9
白くて、何もない廊下を歩く。
ふとつまづきそうになったけれど、なんの感情も起こらずに淡々と歩を進めていく。
無論、心のなかも何もない。何も感じない。今なら上からバケツの水が降ってきても、何もなかったようにやり過ごせるだろう。
(…これでいい、これでいいんだ)
傾斜の緩やかな階段を降りれば、ある人が腕を組んで待っていた。
その人はぼくが来るのを見て、慌てて姿勢を正した。こちらの様子をうかがっては、冬夜、と小さく呟く。
ぼくは彼を前にした瞬間、感情が一気に戻ってきて涙が止まらなくなった。
「黒木くんっ…!!」
ぼくは駆け込むように、黒木くんに抱きついた。黒木くんはぼくの背中と頭に手を回し、やさしく撫でてくれた。
「…よくやった…」
黒木くんはぼくを抱き締め、唸るような声で慰めてくれた。
「よくやったよ、冬夜…――」
体のぬくもりとあたたかな言葉が心に染みる。ぼくは相手のジャケットがグショグショになるのが分かっていても、泣かずにはいられなかった。
涙が涸れるまで泣き晴らした。
***
それは数日前のこと。
ぼくはこういちのご両親に呼ばれて、とあるカフェに行った。彼らはすごくやさしい雰囲気だったけれど、ぼくのことをよく思っていないのは聞かないでも分かった。
『…君が、晃一と交際していたと聞いているよ。晃一が持っていた携帯を見ても、それは覆せない事実みたいだね。――…別に君たちが付き合っていたのが悪いって言っているんじゃない…むしろあの子にも、本気で人を愛せるんだと証明できて、感謝している。――…でも、こういう結果的にこうなってしまったからね。――…つらいだろうけど…』
ぼくはふたりの話を聞いていて、ずっと泣いていたと思う。
『…別れてくれないか。――…そして、二度と会わないでほしい。…あの子には今回のことによって新しい人生を切り開かせるつもりだし、過去の存在は知らないほうがいいんだ……』
面談が終わり、カフェを出てから家に帰るまで涙が止まらなかった。涙腺なんかなくなってしまえばいいと思うくらい、泣いた。
ご両親のお話は少し悔しかったけれど、こういちのためを思うならそうするしかないのだと思った。ぼくがこういちを解放して、彼の本当の居場所に帰してあげる。家族という、家のなかに。
あらかじめ、こういちと1日だけ会うことを許してもらった。でもぼくは病院に行きたくなかった。行ったら、本当に終わってしまう。僕らの関係は白紙になってしまう。悩みに悩みぬいて、最後の日――こういちの退院の日に行ったのだ。
前々から黒木くんには打ち明けてあり、その日も病院までついてきてくれた。心強い味方をロビーに置いて、いざ愛しかった人のところへ向かう。十字架を背負ったキリストのように、その道のりはひどく重く、つらいものだった。
久しぶりに会うこういちは、すっかり元気になり、ギプスさえなければ以前の彼のようだった。つかの間やるべきことを忘れ、心が揺らぎかけたけれど、事前に用意していたシナリオどおりに事を進めた。
嘘なんかつきたくなかった。本当は「ぼくがあなたの恋人なんです」と言ってしまいたかった。でも、これはこういちのため。
始終泣きそうになったけれど、というか途中泣いてしまったけれど、何とか任務を終えた。「ばいばい」と背を向けてしまった時には、もういっそ死んでしまいたいと思った。
もう明日には旅立ってしまう。ぼくの知らない、どこか遠くへ。
別に死ぬんじゃないから本当の別れではないけれど、でも、もっと君といたかった。
君が好き。
好きなんだよ。
好きで好きでたまらなかった。
君といるときは生きているって実感できたんだ。
君の隣でもっと笑いたかった。
君の胸の中で泣きたかった。
君とどこまでも、たとえ世界が滅びようとも、手を取り合って生きていきたかった。
――…そう、それはもう昔の夢。
あの記憶は春の夜の夢でしかない。どんなに深く愛し合っていても、きっといつかは散り去っていくものなんだ。
もう君の隣で生きていくことはできないけれど、でも同じ世界で同じ空気を吸って毎日を過ごせるならそれで幸せだよ。
どんな場所にいても、ぼくは、君を心から愛しています――…。