表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
協奏曲 〜君と。〜  作者: AZURE
君と。
40/51

8-1



 聞こえる。


 人の声が聞こえる。


 それは懐かしいような、でも初めて聞いたような。


 ――よく分からない。



 重い瞼を開ける。白くぼやけて何も見えない。


 体が動かない。痛い。



 俺は今、どこにいるのだろう。


 何をしているんだろう。


 ――何だろう、思い出せない。


 頭をフル回転しても、記憶がない。



 『…こういち! 気づいた!? ぼくだよ、分かる!?』


 さっきからこの声が俺を呼んでいる気がする。俺はゆっくり目線を移す。卵色の陽光の中に、茶色くぼやけた影があった。


 よく見えない。


 俺は目が悪くなったのか。


 ついでに頭もやられたのか。


 起き上がろうとしても力が入らない。


 俺の体は一体どうなっているんだ。


 『まっててね、もう少しで来るから』


 近くにいるのであろうその人は、俺の左手を強く握った。


 よかった、左手には感覚がある。試しに握り返してみたけれど、なんの問題もない。


 間もなく、不揃いな足音と共に新しい風が入ってきた。白っぽい人たちが俺を囲む。


 異様な空気に、緊張してしまう。



 一体俺に何があったんだ。


 思い出せない。何もかも。


 なぜ思い出せないのかも分からない。



 突然、その中のひとりに頬を軽く叩かれる。


 『君、自分の名前言える?』


 名前…?


 何だっけ。


 自分は誰だろう? 何をしていたんだろう?


 (…自分が何者かわかんねぇ)


 首を横に振る。いくつか質問されたが、どれも答えられなかった。



 何がどうなっているのだろう。


 誰かに説明してほしかった。



 彼らが去った後も朦朧としていた。目の方は、くっきりといかないまでも大分見えるようになった。


 部屋に男と女が2人、涙を浮かべて入ってきた。男は体格がよく、女はスラッとしている。


 『…晃一、晃一、母さんだよ』


 女は俺の肩に手を置いて話しかけた。


 『晃一、分かる? 父さんも来てくれたのよ』


 俺は目を眇てピントを合わせる。


 記憶にない顔。初対面のような気がするが、この人たちが両親、なのか…。


 何か不思議な感じだ。



 両親らしき人たちが去った後、高校生くらいの男4人が見舞いにきた。


 その中に、声だけ聞き覚えのあるやつがいた。俺が目覚めた時に傍にいてくれたやつだ。でも、顔を見たら知らないやつだった。


 誰もことも分からない。



 どうしたんだ、俺は。


 何も分からないこの状況がもどかしい。


 寝ても覚めても、輪郭がぼやけた世界にいるだけで、夢の中にいるみたいだ。





 目を覚ましてからの数日間、いろいろな人が見まいに来てくれた。学校の先生やらクラスメートやら。しかし誰が誰だか見分けがつかない。


 皆初対面じゃないのかよと言いたくなった。


 取りあえず現状を把握するために、自分のことや交友関係についていろいろな人に聞いていった。自分の名前は「木管晃一」で、白優高校に通う1年生だという。スポーツが得意で、勉強も割かしできる。交友関係はあまりない方で、友達と呼べる人物は片手で数えられるくらい少ない。要するに、一匹狼みたいな存在だったらしい。


 約2週間前、そんな俺は交通事故を起こしてしまったらしい。どうして事故ったのかは、誰も教えてくれなかった。


 (どうしてだろう。それほどひどい事故だったということなのかな)


 現に身体中包帯まみれの重体だ。何があってもおかしくない。



***



 高校の友人だという男が見舞いに来てくれたある日、俺はその話を切り出した。ヤツは苦い顔をしたが、渋々教えてくれた。


 「お前は走ってる車に突っ込んでいったんだよ」


 意外な答えが返ってきた。まさか、交通事故の原因が自分自身だったなんて。


 「…は?」


 「自ら突っ込んでいったの」


 「それじゃ、前の俺は自殺願望でもあったのか?」


 「ないよ」


 やつはため息をついた。


 納得がいかない。


 「じゃあ何で俺そんなことしたんだ? 車が突っ込んできたんじゃないのか?」


 「違う。逆だ」


 「わっけ分かんねぇ…」


 自殺願望がないのに普通車に突っ込めない。何か理由があるはずだ。ボールが転がっていったとか、なんとか。


 「いったい俺、そんとき何してたんだよ?」


 「それは自分の力で思い出せよ。おれが言ったところで他人事のようにしか聞こえないんだろうからな」


 ヤツはあきれた顔をして、立ち上がった。鞄を持ち上げ、そっぽを向く。


 「…じゃな。おれはひとまず帰る。明日あのチビスケと双子がくるぜ」


 「おいっ、待てよっ!」


 俺は声を荒げ、帰ろうとする男を引き留める。ゆっくり振り返ったヤツに、何故か哀れみの表情を向けられた。


 知りたい。前の俺に何があったのか。


 「…何だよ」


 「何かヒントをくれよ」


 ヤツは暫しの間黙し、俺をじっと見たのち、


 「…やるか。まず自分を思い出せ。お前自身が思い出せないと意味がない。じゃな」


 と捨て台詞を吐いてさっさと帰っていった。


 (…何だよ)


 真壁健太郎という男は、あまり気が長くないらしい。見まいにくるたび、刺々しい態度で接してくる。目を覚ましてから何回かしか会っていないが、少し苦手だ。しかし記憶をなくす前の俺は、あいつと友達だったというものだから、決して悪いやつではないのだろう。記憶さえ取り戻せばまたもとに戻れると信じている。


 しかし、問題は自分が誰なのか思い出せないことだ。それが分からないうちは、地にしっかり足がついていない感じがして気持ちが悪い。


 (…思い出したいけれど、思い出したくもない)


 衝撃の事実を聞かされて、俺は頭が混乱した。


 交通事故。しかも自分から飛び込んだ。


 自殺未遂ではないとしたら、他にどんな可能性があるだろう。


 そこのところ、誰に聞いても曖昧な反応をされるだけだ。


 事実を聞くのは、少し怖い気がする。



 次の日の昼。俺は前日聞かされた真実に頭を抱えながらもおとなしく本を読んでいると、ドアを叩く音と共に例の男子高生たちが入ってきた。


 「おはよう。来てやったぜ」


 呑気な声が狭い部屋に響き、美形双子とチビの3人が近づいてきた。制服姿を見ると、学校帰りらしい。双子の片方は楽器のケースらしきものを肩に背負っている。


 俺はぼーっとその姿を眺めていた。今までにない、違和感を覚える。


  (何か…あの黒いケースに見覚えがある。あいつは確か…)


 何かを思いだしかけたけれど、深く追及しようとすると砂嵐みたいなものに遮られてしまう。


 (くそっ…)


 聞くところによれば、双子は俺と小学校までの友達だったという。現在は俺と違う高校に通っているらしいが、今でも交流があるらしい。その証拠に、本人たちから、事故のつい数週間前に携帯で取ったというスリーショットの写真を見せられた。


 過去の自分を見るのは変な感じだった。思ったより、ふてぶてしい顔をしていると思った。


 そんなこんなで、彼らも俺の数少ない友達らしいから、きっとわかるはずだ。思い出せないだけで。


 「…晃一、何だよ」


 いきなり、ケースを背負った兄のほうが苦笑いして言った。


 「え?」


 「ずっと俺のこと見て。何かついてる?」


 「い、いや…」


 俺は慌てて否定した。双子のことで頭がぐるぐるしていたなんて恥ずかしくて言えない。「何でもない」と言うといぶかるので、「お前が持っているそれ、何かと思って」とその場をしのいだ。


 「これ? このケースのこと?」


 「あ、ああ」


 ヤツは笑いながら、静かにそれを肩からおろした。他の2人は、その様子をじっと見ている。


 「なんだと思う?」


 「…楽器」


 「半分当たり」


 ヤツはそう言いながら、ケースから中身を取り出した。弓とセットで、 木目が美しい、小振りな楽器だ。


 (確か…)


 「こいつだよ。分かるか?」


 「ああ、えっと……」


 「頑張って思い出して」


 ヤツはクスッと笑って楽器を構えた。その楽器を持つ姿も、まるで何かのモデルみたいに格好いい。


 (…て、何考えてるんだ俺は)


 自分を叱咤し、煩悩を取り払った。ヤツは優雅なしぐさで弓を弦に軽く当て、ごく小さい音で奏でた。


 決して大きな音量で弾いているわけではないのに、多彩な音色がはっきりと聞き取れる。それくらい俺でも分かる。


 (何かよく分からないけど、気持ちのいい音楽だな…)


 ヤツの後ろに控えている他のふたりも、目を閉じて聞き入っている。俺と同じことを思っているのかもしれない。


 目を閉じて音に心を委ねてみる。記憶がない不安や恐怖が、胸の奥底で蠢いている。


 一体俺は何があったのだろう。過去にどんなことをして、どんなことが好きだったのだろう。


 (でも思い出したら思い出したで「実はゲイでしたー」とか「殺人犯でしたー」とかだったらかなりショックだな…)


 哀愁漂うメロディーが心に沁みる。自分ではよく分からないけれど、心臓を鷲掴みされ握り潰されるみたいに、胸が痛くなった。


 正面から強い視線を感じる。そちらに目を向ければ、チビの男子が睨むように見つめていた。


 その瞳は、まるで何かを乞うように、切ない色を帯びていた。まるで泣く前の表情だ。


 (どうしたんだ?)


 チビはすぐに目をそらす。斜め下を向くその白い顔に、薄く影がさす。


 誰からか聞いた説明によれば、こいつは中学校の頃に最も親しかった人物らしい。今ではまったく覚えていないが、ふたりで海に行くほどの仲だったという。


 初めそれを聞いたとき、疑わずにはいられなかった。見舞いには結構な頻度で来てくれるが、ほとんど話さずに終わる。ヤツはいつも黙って見ていることが多く、距離も一歩遠い。


 あまり仲がよくない雰囲気だから、俺はどう接していいか分からない。


 (でも、先程のように時おり見せる哀願の表情は何なんだろう。“俺に何かしてほしい”、そんなことを言っている気がする)


 「――…っと、こんなもんだ」


 ふっと、音が止んだ。同時に現実世界に戻る。


 耀は楽器をしまい、言った。


 「晃一、何か思い出した?」


 「え?」


 「なーんだ。別になにも思い出してないのか」


 「何だよ」


 「いや、ずっと考え込んでいたからさ。何か手がかりでも掴めたのかなって思って。」


 「ああ…」


 チビの方を向くと、もう普通の顔つきに戻っていた。吹っ切れない何かが残る。


 「…今のところ、よく分からないな。自分には謎だらけだ」


 「はは。確かにな。記憶をなくしてなくたって言える」


 「それよりさ」


 「ん?」


 「さっき弾いてた楽器、何て言うの」


 俺の問いに、耀というヤツは一瞬困った顔をした。そしてその表情はみるみるうちにいたずら坊主みたいになり、


 「自分で思い出せ。絶対知ってるはずだから」


 とニッカリ笑った。


 「おい、それはないだろう…」


 「じゃあ俺は帰る。バイトあるし。次会うときまでに思い出しておけよ」


 「は。なんだそれ」


 ヤツは笑顔でじゃあなと手を振って出ていった。何なんだあいつはと言いたくなったけれど、まだ部屋に残っていた弟の方がこっそり教えてくれた。


 「…ヴァイオリン?」


 「そう。兄がさっき弾いたのはヴァイオリン。聞いたことある?」


 「んー…」


 何か引っ掛かる単語だが、それが具体的に記憶とどう繋がっているのかは分からない。


 「…昔からやっているのか?」


 「うん。僕らは物心つく前から楽器を握ってたからね」


 「お前は?」


 「僕? 僕はピアノだよ」


 「ふーん」


 俺は完全に記憶がないわけではない。固有名詞は分かるし、自分の過去以外はおおよそ普通に出てくる。


 でもそれは完全ではない。自分の経験が伴わないと駄目なものもあるからだと思う。だからピアノというものがどういうものなのかも分からない。


 双子の弟は、突然ぽんっと手を叩いた。


 「…そうそう、それでね、こちらの冬夜君はフルートやってるんだよ」


 「フルート?」


 「そう」


 双子の弟の方は、隣にいたチビの肩を軽く引き寄せた。チビは躊躇いがちに俺を覗き込む。


 「晃一君もきっと聞いたことあると思うよ。冬夜君の演奏」


 双子の方はにっこり微笑んだが、冬夜と呼ばれたチビは浮かない表情をしていた。


 「あ、ああ…多分な。全然覚えてないけど」


 「ちょっと聞いてみる? ものすごく小さい音で、だけど」


 「んー…ああ」


 弟は、しっ、と唇に人差し指を当てて、頬を緩ませた。笑い方は全然違うのに、やはり同じ遺伝子を持つためか、先程までいた兄の方にそっくりだ。


 その横では、チビが楽器を用意していた。銀色の細い菅を組み立て、軽く音を出している。その様を見ていて、心がひとりでにもやもやし始めた。


 目覚めてからの俺には初めての光景なのに、初めての気がしない。


 (まぁ、双子の弟が聞いたことあるって言ってたから、少なくとも前の俺はこの風景を普段から見ていたんだろうな。それにしても、事故る前の俺はクラシック音楽が好きだったのだろうか? 謎だ)


 それより、なぜこいつと仲がよかったかという方が不思議だ。


 前の自分は、筋金入りのスポーツ馬鹿だったという。毎日ハードな練習をこなして、休みなどあまりとれない生活を送っていたらしい。だから、端から考えれば畑違いのこいつと接点なんてない気がする。


 (ああ、でも同じクラスになっていたりしたら、話は別か。そしたら嫌でも付き合いがあるよな。でも仮にそうだとしても、謎が多い。だって誰に聞いてもこいつとの関係は「中学時代の親友」だからな。親友になるくらいお互い惹き付けるものがあったんだろ。どういった経緯でそうなったのか知りたい)


 当の本人は静かに吹き始めた。極めて小さな音だったけれど、透明感があってみずみずしい。美しい音色が、水のよう流れ込む。


 フルートを吹くそいつは、普段のもじもじした印象はどこにもない。堂々としていて、少し色気さえ感じる。その華奢な体からどうしてそんなパワーが出るのか不思議だ。


 俺は始終圧倒されていた。少し前に聞いた双子の演奏よりも、心が強く打ち震えてしまう。それは別に双子が下手とかとかそういう訳じゃない。何かこう、心を深くえぐるような、あるいは悲痛な叫びのようなものが、ひしひしと伝わってくる。


 それがいったい何を意味するのか今の俺は知らない。


 知った方がいいのだろうか、それとも知らないままの方がいいのだろうか。


 否、今の俺に知る勇気はない。


 嫌な予感がする。勘がそう言っている。




 結局謎は解けないままで、ふたりは帰っていった。誰もいなくなった病室で俺はひとつため息をついた。


 これが安堵のためか、疲弊のためか、それとも寂しさのためか、自分でもよく分からない。


 ただ、先ほどのフルートとかいう楽器の音色が、頭に貼りついて離れない。聞いていて、自分の胸が押さえつけられたように苦しくなる。


 (こんなの、目覚めてから初めてだ。無視しようとしても、逆に存在を主張してくるみたいに音が頭のなかでガンガン鳴るんだ)


 俺は何が気になっているんだろうか。


 冬夜とかいう、男子か。



 ……なぜそんなに気にかかっている?



 (――恐らく、ここに来てまったくしゃべらないのは、あいつしかいないからだろうな。仲良くないかというと、そのわりには結構来てるし)


 そして、しゃべらない代わりに目で何か言ってくる。


 (あの目を見ると、あいつとはただの友達だったんじゃないって感じる。親友っていう話はほぼ確定だろうな。じゃあなぜ、俺と話したがらない?)


  それとも言葉が出ないのか。


 怪我した「親友」を目の前にして。


 (もしたしたら…こいつが鍵なのかも…)


 俺の記憶がなくなった理由。事故のきっかけ。すべてはあいつ――”冬夜“――が握っているのかもしれない。


 (もしそうなら、喋れない理由も分かるかもな…)


 あれこれ考えていたら、いつの間にか寝てしまった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ