分を許せないよな……」
彼の言葉は僕の心に寄り添うようにやさしくて、凝り固まった心がどろどろに溶けていく。
「黒木くん…っ」
ついに僕は胸の痛みに耐えられず、「あの人」がいなくなってからずっと抱え込んでいた心の闇をすべて吐き出した。
こんなこと、本当は話してはいけないのかもしれない。黒木くんに嫌な思いをさせてしまうかもしれない。でも彼は「気にするな」と言って、悩みを真剣に聞いてくれた。
お陰で帰る頃にはスッキリした気分になった。
「…ごめん……ありがとう」
「いいんだよ。今日は半分そのために来たんだろ?」
こうやって、話せる相手がいるのは本当にありがたいと思う。これまでに、何回か僕は黒木くんにお世話になった。問題は解決しないけれど、幾分心は軽くなる。
「しかしここまで純粋に想われて、幸せ者だな、あいつは」
「…え…」
「…何でもないよ。またつらくなったらいつでもおいで。抱え込むのが一番駄目だから」
「…うん、ありがとう」
うなずく僕に、黒木くんは笑って軽くウインクして見せた。やっぱり、どこをどうとっても彼は格好いい。
僕は黒木くんと別れて、大学を後にした。
一時的な充実感を味わいながら、僕は自分の本拠地に向かう。
いい加減、前に進まなければ。
そして、過去とはおさらばしなければ。
もう「あの人」を思い出さないように……。