7-2
***
「え、…いいんですか?」
「ああ。冬夜が都合つくなら。その日、晃一の友達の真壁健太郎ってやつも病院に来るらしい。あっちも冬夜と話したいって言ってる」
黒木君はぼくの隣を歩きながらヴァイオリンのケースを担ぎ直した。さっき駅で会った時は聖君と一緒だったのに、気づいたら兄の方しかいなくなっている。
「…それはぼくの方こそ望んでいたことです…」
「よし、じゃあ29日…明後日だな、一緒にいこう」
「…はい」
「もうそろそろ面会も許されると言っていたから、あとはあいつの回復を待つだけだ」
「……」
黒木君は楽観的に言うが、ぼくは素直にうなずける気がしなかった。
もうしばらくあの人の顔を見ていない。今どうしているのか、どうなっているのかぼくには分からない。しかもあんな夢を見てしまった後では…。
「冬夜…?」
もしもう目覚めなかったら? もし最悪の事態になってしまったら…?
ネガティブな考えだけで頭のなかがいっぱいになる。考えたくないのに、どうしても嫌な方向に考えてしまう。
下を向いていたら、肩をフワッと抱かれた。
「大丈夫だよ」
黒木君はぼくの頭をガシガシ撫でた。
「ちょ、…やめ――」
「心配しないでも、あいつはちゃんと帰ってくるさ」
安心させるように黒木君はやさしく微笑むけれど、そんなのぼくには気休めにもならなかった。
「…どうしてそんな…」
「ん?」
黒木君の分かったような言い方が気に障る。人が生死の境をさ迷っているというのに、もしかしたらこの世からいなくなってしまうかもしれないのに、なぜ生き返るなんて軽々しく言えるのだろう。
「どうしてそんなこと何の根拠もなしに言えるんですか…!! ぼくは…ぼくは……」
怖い。
もうあのひとが戻ってこないんじゃないかって思うと――。
「ぼくは不安で不安でたまらないっ…どうしてそう平気でいられるんですか!?」
嫌だ。
あのひとがこのまま死んでしまったら、ぼくは誰を恨めばいい。
「…ぼくはそれでなくともこういちを死なせたんだ…ぼくのせいで…ぼくが悪かったから…!」
大切なモノを自分の手で失う。
「だから冬夜、あれは…」
「どんな理由をこじつけたってぼくが原因でこういちはああなってしまったんだ! ぼくがいたから!」
このまま自分のやったことを抱えながら独りで生きていくなんて、ぼくには無理だ。生きること自体が恐怖になる。
「ぼくさえいなければあんなことにならなかった。ぼくなんか最初からいなければよかったんだ! そしたらこういちだって今ごろは――」
バチンッと音がした。その弾みで内側の肉を思いきり噛んだ。
しばらくしてほっぺたが痛みと熱を持ちはじめて、ここで初めて叩かれたのだと理解できた。
叩かれた右頬を押さえて恐る恐る見上げてみると、今まで見たことないような黒木くんがいた。
「…ばかやろうっ」
黒木くんはうつむきながら低く唸った。珍しく怒りを露にしていて、自分の背筋が凍った。
「…何馬鹿なことを言っているんだよっ…おまえがいなくていいわけないだろーがっ!!」
怒れる黒木くんはぼくの肩を強く掴み、ぼくの首がおかしくなりそうなくらい激しく揺さぶった。ぼくは鬼面を前にしてあともうとも判別できない悲鳴をあげていた。
「じゃあ何で晃一はおまえを追いかけて助けたんだ? おまえのことが自分の命より大事っていうことじゃないのかよ!!!」
(…あ…)
「普通だったら自分の身を投げ出す勇気なんて出ないだろ。それをあいつはやったんだ。それほどおまえが好きだったんだろ! あいつは!」
(そうだ…ぼく…何を思い違いして……)
目が覚めたような気分だった。今までモヤモヤ抱えていたものが一気に飛んでいった。
「それなのにおまえは…身を投げ出したあいつの気持ちも考えろよ! そんなこと二度と言うな!」
黒木くんはそう叫んでぼくを突き放した。本気で怒っている彼を前に、ぼくは唖然として言葉もでなかった。
確かに言っていることはよく分かる。冷静に考えれば、申し訳なさがじわじわ込み上げてきた。
黒木くんはうつむきながら落ち着いたトーンで続けた。
「…それにあいつ、変わったよ。再会したとき、前のようななげやりで一匹狼の印象はどこにもなくて、充実感に満ちた顔をしていたから、こいつ今幸せなんだなって直感的に思った。それはきっとおまえがいたからだと思う」
ぼくは顔が熱くなった。これはぶたれたせいじゃない。
(こういち…)
「…うすうす気づいてはいたんだ。まさかおまえたちが恋人だとは思っていなかったけれど、冬夜の存在があいつを支えていたんだと。並みの友達以上の付き合いをしているんだろうと」
黒木くんは顔を上げて赤くなっているぼくを見ては苦笑した。
「…だから、おまえはいな くていいわけがない。あいつにとっても、俺たち双子にとっても。そんなこと次言ったら許さないからね」
「黒木くん…」
「それに冬夜、あの事故はおまえのせいじゃない。誰でのせいでもないし、あいつは死んでない」
(そうだ、まだ生きているんだ…)
ぼくは重くのし掛かっていたものから解放された気がした。考え直せば、死んでいないというだけで幸運なのだ。まだまだ望みはある。
「…恋人のおまえが回復を願ってやらなかったら、あつが可哀想だ。あいつだってこのまま死にたいわけじゃないだろう」
あのひとの笑顔が頭に浮かぶ。普段仏頂面をしていたから、そのぶん笑ってくれたときは心から嬉しかった――。
「…そうだよねっ」
もう一度その笑顔が見たい。生と死の狭間で一生懸命生きているあのひとを、応援しなくてどうする。
ぼくは涙がこらえ切れなかった。
「……そうだよねっ、ぼく頑張る」
黒木くんは泣いているぼくに頷き、頭をワシャワシャ撫でてくれた。
「黒木くん、ありがとう…っ」
「うん…分かったから泣くなよ…冬夜に泣き顔は似合わないから。笑って…」
(あれ…この言葉…)
聞き覚えがある。紛れもなく、あのひとが最後に言った言葉だ…。
あのひとが近くにいるみたいに錯覚した。
「…あれ、ふたりともまだこんなところにいたの」
不思議な感覚にとらわれている途中、突然第三者に話しかけられた。
「あ、セイ」
黒木くんは振り返って相手を確認すると、僅かに声が弾んだのをぼくは聞き逃さなかった。ぼくも声のした方を向くと、困った顔して立っている聖くんがいた。
「そんなことしてると学校遅刻するよ?」
聖くんは複雑な表情で言い放った。黒木くんはそんな弟に近づき、肩を組んだ。
「遅刻するよってセイ、おまえもだろ」
「僕はいいの。朝お弁当詰める時間がなかったから、駅前で買ってただけだもん」
「…へー」
「それよりふたりとも、遅刻するって」
聖くんは兄の腕を振り払ってひとりでつかつか歩き出した。態度からして明らかに怒っている。
「黒木くん…」
「構わないよ。あいつ朝から機嫌が悪いんだ」
「ケンカしたんですか?」
「いや、そうじゃないけど…」
黒木くんは笑ってお茶を濁して聖くんのあとを追った。ぼくもそれに続いた。
来る29日、ぼくは黒木くんたち双子と3人で、あのひとのお見舞いに行った。その前に、今日はあのひとの友達も来るというらしいから病院に近い喫茶店で待ち合わせすることになった。
ぼくらは窓際の4人座れるボックス席を確保し、窓側に黒木くんたちが向かい合い、ぼくは黒木くんの隣に座った。
「…遅いな」
「ね」
約束した時間から20分は過ぎていた。黒木くんたちは呑気におしゃべりをしていたが、ぼくはガチガチに緊張していて、ずっと太もものところで手汗を拭いていた。
不意に携帯のバイブレーションが鳴り、黒木くんは慌てて後ろのポケットから取り出した。
「…あ、例の健太郎だけど、あと少しで着くってさ。電車が車両点検して動かなかったんだって」
黒木くんは内容を確認するとまたもとの場所にしまった。
「ふーん。最近多いよね。僕も朝電車動かなかったりして結構困ることある」
「まあ最近はいろいろ厳しくなってるんだろう。些細なことでもそれが大きな事故に繋がりかねないからね」
「まあ、それもそうだね」
「ま、実際問題事故も起きてい…あ、来た」
黒木くんは入り口に向かって手を振った。ぼくは慌てて立ち上がって目を凝らすと、入り口できょろきょろしている男の人がいた。
彼はぼくらを確認すると、近づいてきたウェイトレスに「待ち合わせしています」と断りをいれながらこちらにやって来た。
「健太郎、今日はわざわざすまないな」
そこ座って、とぼくの目の前の席を勧めながら黒木くんはその人を迎えた。
「いや、こちらこそ申し訳ない。待ち合わせの時間より大幅に遅れてしまって」
健太郎と呼ばれたその人は、見た目はとても堅実そうで、落ち着いた渋い声だった。
「…えーっと、まぁ、お互いの紹介からいこうか」
黒木くんはぼくをチラリと見て言った。
「冬夜、こちらは晃一の高校の友達の真壁健太郎君だ。そして健太郎、こっちは小学校から付き合いのある春日井冬夜」
「春日井君、間違っていたら申し訳ないんだが、」
黒木くんの簡単な紹介が終わると、健太郎さんは身を乗り出して聞いてきた。
「晃一のやつと交際していたのは…もしかして君か?」
ぼくはここで隠しても仕方ないと観念して、首を縦に振った。
「そうか…」
本当に、カミングアウトする瞬間だけは慣れない。この人、初めて会ったのにぼくを気持ち悪く思ったらどうしようと、全身が震える。
「いや、別にそういうことに偏見があるわけじゃないから安心してくれ。ただ晃一と前話していたとき、自分の命を投げ出しても守りたい人がいると言ってたからね。彼女かと聞いても、まあねと笑って誤魔化すだけで詳しいことは教えてくれなかった。あいつ、散々人にのろけるだけのろけといて恋人の正体を明かさなかったから、相手がどんな人か少し気になってたんだ。でもこれで繋がった」
「はぁ…」
「こういうことだったんだな。ま、相手が君ならわかる気がする」
「はぁ…」
「おや、おれはほめてるんだぜ。あいつがのろけるだけあるなって」
いきなりそんなことを言われてついていけなかった。あのひとがぼくのことを知らないところでそんな風に思ってくれていたなんて、嬉しかったしちょっぴり照れ臭かった。
ますますあのひとのことが恋しくなってしまう。
急に感傷的になって、涙が込み上げてきた。
「あ、あれ、春日井君、何で泣いて…」
「ご、ごめ…なさっ…」
堪えきれずに溢れた涙を袖で拭った。それでも間に合わなくなって、ハンカチを瞼に押し当てた。
初対面の人の前でこんなに大泣きするなんてみっともないけれど、今のぼくはどこかおかしくて、自分を制御することが出来ない。泣くのを止めたいのに、涙が噴水のようにノンストップで湧き上がってくる。
ひとりでグスグスしていると、隣にいた黒木くんに肩を抱かれた。
「ごめん、健太郎。こいつ事故があってからいろいろ悩んでて、弱ってるんだ」
「あ…そうなのか。ごめんな」
「だ、大丈夫ですっ…」
ぼくは涙を拭き、もう泣かないと心に念じてハンカチをしまった。
一旦4人が落ち着いてから本題に入った。主に、こういちの高校での生活についてだ。
「あいつはね、」
健太郎さんは語りだした。健太郎さんの話だと、こういちは高校に入ってからもあまり友達を作らず、ひとりでいることが多かったという。そんな一匹狼みたいな雰囲気が学校中の女の子達にウケて、 同い年の子はもとより先輩からも告白されていたという。
「晃一はあの通りルックスがいいし、要領もいい。おまけに頭もキレるときたら、女子はほっとけなかったんだろうな」
「やっぱり…」
あのひとはどこに行ってもモテる。それは当たり前だよなと、納得せざるを得ない。
「中学時代からそうなのか?」
「あ、…はい。ぼくがあのひとと付き合う前、かなりの女の人と付き合ってたみたいなんです。しかも大抵1週間続かないで、すぐ次の人、みたいな」
「へー…なるほど」
健太郎さんは意外そうに目を見開いたが、隣の双子は「晃一らしい」と頷いていた。健太郎さんは信じることができないのか、更に聞いてきた。
「そんなに遊んでたのか? 最近のあいつには考えられないけど」
「…ぼくもあまり詳しくは知らないんです。中学2年まで別々のクラスで、お互いのことは存在自体深く認識していませんでしたから。でもあのひとは目立ちますし、すぐに噂になりますから、何となく耳では聞いていたんです。最近は…別人のようになりましたけど」
「なるほどな。昔のあいつはおれが知ってるあいつとは違うな。言い寄られても必ず全部断ってたよ。他人には全く興味がないみたいに」
「そうなんですか…」
「ああ」
何だか少しホッとした。あのひとを疑わなくてもいいんだ。
では、あの時来たメールは何だったのだろう。あのひとがぼくに送りつけた最後のメールは――。
「健太郎さん…」
やっぱり、あのひとはぼくを嫌いになったのだろうか…別れるためにわざと仕掛けたことなのか?
でもあのひとはそんな汚いことするとは思えない。思いたくない。
「何?」
「事故があったあの日、校門の前であのひとにキスしてた例の女はどういう人ですか?」
それに本当に別れたいなら直接言って来るはずだ。そんなことをしなくても。それに追いかけて身を投げ出してまでぼくを助けたりしないだろう。
ということは、違う誰かがあのひとの携帯を使ってぼくに偽のメールを送ってきたのかもしれない。
そう考えれば納得できる。まだ確信は持てないけれど。
「…あいつは…」
言いかけた健太郎さんは苦々しい表情をした。
「実は、1か月前から晃一をストーカーしてた女なんだ」
「ストーキング…」
「ああ」
健太郎さんは水滴でくもっているお冷やのグラスを傾けた。
「あの女も晃一を狙っていた。何回フラれても諦めないで、しつこくしつこくアタックしていた。事故があった日のお昼も、晃一を呼び出して告白していたみたいなんだ。晃一はキッパリ断ったらしいが、あの女は執着心にますます火をつけただけだった」
あの女――キスを目の当たりにしたぼくに向かって、殊勝な笑みを浮かべていた。もしかしたら、というか9割方あの女の仕業なのかもしれない。でも、どうしてぼくがあのひとと恋仲だって分かったのだろうか?
「オレ、あの事故の後、直接あの女にいろいろ吐かせたんだ。晃一に何をした、と。そしたらな、あいつ、黙るどころかペラペラ喋りやがった」
健太郎さんはグラスをドンッと置いた。テーブルの上にできた水溜まりがはねる。
「健太郎さん…」
「邪魔物を排除しただけ、とあの女は答えた。つまりはだ。女は1か月間晃一につけ回って君のことを知った。前から晃一に恋人がいると聞かされていたが、それが男だと分かったらそれなりにショックだったらしい。引き離すためにいろいろ考えた末、君をメールで学校に呼び出す作戦に至った」
「そんな…でもどうやって? あのひとはいつも携帯を身に付けています。勝手に弄るのは無理なんじゃ…」
「これ、全部あの女が話したことだぜ。嘘でも憶測でもない。多分全部本当なんだろうな。実際その日の午後の授業は体育だったから、教室には誰もいなかった。晃一は体育の時だけは携帯を置いていくから、おそらくその隙にあの女は操作したんだろう」
確かにメールが来たのは午後の時間帯だった。もし健太郎さんの話に寸分の狂いもないのなら…その女がやったことになる。
「それにな、その時間女が晃一のクラスにこっそり入っていく姿を目撃した人がいたんだ。もちろん女と晃一は違うクラスだ」
もうここまできたらほぼ間違いない。アリバイもないのなら、その女が仕組んだことだったのだ。
腸が煮え繰り返ってきた。悔しい、悔しい、悔しい。そんなやつのために振り回されていたなんて。
「…健太郎さん、その女の番号知ってます?」
「あ? ああ、一応」
「教えてください」
「何をするつもりだ」
「そいつと話します」
「何を」
何をと聞かれると考えてしまう。ただ怒りのまま思いついたことだから、特に何を話すとか全然頭になかった。
「…分かりません」
「とりあえず落ち着け。そんなんで電話しても意味がない。それにあいつは頭が相当イカれている。まともに話できないよ」
「…でも…」
「怒りたい気持ちは分かる。でも今それをやっても何にもならない。ただ無意味なことに体力と時間を消耗するだけだ」
ぼくは急にしぼんだ風船みたいになって俯いた。でも心の中にはモヤモヤが残る。
いつまで経っても消えない、この煮え切らない気持ち。事態は膠着状態になっているから、あのひとが目を覚まさない限りなくなることはないだろう。
「冬夜…」
隣の黒木くんは慰めるようにぼくに体を寄せて、頭を撫でた。
「…気持ちは分かるよ。でも今は彼の言うとおりにしよう。な?」
ぼくは仕方なく頷いた。
「ありがと。じゃあもうそろそろ晃一のところに行こうか。もう十分話は聞けただろう?」
大丈夫だよ、と肩を叩かれる。
黒木くんはどうしてこんなに人の心に寄り添うのが上手いのだろう。そっと痛いところを包んでくれるそんな優しさに、ぼくはいつまでも甘えたくなってしまった。
「…うん。行く」
ぼくたちはお店を出て、病院まで歩いた。道中は4人ともほとんど黙っていた。途中で生花店を見つけて、お見舞いの花をお金を出しあって買った。
「…あ、そういえば面会ってOKになったんですか?」
ぼくは隣で歩いていた黒木くんを見上げる。すると、言ってなかったっけ? ととぼけられた。
「…聞いてないですよ」
「ああ、ごめん。昨日からなったらしいよ」
そうなんですか…と返しながら、頭はこれからのことを考えていた。
もう何週間も顔を見ていない愛しい人。やっと会えるという気持ちと現実を受け入れたくない気持ちに挟まれて、ぼくは悲鳴をあげて逃げ出したくなった。
でも今日会わなくたって、次来るときも同じことを思うだろう。それなら、今日行くしかない。
ぼくは皆の後をついていきながら覚悟を決めた。
つい何週間か前まで自分も入院していた病院の門に立つ。緑をたくさん植えているせいか、病院の建物を除けば公園にも見えてくる。外見だけはのどかな病院に、あのひとはいる。
会いに行く。会いに行くんだ。
一人だけ立ち止まっていると、他の3人が振り返った。
「…どした?」
「…ううん。ちょっと考え事してただけ」
早足で3人に追い付き、病院の中に入った。受付を済ませていざ向かう。
あのひとの病室は3階にある。エレベーターを待つより階段で上った方が早いと建物の端にある階段を使った。
胸の鼓動が激しくなる。これは階段を上ったせいじゃない。
病室が並ぶ廊下を進むにつれ、緊張で何も考えられなくなる。周りの景色を見ている余裕なんて、ぼくにはない。
必死で3人についていったら、前に歩いていた聖くんが歩みを止めた。
「…着いた」
聖くんは「309」と書かれた白いドアを指さした。その右横のオフホワイトの壁にはあのひとの名前が印刷されたプレートが掛けてあった。
立ち尽くす一行の中で、最初に動き出したのは黒木くんだった。
「ちょっと待ってて。晃一の母親に挨拶してくる」
黒木くんは花束を片手にノックして先に入っていった。暫くして、あのひとの母親らしき人の声が聞こえてきた。
ぼくは自分の心臓の音を聞きながら、じっとりと手にかいた汗を拭いていた。ソワソワ落ち着かないでいると、聖くんはぼくの左手をそっと取った。
「冬夜くん、緊張してる?」
「う、うん」
「ならね、こうやって」
聖くんは人差し指を立てて、ぼくの手のひらに「人」の文字をなぞった。
「「人」書いて飲むといいよ」
「何その古典的なやり方っ」
大昔に信じていたおまじない。誰もが知っているようなことを真面目な顔して言うから、ぼくは束の間緊張を忘れて笑った。
「うん。僕もこれやってもあまり効かないんだけどね」
「ならわざわざ教えなくても」
「緊張、少し解けたでしょ?」
ね、と聖くんに軽く微笑まれて、ぼくは照れて下を向いた。
「…ま、まぁ…」
「大丈夫、僕だって怖いから」
聖くんはぼくの左手をギュッと握った。何が大丈夫なのかは知らないけれど、この場から逃げ出したいのはぼくだけじゃないと安心させたいのだろう。
「…うん」
「どうせなら晃一君のこと起こしちゃいなよ。朝みたいに」
「いつもぼくが起こされる方だった」
「甘えん坊」
「うるさい」
ぼくらがギャーギャー騒いでいると、通りかかった看護師さんに怒られた。それを横で見ていた健太郎さんは笑いを堪えていた。
「…君たち、仲いいんだね」
この人、最初会ったときから表情を崩さなくて少し怖かったけれど、笑うと好青年みたいな印象だった。
「え、…まあ」
「ふたりとも小動物みたいで、微笑ましい」
「それ褒めてないですよね」
いや、と健太郎さんが言いかけたとき、目の前のドアが開き、黒木くんが顔を出した。
「…皆入って。静かにね」
ぼくらは言われるまま部屋に入った。健太郎さん、ぼく、聖くんの順に。
先ほどの和やかな雰囲気はどこへ行ったのか、皆の笑顔は消え、空気が張り詰めている。
部屋に入ると、黒木くんと女の人が後ろの景色を遮るように立っていた。女の人は背の高く、目鼻立ちがスッとしていて美人だった。あのひとの面影があったから、この人が母親なんだろう。
「皆、こちらが晃一のお母さんだ。セイは知っているだろうけど」
聖くんはええ、と頷いた。初対面のぼくらは簡単に自己紹介をした。あのひとのお母さんは、感極まったのか涙を拭いた。
「皆さんありがとう…お友達がこんなに来てくれてあの子も幸せだと思います…どうぞ、あの子のそばに行ってやってください」
お母さんはぼくらをベッドに導いた。ベッドの周りには物々しい機械がたくさん置かれ、怪我の酷さを暗示していた。
ぼくは聖くんの腕にしがみついてベッドを覗く。ごくり、と唾をのんだ。