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運命とは時に残酷だ。
人間はそれを受けとめずには生きていけないのだから、運命の女神様は酷い人だ。
幸せと不幸せはバランスを取り合っているのだという。
幸せ絶頂だった俺たちが一瞬で奈落の底に叩き落とされてしまったは、今まで幸せの量が多すぎたせいなのだろうか。
あの日は、冬夜を守りたい一心だった。…冬夜を失うことだけは死んでも許せなかった。
悲劇の1日が始まる。
「おい、晃一」
教室で早弁していると、隣の席のケンがトイレから戻ってきた。
「何」
「またあいつ、来てるよ」
〝あいつ〟の三文字だけで、鬱陶しさがぶり返した。こころなしか、弁当も味が落ちた気がする。
「…またかよ」
俺はため息を吐きたくなった。
「本当だよな。お前、ちゃんと振ったんだろ?」
「…ああ。だけどあっちはそう思ってないらしい」
「まったく迷惑な話だよな。いくら何でも執着心が強すぎる」
俺は食べる気がしなくなったので弁当を片付けた。教室の外にちらりと目をやると、例の女子が廊下からこちらをじっと睨んでいた
〝あいつ〟とは、1か月前に俺に告白してきた1年の女子だ。俺は当たり障りのないように丁重に断ったはずなのだが、その女は泣き出し、「絶対に振り向かせてみせますから」という捨て台詞を吐いて去っていった。以来、俺はやつにストーカーされ続けている。
「おーい、木菅ーっ」
女の方を向かないように俯いていたら、ドアの近くにいた男子が俺を呼んだ。
「…お呼びだぜーっ、このかわいい女の子に」
「…行かねぇ」
「はぁ? わざわざ違う組から来てんだから、こっち来いよー」
その男子があまりにもうるさいので、俺は音を立てて椅子を引き、早足にドアに向かった。そんな様子を照れていると勘違いしたのか、俺を呼んだ男子は「オンナか?」とちゃかした。
「何。わざわざこんなところまで来て」
俺が感情のない声で言うと、女は怖い顔で見上げてきた。
「…お話があります」
「話? ならさんざん聞いたじゃねぇか」
「違うんです。とにかく今日の昼休み、体育館裏に来て下さい」
「俺はボコられるのか」
「いいえ。お話するだけです」
女はそれだけ行ってツカツカと去っていった。俺はその後ろ姿を見ることなく、即座に自分の席に戻った。
「…何だって?」
ケンは心配するような口調で言った。
「……話があるんだとよ」
「話?」
「ああ。昼休み呼ばれた」
「ふーん」
気を付けろよ、とケンは忠告した。俺はその言葉を半分聞き流していたが、後になって本当に酷い目にあうとは思ってはいなかった。
つまらない授業を終え、昼休みになった。俺はあの女に言われた通り、体育館裏に出向いてやった。そこには、猫のように目を光らせた先ほどの女が立っていた。
「何だよ、話って」
早く終わらせて教室に戻りたい。頭の中はそれだけだった。
「木菅くん、」
女は1、2歩俺に近づき表情も変えずに言った。
「好きです。…付き合ってください」
女はギラギラした目で俺を見上げてくる。どんな男だってそんな女だと一歩引いてしまうだろうに、と思った。
こんな状況、1か月前にもあった気がする。前もきちんと断ったはずなのに、この女はどうも諦めが悪いらしい。断るのもいい感じはしないのに。
「…ごめん、俺付き合ってるやつがいるから。気持ちは嬉しいけど無理なものは無理」
女は少しだけ悔しそうに顔を歪めた。しかしすぐに取り繕い、不敵な笑みを作った。
「木菅くん」
「何だよ」
女は勝利の確信があると言うように、のけ反り反った。
「私、あなたの秘密を握っているのよ」
「は…?」
「知られたら身の破滅も起こしかねほどの重大な秘密を」
女は自信満々に言う。対して俺は、そんな秘密あったっけな…と頭を巡らせていた。
「何だよ?」
「木菅くん…私は知ってる」
「だから何なんだよ」
「じゃあ、言う。木菅くん、付き合ってるその子って、男でしょう」
俺は一瞬頭の回転が止まった。もっと重大な秘密と思いきやそんなこと…いや、でも、普通の感覚からしたら男同士で付き合っているのが知られたら身の破滅になるのかもしれない。生憎俺は冬夜との恋愛は普通のものになりすぎて、というより男と男という感覚がもうすでになくて、最初女の言っている意味が理解でき なかった。
「…ああ。男だけど」
慌てる様子もなく素直に認めた俺を見て、女は少し動揺したようだった。
「そ、その秘密、学校中にばらまくよ? いいの!?」
女は焦ってまくし立てた。要するに、俺が付き合うと答えを出さなければ、女は俺の秘密をばらすと言いたいらしい。考えが幼稚だ。
「…別にいいぜ。別に隠してたわけじゃないし、知られても構わないし、それくらいじゃ俺は動じない」
計画が狂ったらしく、女はわなわなと唇を震わせていた。しかし、その目の色に諦めはなかった。
「私、気持ち悪い…」
「…あ?」
「私、木菅君みたいな人が、あのチビで女みたいなヤツと付き合ってるなんて考えられない…っ! 気持ちが悪いのよっ」
「…おい」
俺は止めようとしたが、女は感情が高まってるらしく、泣き叫んだ。言いたいことも堰を切ったように止まらない様子で、俺は黙って聞かざるを得なかった。
「あのチビさえいなくなればいいのにっ…!」
しかし、聞き捨てならない言葉には待ったをかけた。いくら温厚な俺でも、恋人の悪口を目の前で言われたらカチンとくる。
「おい、あいつのことは悪く言うなよ」
「何よ、女の私よりあいつの方がいいのっ?」
「…ああ」
「く、悔しいっ…。あんなナヨナヨした色気のないやつに負けてるなんて……いなくなればいいのに」
「おいっ!」
俺が低く吠えると、女は肩をビクつかせた。恐る恐る俺の顔を覗き込む。
「きすげ、くん…」
「あいつの悪口は言うなよ言うなら俺にしとけ」
「いや、木菅君は悪いとこないもの…悪いのは、木菅君を誘惑して道を外させようとしているあの小悪魔っ…!」
「…だからやめろってっ!」
躍起になっている女には話が通じない。もういい加減やめろ、と言うと女はキッときつく睨んで逃げていった。
「…何なんだあいつは…」
深いため息が出る。俺は全身倦怠につつまれながら教室に戻った。隣の席ではケンが本を読んでいた。
「…終わったのか?」
「…ああ」
「諦めてくれたか?」
「逆かも」
「またか…しつこいな、あの女」
「…いい加減にな」
俺はふて寝するように机に突っ伏した。早くあの女から解放されたい。あの女と関わるとロクなことが起きない気がする。
その予感は当たった。それは学校から帰るときだった。
鞄を肩に担ぎ、教室から出ると、まるで待ち伏せするように女がいた。俺はそいつを華麗に無視した。
「木菅くん」
女が追いかけてくるので、早足で歩く。
なぜここまで執着されるのかわからない。どんな男だってここまでされると関わりたくなくなるだろうに。
俺は昇降口で靴を履き替え、小走りで人混みをすり抜けた。それでも女は、怨霊のように長い黒髪を振り乱してついてくる。
「木菅くんっ」
――うるさい。
「…木菅くんっ」
――鬱陶しい。
「木菅くんったら!」
――何が「ったら!」だよ。ついてくるなよ。
校門の近くまで来ているのに女はストーカーをやめない。いい加減俺は苛立ちが抑えきれなくなって、立ち止まった。
「何なんだよっ!」
「木菅くんっ…」
女は先回りして俺の行く手を拒み、涙目で見上げてきた。
「本当に好きなの…っ。だから…」
だからじゃねぇよっ、と言葉がでかかったその時、俺は目を見開くことになった。女が背伸びして無理やりキスをしてきたからだ。勢いで歯がカチンと当たった。
(…なっ…!)
俺の頭と体は硬直した。それをいいことに女は、唇を食んだり舌を重ねたりと、やりたい放題やってきた。
「んふっ…んっ…」
女は1人で感じているのか、鼻から甘い声を出した。その鼻息が顔に当たる。ピチャクチャと舌同士が絡み合う音が聞こえる。心なしか、抱きついてきた女の体はクネクネと動いている気がする。周囲には人だかりができて、ひゅーっと歓声が上がる。
すべてが地獄だった。この事態をどうすればよいか、俺の凍りついた思考では考えつかなかった。
長く感じられた接吻が終わり、唇が離れた。俺は胸にムカつきを覚え、本当に吐きたい気分になった。
「お前…っ」
「木菅くん…」
女は不敵な笑顔を作った。これで勝利は確信した、とでも言うような。
怒りと嘔吐感がぐちゃぐちゃになって喉までせりあがり、握った拳がブルブルと震えた。こいつがもし男なら一発殴っても許されるのに。
ざわめく周囲に目をやる。同じ制服で埋め尽くされているなかに、1人だけ違う制服があった。
(えっ…)
氷の手が俺の心臓をわしづかむ。二度目の硬直がやってきた。
(冬夜…)
そんな、嘘だろと言いたくなった。なぜここに冬夜がいるのかは分からない。なぜこんなにタイミングか悪いのだろうか。なぜ悪いことはこうも重なるのだろうか。
とにかく冬夜は、人だかりの隙間に立ち、呆然としていた。その表情は暗く、悲しそうだった。心なしか、いつもより小さく見える。
再び女を見下ろすと、そいつは冬夜を振り返り、にっこり笑っていた。それを見たら腹が煮えくりかえってきた。
「…おい」
「何?」
「お前、何かしたのか」
どうしたの? とでも言いたげな顔して、女は口元に笑みを浮かべている。間違いなく、確信犯だ。
「あいつに何かしたのかって聞いてんだよ!!」
沸々と怒りが込み上げ、今にも爆発しそうだ。それをせせ笑うかのように、女は余裕の口ぶりで言った。
「私はあいつにメールを送っただけよ。あなたの携帯を使って…」
よくも、罪深いことをぬけぬけと言えたものだと、俺は怒りを通り越してあきれた。
全部、こいつの仕業か。まさか、
いくらなんでもここまでするやつとは思わなかった。しつこ くて鬱陶しかっただけならまだしも、冬夜を呼びつけ、その目の前で俺とのキスを見せつけて傷つけさせようだなんて…。
最悪だ。
こいつを地獄へ葬り去ってしまいたいと心から思った。
ふと冬夜が心配になり、顔をあげた。しかしそこに最愛の人の姿はなかった。
「…冬夜…?」
きっといてもたってもいられなくなって、逃げ出したのだろう。すぐに追って誤解を解きたい。
「おい、お前後で話があるからな」
俺はそう唸りながら女を突き放し、冬夜の後を追った。当たり前だが冬夜の姿はどこにもなく、勘で探すしかなかった。
「くっそぅ…冬夜っ」
取り敢えずあいつが行きそうなところに行ってみる。しかし、行きそうなところとはどこだろう。あいつが俺の高校に来ることははじめてに近いし、2人でこの街を歩いた記憶もない。結局はただやみくもに走っているだけだった。
(冬夜…違うんだ)
早くあいつの誤解を解きたい。焦って周りが見えなくなって、途中道を歩く女の人と肩をぶつけてしまった。
「きゃあっ」
「……っすいません! あ…」
肩をぶつけた少し先に冬夜の小さな背中があった。俺は女の人を見捨て、一心不乱に冬夜を追いかけた。
「冬夜っ、待てよ!」
俺が大声を出しても冬夜は走ることを止めない。歩道を歩くすべての人が一斉に俺を振り向いたが、気にできなかった。
少しずつ距離を詰める。走ることに関しては俺の方が有利だ。あともう少し、10メートル先までに追い付いた時、信じられない光景が目に焼き付いた。
目の前の大きな横断歩道に、右方から信号無視した黒いスポーツカーがスピードを出してつっこんできていた。それに気づかずに飛び込もうとする冬夜――。
このままでは…。
最悪の事態が目に浮かんだ。それだけは絶対に避けたい…っ。
俺は反射的に体が動いた。頭では何も考えられなかった。
ただ冬夜を失う方が怖かった。
俺は全身全霊を込めて走った。頭の中は真っ白だ。
寸暇で追いつき、小さい背中に手を伸ばす。
ほんの少し先には黒テカりした鉄のかたまりが迫っていた。全身が凍りついた。
「くっ…、冬夜っ!」
襟首をむんずと掴み、ありったけの力で引き寄せる。冬夜自身も走っていたので、引き戻すには相当な力が必要だった。少々首が絞まったかもしれないが、強引に自分の後方に投げ捨てることに成功した。
しかし――。
俺は冬夜を助けた反動で、車道に身を投げ売っていた。車のクラクションが鳴り響く中、目をつぶる暇もなく、鈍い音と共に全身に衝撃が走った――。
「こういち、…こういちっ…!」
微かに俺を呼ぶ声が聞こえた。俺は目を開けてみる。何か柔らかいものに載せられた自分の体は、鉛のように重かった。
「こういち…っ」
真上で冬夜が泣いていた。少し傷ができているが、とりあえずは助かったようだ。よかった、ホッとした。しかし、生憎だが冬夜の泣き顔は見たくない……。
「泣く、な…冬夜」
声も掠れてしまう。あの後俺はどうなったのだろうか。確か、車にぶつかって…。
「こういち、死んじゃやだよ…っ」
「ばっか、死なねぇよ…ぅっ」
「こういちっ…!」
腹の辺りに激痛が走る。俺は思わず身を縮める。
「しん、ぱいすんな、…冬夜、笑って。笑って…」
冬夜は泣くのをやめない。俺は心のなかで苦笑いした。体は言うことをきかなくなって、意識も朦朧としてきた。
「笑っ、て…」
冬夜の泣き顔が妙に脳裏に焼きついた。
突然目の前が真っ黒になった。