8-2
***
転機は、思いもよらぬ瞬間にやってくる。
「あ…れ」
物音がするので目を開けたら、銀髪の老人が向かい側のカーテンを閉めていた。
「ああ、坊ちゃん」
彼は振り返り、俺を確認し、申し訳なさそうに笑った。背は割と長身で、痩せぎみだ。
「…起こしてしまいましたか。外が暗くなっていたので…」
彼は脇にあった電気をつけた。そして優雅な振る舞いでこちらに近づく。俺はそれを黙って見ていた。
(あ、この歩き方、腕の振り方、シワの多い顔…)
突然、眼前に閃光が走り、同じような映像が脳裏に浮かんだ。その像は薄ぼやけているけれど、この人は…。
幾重にも重なっていた輪郭が、一本の線になった。霧の中から現れた人物に、記憶の欠片と重ね合わせる。
自分の喉が震えるのが分かった。ずっと悩まされていた謎の渦からやっと抜け出せたからだ。
「爺や、だろ」
彼は驚き、立ち止まった。そのおどけた表情だって、見覚えがある。
「坊ちゃん…もしかして」
「おまえ、爺や、だろ? 俺が知ってる爺や、だろ?」
みるみるうちに幼少の記憶が蘇ってくる。物心ついたときからずっとそばにいてくれた。家に帰ると必ずこの人が「おかえりなさい」と迎えてくれた。
幼い頃はよく叱られて怖かったけれど、目の前の人物は優しそうな笑みを浮かべている。
「…はい。 爺やですよ。坊ちゃん、あなたは?」
「俺は…」
この人に何度も呼ばれた名前。意識が回復してからも聞いたが、今ならちゃんと自覚して言うことができる。
「…晃一だ。木菅、晃一」
すとん、と地に降り立ったみたいだった。地面の固さが痛いほど感じる。
爺やはにっこり笑った。
「そうですよ。あなたは晃一坊ちゃんです。…おかえりなさい」
不意に思い出と重なり、泣きそうになった。
爺とは面会時間がギリギリになるまで話した。自分のことが思い出せると、他のことも芋づる式に記憶が戻ってくる。例えば、あの双子は保育所に通っていたときから知っている。確かに、あいつらはヴァイオリンとかいう楽器とピアノというでかい楽器を、誕生日会か何かで共演していたのを見たことがある。遠い昔だが、とても鮮明に覚えている。今日見る限り、あいつらは昔とほとんど変わっていないみたいだ。母親も父親も分かる。家にいないことがほとんどだったから、寂しい記憶しかないが。
爺のことは事細かに思い出せる。小さい頃の俺は言うことを聞かない悪ガキで、よくこっぴどく叱られていた。爺はいつも黒っぽい服を着ていたから、悪魔とか怪物のように怖れていた時期もあった。褒められることこそ少なかったが(それだけ俺が悪行三昧だったわけだが)、それでも時間がたつにつれ、親のように信頼のおける人物になっていたことは間違いない。
他にも思い出せる。幼い記憶なら。
しかしなぜか、直近何年間かの記憶は空白の状態だ。
「…そこまで思い出せたのですから、安心しなさいな。もうじき全部の記憶が戻ってきますよ」
「本当かな…」
「さあ」
爺は目をぱっちり開いて肩をすくめた。
見慣れた景色に萎縮していた心が和らいだ。
「…分からないのかよ」
「ええ。残念ながら私は神様ではありませんので」
「知ってる」
少しばかり落ち込んでいる俺に、爺は優しく微笑みかけた。
「そんなに気を落とさなくても、まだまだ可能性は残されていますよ。それよりも爺は、坊ちゃんに一番に思い出していただけて、光栄です」
「当たり前だろ。爺は誰よりも長くいてくれたんだからな」
「おお、坊ちゃん」
今は、というか昔から、何でも話せるのは爺だけだ。
爺なら、あの質問にも答えてくれるかもしれない。
誰も触れようとしなかった、あの問いに。
聞いてみようか。
「爺、ひとつ聞いていいか」
「はい、何なりと」
俺は喉まででかかっている言葉を、無理矢理吐き出した。
「俺さ、どうして事故なんかになったんだ?」
爺の表情は一瞬にして固くなった。
「坊ちゃん…」
「俺がこんな状態になったのは、交通事故だと聞いた。それは理解できる。でも、そのきっかけについては、誰も教えてくれないんだ。爺、教えてくれよ。なぜ俺が車に突っ込んだのか」
爺は俺をじっと見つめ、ひとつ息をついた。
「本当は口止めされているのですが…」
そういった口は、最初から諦めの笑みが浮かんでいた。
「坊ちゃんはしつこいですからね。その様子だと、もう何人もの人に聞いたんでしょう」
「…しつこくて悪かったな」
「いえいえ、怒ることはありません。そのしつこさが役に立つときもあるんですよ。例えば、今のように」
俺は首を傾げたが、爺は構わず続けた。
「…いいでしょう。少しだけ、教えてさしあげましょう。ただ、これまでの人が言わなかったように、私も全部お教えすることはできません」
「何故」
「それは、事故に遭った理由が、あなた様の大切な方と関係するからです」
爺の言っている意味が理解できなかった。
俺が返事できないことを悟ると、彼はもう少し詳しく説明した。
「坊ちゃんには、とても大切になさっていた方がおりました」
「…俺には恋人がいたのか?」
「はい。とても可愛らしくて純粋なお方です。その方が、どういうわけか危ない目に遭いまして、坊ちゃんは自分を犠牲にしてその方を救ったのです」
「要するに、その女を交通事故から救うために自分の身を投げ出したってことか。漫画みたいな話だな」
目の前の老人は、じっと見透かすような目で見ていた。真顔だったので、自分が失言したのかと考えた。
「…いずれ思い出します。あなたが、誰を一番愛していたのか」
「…どういう意味だよ」
「いえ、そのままの意味です。私がお教えできるのはここまでです。あとは、坊ちゃんが自力で思い出すのみです」
爺は謎に満ちた言葉を残して帰っていった。再度誰もいなくなった部屋はシーンと静まり返っている。
寂しく感じた。
やはり彼は親みたいな存在だし、戻った記憶のなかで最も信頼のおける人物だからだ。
ナースが入ってきて、トレーに食事が用意された。俺は無表情でそれを眺め、一言礼を言ってから不味い飯を食べた。
「晃一くん、人気者なのね」
「そうですか」
「毎日お見舞いが来るじゃない。しあわせ者よ。事故の時一緒だった子も熱心に通ってるし」
(事故の時一緒だった…?)
爺が明かさなかった「俺の恋人」と同一人物だろうか。
「…そいつはどんなやつですか?」
胸が高鳴る。どんな結果がかえって来るのか。
「ああ、男の子よ」
「男!?」
「ええ。可愛らしい顔した子。ああいう子、母性本能くすぐられるわね~、弟にしたいわ」
「な、名前は…?」
「春日井くんかしら。下の名前が確か冬夜とか…」
ガチャンっと音がした。持っていたスプーンを落としたみたいだ。
「晃一くん、大丈夫?」
「あ…ああ、はい…」
嘘だ。本当はかなり大丈夫ではない。
ナースは食事を運ぶために隣の部屋へと消えた。俺は冷めた白米を口に含み、考えを整理していた。
(もしかして、冬夜が俺の恋人なのか…嘘だろ、それじゃあ俺はホモだったってことか…)
しかしまだそうと決まったわけではない。俺が彼女を助ける時に冬夜を巻き込んだのかもしれない。きっとそうだ、間違いない。
(でも前者である可能性もなくはないんだよな。仮に後者だったら、これまでに彼女らしき人が見舞いに来てただろう。くそっ、記憶さえ戻れば…っ!)
どうか、後者であってほしい。別に同性愛を嫌っているわけではないが、今の自分にはまったく考えられない。
(ましてや、あの冬夜を好きになるなんて、今の俺には無理だ)
冬夜はどちらかというと苦手だ。消極的というか、とにかく絡みづらい。
それに、あいつのことはまったく思い出せない。中学あたりの記憶からほとんどないからだ。
混乱して食事の味など感じられなかったが、いつの間にか完食していた。我ながら図太い本能だと感心した。
(いいや、それどころではないだろう)
早くどうにかしなければ。
翌日からリハビリが始まった。怪我も治ってきているし、あともう少し辛抱したら退院できるそうだ。
久しぶりに動かす体は鉛のようだった。自分の思い通りに動いてくれないので、執念を燃やし、毎日積極的にリハビリに励んだ。
体を動かしているときは、煩わしい思考も皆無だった。冬夜のことも彼女うんぬんのことも、忘れられる。
結果、短期間で普通に歩けるようになった。元々運動選手だったから、治りも早いらしい。
退院する日が近づいてきたある日、父親と母親がそろって病室に入ってきた。父親が来るのは極めて珍しい。
ということは、何かあると頭が勝手に反応する。
「晃一」
俺よりがっしりしている父親は、スーツ姿で、茶色い封筒を脇に抱えていた。俺のところに来ては、その封筒を手渡す。
「これを、お前に」
「…何ですか」
「開けてみろ」
糊付けはされていなかった。普通にのりしろ部分をペラッとめくって中の資料を取り出す。
英文が多かった。
「…これは?」
日本ではないどこかの、高校のデータらしい。ホームページを印刷したものと、おそらくそれ関連の日本語の書類が何枚か入っていた。
そんなもの記憶が戻りかけの俺にくれても何になるのかよく分からないが。
「晃一、私はいろいろ考えたんだが」
母親とともに椅子に腰掛けた父親は、真剣そうな顔つきで切り出した。
「…やはりお前を留学させたいと思う。今まで散々つっぱねられてきたが、もうお前を日本にいさせるほど、余裕がなくなった」
留学。今までそんな話が出ていたのか。
(というか、そんないい話を拒んでいたなんて、よほどの理由でもあったのか)
「…いや、余裕がなくなったっていうのは嘘だ。私たち両親が海外にいるのに、お前だけをここに置いておくのは不経済だし、何しろ今回のような事故がまたあったら大変だからな。その高校なら今住んでいる家から近いし、学力レベルも高い。どうだ、少しは考えてみないか」
続いて母親が言う。
「…晃一、父さんはね、事故の知らせを受けて、あなたことをすごく心配してたのよ。夜も眠れないくらい」
俺は黙ったまま、手元の書類に目を通した。留学だろうが何だろうが別になんでもいいけれど、「今」の俺には決断するだけの力がない。
留学を散々蹴っていた理由が分からないからだ。
「…ちょっと待ってくれよ。何がなんだか…」
もし、何かあるのだとしたら、それは…。
「ああ、ごめんな、気が急いてしまって。ただ、怪我もしているし、記憶も十分に戻っていないのだから、もう今までのようにおまえだけ日本で暮らすのは難しいだろう。今日はそれだけを伝えに来たんだ」
父親は立ち上がった。そして、俺の頭を撫で、よく考えてほしい、とそそくさと帰っていった。多忙っぷりは昔と相変わらずだ。 このために、幼い頃の記憶に父親の姿はあまりない。
しかし、そんな忙しい身でありながら、俺の見舞いにわざわざ来てくれたみたいだ。ありがたいことだと思う。
(留学…か)
確かに父親の言うとおりだ。前の俺が日本の高校にいくと言い張ったからこうなっているらしいが、このザマだ、拒否権はないと考えてもいい。
(別に…こだわりはないんだよな。ただ)
ずっと気になっていたこと――事故の原因を知ってから答えを出したい。
「晃一」
まだ部屋に残っていた母親は、俺を振り返り、にっこり微笑んだ。
「父さんはね、ずっとあなたと暮らしたがっていたのよ。ほんとはね。ただ、ああいう性格だから、正直に言うことはできないみたいね」
母親は少しだけ肩をすくめた。爺と同じ動きだが、流れるように上品だ。
「そして私もよ」
「…え」
彼女は窓を開け放ち、晴天の景色を眺めた。やわらかい光が差し込み、着ている薄手のジャケットに淡く陰影をつける。
母親がこんなに綺麗に見えたのは初めてかもしれない。
「え、じゃないわ。仕事が忙しいばかりに、あなたにはずっとつらい思いをさせてしまったわね…」
「別に…」
幼少期は確かに寂しかったけれど、今さら謝られても実感が湧かない。
母親はベッドのそばに座り、俺の左手を握った。やさしく、宥めるように。
「爺にも怒られてしまったのよ。もし、あなたが私たちと一緒に来てくれると言ってくれるなら、もうそういう思いはさせないわ」
ね、と俺の頭を撫でる。まるで子供扱いだ。でも、別にイラッと来ない。
俺もこの人たちの子供だったんだと思えたからだ。
答えは先伸ばしにしてもらい、母親を帰らせた。やっぱり親にずっと居座られるのは居心地悪い。
返答は退院する日までに出すことになっている。もうそう日はないから、よく考えなければならない。
特に何もなければ、俺の返事なんか決まっている。親についていき、海外の学校にいけばいい話だ。学力の方だって、おそらくどうにかなるだろう。カルチャーショックで逃げ出したくなるかもしれないが。
でも、ちょうどよく記憶もなくなっているから、文化が違っても意外とすんなり受け入れられるかもしれない。まぁ、ただの希望だけれど。
…問題は、アイツだ。
冬夜との関係と、事故のこと。
俺はそれをはっきり知りたい。
アイツは一体何者なのか。俺が自らの危険をかえりみず、助けようとした人物は誰のことをいうのか。
懸念していた結末にならなければいいのだが。