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協奏曲 〜君と。〜  作者: AZURE
君と。
39/51

7-3


 ――白い布団にくるまれていたのは、変わり果てた愛しい人だった。


 酸素マスクをつけられ、包帯でぐるぐる巻きにされている。ぼくの怪我と比べ物にならないくらい痛々しい。安らかに眠っているその人は、以前のようにギラギラしているところはどこにもなくて、弱々しい灯火のようだった。


 一同は唖然として言葉がでなかった。


 「…晃一、晃一、お友達が来たわよ」


 愕然と立っているぼくらの前で、お母さんはそのひとに話しかけた。


 無論、何の反応もない。予想はしていたけれど、実際に目にすると、頭を殴られるような容赦ない衝撃に襲われる。


 足が地面に縫い付けられたように動かなかった。


 お母さんは動かない息子にため息をつき、力なく笑んだ。


 「…あとは皆さんでよろしくね。私は会社の方に用があるから、ちょっと出掛けてきます。少ししたら戻ってくるけど」


 黒木くん、何かあったら連絡してね、とお母さんは出ていった。残されたぼくらは、困惑して黙りこくっていた。


 しばらく経った頃、


 「…冬夜、おまえ言うことあるんだろう? こいつに」


 「え…」


 黒木くんはベッドに釘付けになったまま言った。


 「…何か言ってやれよ。多分、こいつが今一番聞きたいのはおまえだと思う」


 ほらほら、と背中を押され、ぼくはベッドの近くまで行った。


 (…何しゃべったらいいんだろう…)


 文字通り言葉がでない。元気なときは何でも言い合えるのに。


 「こういち…」


 久しぶりに名前を呼んだ。そうしたら、心の奥で詰まっていたモノが一気に暴発した。


 「こういち…こういち!! 早く目を覚まして! ぼくをひとりにしないで…っ」


 だらりと置かれた彼の左手を握る。まだほんのり暖かい。


 「こういちがいないのは嫌だよっ…わがまま言わないから、早く帰ってきて…!」


 何度も、何度も、彼の名前を呼び続けた。それなのにこういちは起きない。悔しくてもう一度叫ぶ。それの繰り返しだ。涙が出ていたことも気づかなかった。


 「こうい…、ぇっ…こういち…っ」


 (ずっと離れないって約束してくれたじゃないか…ぼくを守ってくれるって言ったのに…!)


 「…一生傍にいてよ……」


 こういちの大きな手に泣きすがる。丸まった指を一本ずつ広げて、手のひらにキスを落とした。


 こういちは相変わらず白い顔をして蝋人形のようだ。


 背後を振り返ると、双子兄弟は肩を抱き合い、健太郎さんは腕を組んで眺めていた。


 「黒木くん…っ、こういち、起きないよぉ…っ」


 「…冬夜…泣くなって」


 「こういち…起きない、目を、覚まさない…」


 泣き崩れるぼく。こういちに会ったことで、溜め込んでいた想いが溢れて止まらなかった。


 黒木くんは音もなく近寄り、ぼくを抱き寄せた。


 「泣くなよ冬夜。おまえに泣き顔は似合わないから。晃一だって望んでいないだろ。…晃一、冬夜がこんなに悲しんでるぞ。早く目を覚ませ」


 「…僕も早くよくなってほしいな。今の冬夜君の気持ち、痛いほど分かるから…」


 「晃一、何寝てんだ早く起きろ。お前が怪我人じゃなきゃ叩き起こすのにな」


 皆それぞれ励ましの言葉をかける。こういちには聞こえているのだろうか。


 (こういち…あなたの耳には届いているんでしょう? ずっと動かないけど。こういちの声が聞きたいよ…)


 その時わずかにこういちの親指が動いた気がした。


 ぼくは驚いて、その手に触れる。しかし何も起こらない。


 (気のせいか…)


 「…冬夜、どした?」


 「ううん、何でもない。指が動いた気がしたけど、多分違う」


 「…でも、もしかしたら気のせいじゃないかもしれないだろ。こういちには分かってると思うよ。冬夜が傍にいることを」


 「…そうかな…」


 「きっとそうだよ」


 結局その日は何も変化はなかったが、黒木くんに勇気付けられて、ぼくはその後も時間の許す限り病院に足を運んだ。


 幾度もお見舞いに行ったけれど、状況は変わらなかった。でも、こういちと会うときは泣かないと決めた。どんなに悲しくても、なるべく笑顔で。もしこういちが目覚めたときに格好がつかないから。


 大きな手は、あれ以来動かなかったけれど、握っているだけで命の温もりが感じられた。弱いながら脈を打ち、こういちにまだ生きる気力があることが分かってホッとした。


 (…でもやっぱり、こういちとおしゃべりしたいな…)


 おしゃべりするだけではなくて、もっとこういちといろんなことがしたいし、まだ行ったことのないところに行ってみたい。


 もっともっと、こういちに触れられたい――心も、体も。



 ある日のお昼過ぎ、ぼくは花を持って病院に行った。


 「こういち、今日はぼくひとりで来たよ。皆は用事があるから来られないみたい」


 言いながら花瓶の花を替えて、こういちの傍に座る。


 布団の下からこういちの手を引っ張り出し、両手で包む。こういちの目は閉じたままで、静かな部屋に返事はない。


 「…今日もこういちの夢を見たよ。何か知らないけど、ぼくたち、一緒にジョギングしてた」


 包んだ手を撫でる。こういちの長い指に絡めて、強く握る。


 「現実にはあり得ないのにね。だって、どう考えてもぼくがこういちのペースについていけるわけないもん」


 言っていて虚しくなるけれど、でもこうやって話しかけることが無意味じゃないと信じたい。


 「夢の中のこういちは笑ってた。…やっぱり、ぼくも笑ってるこういちが好きだよ…」


 祈るように、こういちの手を自分の額に押し当てる。


 「こういち、好きだよ。大好き」


 その手の甲に二度唇を押し当てる。


 「…愛してる…」


 手だけじゃもの足りなくなって、ベッドに身を乗り出して、こういちの頬にそっとキスした。


 思えば、自分から顔にキスするのは初めてかもしれない。いつもこういちが先に仕掛けてくるから、ぼくはそれに応えることが多かった。


 だから今回は不思議な感じがした。ちょっぴり照れ臭い。


 こういちと手を繋いでいたら、だんだん瞼が重くなってきた。眠るまいと頑張っていたけれど、いつの間にか夢の世界に誘われていた。


 だからぼくは気づかなかったのかもしれない。


 少しずつ愛しい人の体に変化が起きていたことを――。



 うたた寝から目が覚めると、握っていた手が冷たくなっているのに気づいた。


 (え…!?)


 頭を起こしてこういちの顔を見る。心なしか、いつもより土気色だ。


 それよりも目を疑ったのは、ベッドを挟んだ向かい側に黒い人影が見えたことだった。


 ぼくは目をこする。しかし、その人影は消えない。


 人影は、背が高かった。そいつは、屈んだ体勢でベッドの人物を眺めている。しばらくしてひととおり満足したのか、きびすを返してドアの方へ歩いていく。


 こういちの手は、先ほどにも増して温度がない。人影が離れていくごとに、冷たくなっている気がする。


 ぼくは本能的にその人影を追いかけなければいけない気がした。ベッドを離れてその人影についていく。


 ドアを抜け、迷路のような構内を人影は滑るように進んでいく。歩く速さよりも若干速いため、ぼくは小走りだった。無心で前を見据える。絶対に見失ってはならない。


 人影のスピードはさらに上がって、ぼくは本格的に走らなければならなかった。やつの行くところはメチャクチャだ。ナースステーションに向かったと思えば、小児病棟に行ったり。ぼくを撒くように、くねくねと角を曲がっている。


 「待って……!!」


 ぼくは大声で叫ぶ。昼間の病院は人出が多く、廊下をすれ違うたび注目を浴びてしまう。


 人の間を忍者のようにくぐり抜けてそいつを追う。人に紛れて見えなくなりそうだったけれど、必死に目を凝らす。たった今、やつは角を曲がった。 


 「待てったら!!」


 震える足に力を入れて地面を蹴りあげる。まだ人影はいる。やつは建物の端の、人気のないところに向かっている。


 黒い影は音もなく階段を上がり始めた。ここは非常階段だ。屋上に続く長い坂を、ぼくは全力で駆け上った。


 三階まで上った。まだ距離は縮まらない。およそ10段分くらいだろうか。


 四階、五階…と人影は先に上り詰めて、屋上のドアに近づいていた。


 「だめ! 行かないで…っ!!」


 ぼくはありったけの力を振り絞り、最後の五段を一気に駆け上がった。反動で前につんのめる。


 「あ!」


 ドアを開け、逃げようとする人影。ぼくはやつに倒れこみ、勢い抱きついた。


 「っ…」


 ぼくが黒影をつかまえた瞬間、そいつはまばゆい光を放ち、大量の熱を放出した。まるで爆弾を抱えているみたいだ。ぼくはジリジリと皮膚が焼け、熔けてケロイド状になっていく。髪の毛や服が焼ける不快な臭いもする。


 「熱っ…」


 だけれどぼくはそいつを手離さなかった。意識が遠退いても、腕だけは力を緩めない。


 ぼくは完全に熔けてひとつになった。


 目の前のドアに手をかける。足を踏み出そうとしたその時、今まであった病院がフッと消えた。なすすべもなく、そいつと化したぼくは真っ逆さまに地面に落ちていく――。



 ――ゴンッという衝撃に、体が飛び上がって目覚めた。


 顔を起こして辺りを見回すと、ぼくは先ほどの病室にいた。つまりは、人影を追いかける前にいた部屋だ。


 (あれ…どういうこと? ぼくは夢を見ていたのか? すごくリアルだったけど…、って、あ!)


 ハッと我に返って目の前の手を握る。これが夢じゃなかったら、こういちは…。


 「…こういち、こういち!」


 叫んで顔を覗く。


 夢であってほしいと願いたい。


 (…え…)


 目にした光景に、ぼくは思わず驚愕した。全身の血液が逆流したような感覚が支配する――。


 信じられなかった。


 目を何度こすっても、頬を叩いても、ぼくは夢を見ているわけじゃないようだ。



 …こういちは、目を開いていた。まだ焦点が定まっていなかったけれど、久し振りに現れた黒い瞳は天井を向いていた。


 「こういち…?」


 胸が踊った。全身で狂喜乱舞したくなった。ベッドの上のこういちは、確かに瞼を開けている。うっすらとではあるけれど。


 「…こういち! こういち!」


 嬉しくて、こういちの肩を軽く揺さぶった。彼はぼくの声に気づき、ゆっくりとした動作でぼくを見る。


 「気づいた!? ぼくだよ、分かる!?」


 こういちは、ぼーっとしていて反応がなかった。


 慌ててナースコールする。依然として返事はないけれど、今日は今までと違う。こういちは、起きている。


 「まっててね、もう少しで来るから」


 こういちの手を握る。もう何度握ったかわからない。けれど、握り返してきたのは事故以来初めてだった。


 ほどなくして白衣のお医者さんたちがぞろぞろ入ってきた。ぼくは一端外へ出て、皆に電話をかけた。誰も彼も喜び泣き叫び、「すぐに向かう」と言った。


 (本当、よかった…。こういち、よかった……)


 黒木くんの勘は当たり、こういちは無事に意識を取り戻した。


 しかし、悲劇は終わっていなかった。




***




 「記憶喪失!?」


 ぼくたちはお医者さんの言葉に驚きを隠せなかった。黒木くんたちや健太郎さん、学校の先生やこういちのご両親が一同に集まり、皆顔を見合わせている。


 「…はい。今のところ、何も思い出せないようです。自分の名前でさえも」


 「でも、これから思い出す見込みは…!?」


 お医者さんはばつの悪そうな顔をして、首を横に振った。


 「…今のところ分からないですね。もしかしたら難しいかもしれません。どちらにしろ、努力は必要です」


 お医者さんの話が終わり、複雑な気持ちで部屋を出た。


 「こういち…」


 通路に立ち尽くす。聖くんも健太郎さんも、嬉しいのか悲しいのか分からない顔をしている。後から出てきた黒木くんは、ぼくを様子を見て肩を組んできた。


 「…まぁ取りあえず下のロビーに行こう。どうせ今は晃一のところへは行けないし、腹、減ってるだろ?」


 言われたそばからぼくのお腹が鳴った。そう言えば、まだお昼を食べていない。


 「…うん」


 連れられるまま階段を下り、開放的な空間に出た。そこは日当たりがよく、ふかふかなベンチがたくさん置かれていた。人々は談話したり、テレビを見ていたりと自由な時間を過ごしている。


 その一角に売店があった。黒木くんは迷わずにそこへ向かっている。


 売店では食べ物を買い込んだ。その量からすると、皆ここへ来るために昼食はまだだったらしい。


 ぼくらは黙ったまま、近くのベンチに座った。買ったパンを取り出して無言で頬張る。


 美味しいとか不味いとか、分からなかった。


 「…記憶喪失か…」


 食べ終わる頃、誰からともなく会話が始まった。


 「記憶がないってどんな感じなんだろうね」


 「…さぁ。自分の名前も思い出せないってな」


 「アイデンティティーの喪失」


 「そうだな。今のところ」


 「…そのうち思い出してくれたらいいんだけどな。少しずつ」


 「そうですね。何かきっかけがあれば思い出すこともあるんですよね?」


 「よく聞くけどね」


 3人は口々に言う。会話に入っていなかったぼくは、聞きながら自分の握りこぶしを膝に押し付けた。


 (こういちに怪我まで負わせた上に記憶も奪ってしまうなんて…やっぱりどう考えてもぼくのせいだ。今更いっても後の祭りだけど、あの時ちゃんと周りを見てれば…)


 ポロポロと涙がこぼれた。それに気づいた黒木くんは、驚いた声をあげた。


 「…え、冬夜何泣いてるんだよ」


 「だって…」


 他の2人もこちらを振り向く。


 「ぼくのせいで…」


 (何言われても、この事故の直接的な原因はぼくなんだ…もう、やだ…)


 黒木くんは宥めるようにぼくの肩を抱き締めた。


 「言っとくけど、全部おまえのせいじゃないから」


 ぼくは震えそうになる喉を押さえる。ここで泣いてはいけない。


 「…それに、こういちはちゃんと戻ってきただろ。それだけでいいじゃないか」


 「…でもっ」


 「何こだわってるんだよ。確かに、こういちには全部元通りになってほしいよ。でもまずは、意識を取り戻しただけで喜ぶべきことなんじゃないのか」


 確かにそうだけれど、どこか心苦しい。


 黙ったままでいると、黒木くんに軽く揺さぶられた。


 「…だから冬夜は悪くないって! 少なくとも晃一は、おまえのせいなんて思っていないだろう。記憶だってきっと戻る」


 「でもぼくは…」


 「冬夜、あいつを信じてやれよ。事故はあったのは確かだし、後で悔やむことはたくさんあると思う。だけど今そんなこと言っても仕方がないだろ。晃一が無事目を覚ましたんだから、あとは記憶が戻るように手助けしてやればいい」


 「でも…っ、もしかしたら…」


 「『もしかしたら』とか考えるな。1%でも望みがあるなら、それに賭けて全力で取り組めばいいだろ。冬夜がもし負い目を感じているのなら、そうやって埋めていけばいい」


 彼はぽん、とぼくの頭を叩き、腕を離した。黒木くん越しに、弟の聖くんが伏し目がちになったのが見えた。


 黒木くんは強い。 何があっても前向きに考えられる。


  彼の支えがなかったら、ぼくはここまで自分を保てずにいたかもしれない。


 「うん…分かった、頑張る」


 ぼくらは夕方までロビーで過ごし、帰る前にもう一度、こういちのところに寄った。


 こういちは起きていたが、まだ意思のない表情をしていた。


 この時は誰の声にも反応しなかった。でもいつか、応えてくれる日がくると信じていた。


 しかし――。




***




 こういち、こういち……。


 何度呼び掛けたか分からない。きっと、今までの倍はこの名前を口にした。


 あれからこういちは、少しずつ記憶を取り戻していた。まず始めに自分が誰か思い出し、次にご両親、黒木くんたち双子、健太郎さんや他の友達など、順調な滑り出しを見せていた。会話も普通に出来るようになっていった。


 しかし、いつまでたってもぼくのことは思い出してくれなかった。


 記憶も断片的にしかないと言っていた。


 もしかして、ぼくは記憶から抹消されてしまっているのだろうか…。



 「…そんなに気を落とすなよ」


 こういちが意識を戻してから1週間が経った。放課後、皆で見舞いにいこうという話になり、ぼくと双子兄弟は電車に乗っていた。ぼくらは並んでつり革に掴まる。


 「…きっと、何かが関係して思い出せないんだろう」


 「何かって? あっ…」


 電車が一瞬大きく揺れる。一番ちっちゃいぼくは危うく転びそうになって、聖くんの腕にしがみつく。


 「冬夜君、大丈夫?」


 「うん、ごめん」


 「大丈夫だよ」


 なんやかんやしているうちに目的の駅に着き、ぼくらは揃って降車した。


 そう言えば、黒木くんが言いかけた「関係している何か」を聞きそびれてしまった。


 (気になるけれど、また今度にしようかな…)


 行き着いた場所は、通い慣れた病院。あと何回行くことになるのだろうか。


 いつものように階段を使って三階に上がり、309の病室に行く。夕方の時間だったので、こういちは電気をつけて本を読んでいた。


 部屋に入ってきたぼくらを見て、こういちは歓喜の声をあげた。


 「おー、来たか双子」


 こういちは笑顔を見せる。しかし、それは黒木くんたちに向けられているものだ。


 「ああ。しょーがないから来てやったぜ」


 「何だよしょうがねぇって」


 「どうせ寂しかったんだろ?」


 「まさか」


 口ぶりは相変わらずだ。ぼくらはこういちのそばに寄った。


 「…相変わらず元気そうじゃん。こないだの意識不明はどこいったんだ」


 「だろ? 今日はリハビリもやったんだぜ」


 「歩くやつ?」


 「そう、歩くやつ」


 「へーそれで? 少しは歩けるようになったか」


 「バカ言うな、俺様の回復能力ナメんじゃねえ」


 右脚を左手で軽く叩きながらヘヘッと笑うこういち。ぼくは横で見ていて冴えない気持ちになった。


 (少し、話してみようか…)


 ぼくは思いきって話しかけた。


 「…こういちっ、右腕は大丈夫なの?」


 空気がスッと冷めた。ぼくを見るこういちに、距離を感じる。


 「…ああ。まあな。こっちもリハビリしてるし」


 素っ気なく言うこういちは、さっきのように笑ってなかった。目も合わせてくれない。興味がないというように、顔をプイッと背けられてしまう。


 意識が戻ってから、ずっとこの調子だ。


 考えてみればこういちは、滅多に気を許さない。他人とは最初から関わらない性格だ。


 今のぼくはその状態だ。完全に他人としか見られていない。


 今まで優しくしてくれたのは、こういちが好きでいてくれたからなのだ。


 こういちに相手にされないって、こんなにつらいことだったんだ。


 ましてやちやほやされたあとだと、この落差の大きさにショックを受ける。ぼくらを騙したあの女の人の気持ちも、分からなくない。


 (嫌だ、また振り向いてほしい…)


 黒木くんとこういちはおしゃべりを再開した。冗談を交えて楽しそうにしているのを見て、疎外感に胸が痛くなってしまう。


 (嫌だ、嫌だ…この場所にいたくないっ)


 泣きたくなる。その時、聖くんに肩をつつかれた。


 振り返ると、聖くんは口パクで「外に行こうか」と言ってきた。ぼくは惨めな気持ちになってうなずいた。


 二人を置いて病室を出て、ぼくと聖くんはロビーに行った。


 耐えきれなくてベンチに沈み込んだ。今はこういちの傍にいる方がつらい。


 隣に座った聖くんは、いつの間に売店に行っていたのか、両手に缶のお茶を持っていた。


 聖くんは片方をぼくに差し出して、


 「はい。僕のおごり」


 「…いいの?」


 「うん」


 「ありがとう」


 ぼくはそれを受け取った。缶がよく冷えていた。


 緑色にプリントされたそれは、表面が細かく結露していた。それを見ていたら、こういちと再会した中2の夏を思い出した。


 あの時はレッスンの帰りだった。炎天下、熱中症で道路に倒れそうになっていたところをこういちに助けてもらった。


 今でも鮮明に覚えている。その時も、冷えた缶の飲み物をくれた。木陰の涼しいベンチで、ぼくは横になって、そのわきでこういちが脚を組んで座っていた。格好よく缶ジュースを傾ける姿を、ぼくは下から眺めていた。


 いろいろなことが走馬灯のように思い出せる。つまらないことでケンカしたり、小さなことで幸せになったり、想いを交わした熱い夜だったり――。


 でも、この記憶を保持しているのは僕だけだ。もしかしたら、幻だったのかもしれない。


 彼はぼくのことを完全に忘れてしまっているのだから――。


 「僕の兄はね、」


 プシュッと音をたてながら、聖くんはプルタブを持ち上げた。ぼくもそれに倣う。


 「昔から晃一君と仲が良かったんだよ。僕が嫉妬しちゃうくらい」


 「そうなの?」


 「うん」


 聖くんは缶をクイッと持ち上げ、一気に飲み干した。


 「…まぁ、ふたりとも似た感じだし、気が合うんだろうね。よく僕も置いてきぼりにされてたよ」


 「そうなんだ…」


 「だから、しばらくふたりで話させた方がいいかもしれない」


 どうせ話のなかに入れないもんね、と返すと聖くんは曖昧に頷いた。


 「…うん…まあそれもあるけど、本当の理由は違うかな」


 「え…」


 聖くんはそれ以上何も言わず、真っ直ぐ前を見据えていた。そういう表情は黒木くんとそっくりだ。


 暫しの沈黙の後、聖くんは静かに口を開いた。


 「…冬夜君」


 「うん?」


 「ヨウがね、言ってたことなんだけど」


 言いながら聖くんは、すっかり空になった缶を手の内で転がしている。ぼくは話をよく聞きたくて、体をそちらに向けた。


 「何?」


 「晃一君が冬夜君のことだけ思い出せない理由、晃一君の心にあるんじゃないかって」


 「心?」


 「…うん」


 意味がよく分からなかった。


 「どう言うこと?」


 「人間って、限度を超えた苦痛とか衝撃に遭遇すると、自己防御のためにその記憶を思い出せないようにするんだって。冬夜君だけ思い出せないのは、事故で冬夜君を失うことが晃一君にとってショッキングなことだったからかなって」


 なるほど、一理ある。これが電車のなかで聞きそびれていた「関係している何か」の内容なのだろう。


 素人の推測だけどね、と聖くんは付け足した。


 「…もっと正確に言えば、晃一君は事故の記憶を完全にシャットアウトしてしまっていて、それに深く関係する冬夜君のことも一緒に思い出せなくなってるんじゃないかって」


 自己防御で記憶が飛ぶ話はどこかで聞いたことがある。もしこの話が当たっているのなら、ぼくはおそらく一生思い出されないことになってしまう。


 (…それどころか)


 「……ぼくはこういちの傍にいない方がいいのかな…」


 「何で?」


 「だって、ぼくはシャットアウトされてるんでしょ? もし傍にいて、何かの弾みで思い出しちゃったら…」


 「まぁこの話は確定してないけどね。それに、記憶の戻り方は分からないよ。何がきっかけで思い出すか全く未知だから」


 「…う、ん…」


 「時期がたてば冬夜君のことも断片的に思い出すかもしれないし、もしかしたら死ぬまで忘れたままかもしれない。それは分からない。でも…」


 聖くんはそこで言葉を切った。そして、しっかりとぼくの目を見た。


 「心から好きだった人、完全に忘れられないとぼくは思うんだよね。記憶がなくても、心や体が覚えていると思うし」


 「…そんなことってあるのかな」


 「可能性はある」


 本当? と言いたくなってしまったが、これはこういち本人にしか分からない話だ。


 「…でも、どんなことしても思い出してくれなかったら?」


 ぼくのしつこいくらいの問いかけに、聖くんは苦笑いした。


 「大変だけど、1からやり直せばいい。一度いい関係になったんだったら、次もあるかもしれないし」


 諦めないで、と聖くんはぼくの肩を叩き、ベンチから立ち上がった。ぼくも残ったお茶を慌てて飲み終え、缶をゴミ箱に捨てる。そして聖くんと309の部屋に向かった。



 こういちは、日を追うごとに元気になっていく。相変わらずぼくに対して冷たかったけれど、まだ望みはあると粘り続けた。


 もうそれも終わりが近づいていたことを、ぼくは知らないで――。

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