1
最終章。
「冬夜っ…冬夜!!」
ただいま、母親に叩き起こされたぼく。反射的に目覚まし時計を見ると、7時35分。
「いけない!!」
ぼくは慌てて身支度を整える。新品の制服に腕を通す。シワを作らないように着たかったけれど、バタバタしている今はそんなことを構っていられない。
「もうっ。何回も起こしたのに」
リビングに行くと、母さんがぼくを戒めた。ぼくは頭が上がらなかった。
「入学式なんだからきちんとして行きなさいよっ。ほらっ、寝癖直してっ。ったくもう」
ぼくは言われるがままに熱いタオルで寝癖の部分を押し当てた。何回かやったら直った。あとはくしでとかす。
朝食をほとんど味わわないで詰め込み、駆け足で家を出た。ギリギリ学校には間に合ったけれど、初日から遅刻寸前なんてこの先が思いやられる。
明日からは早く起きなくては。
やって来たは桜ヶ丘高校。音楽学校でレベルが高いことで有名だ。教室に入り、辺りを見渡せばそういうオーラがある人ばかりだ。ぼくはごくりと喉を鳴らした。期待と不安で胸がドキドキする。
ぼくはこのレベルが高い中でやっていけるのだろうか。
その日は緊張しっぱなしだった入学式があって、終わったら教室でクラスの皆と自己紹介をした。皆がひとりひとり自己紹介をしていくうちに、ぼくの番が回ってきた。ぼくはテンパって真っ赤になって、クラス中から笑われてしまった。女の子たちの、「カワイイ〜」の声も飛び交った。
「恥ずかしかった……」
皆の目から解放された脱力感に浸っていると、不意に教室内が静まるのを感じた。ハッと息を飲む人までいる。
座りながら体を捻ると、ぼくの後ろの席でまるでモデルのような体型の男子が立っていた。びっくりするくらいとてもきれいな人で、ぼくも思わず見入ってしまった。皆が静まるわけが分かった。
「……黒木耀です」
クールな声だった。黒髪で眼鏡を掛けているが、その顔立ちはスッと整っていて、誰から見ても美少年だ。どことなく憂いに満ちた雰囲気は、色っぽく感じた。
「…よろしく」
彼はそれだけ言って席に座った。皆、圧倒されている。口をポカーンと開けている人までいる。
しばらく経って大きな拍手が生まれた。クラスの人たちは、その人に虜になっている。ぼくもその1人だ。どことなくこういちに似ているような気がして気になった。
これが、この後ぼくの支えになってくれる黒木君との出会いだった。
帰ってこういちに電話を掛けて黒木君の話をしたら、「俺に似てるからって惚れんなよ」と怒られてしまった。
「……大丈夫。こういちに似てるけど、好きにはならないから」
ぼくが言うと、こういちは苦笑気味に『よかった』と言った。そして少し上ずった声でびっくりするようなことを口にした。
『…今思い出したけど、黒木耀だっけ? そいつ多分知ってるよ』
「え、そうなの!?」
『俺、今のとこに引っ越す前、そいつと幼稚園から小学校低学年まで一緒だった気がする。それから俺は転校しちゃったから、一切連絡を取ってないんだけど』
「そうなんだ…! 奇遇だね」
『まぁそいつが本人であればな。そいつには、双子の弟がいるだろう』
「わ…かんない…。けど、隣のクラスに黒木って名前の人はいたよ」
『じゃあおそらく本人だな。やっぱりあいつらも桜ヶ丘に行ったんだな』
こういちの声は弾んでいた。旧友と繋がるのはやはり嬉しいのだろう。でも少し妬ける気がした。
何だか心配になる。学校で毎日会えなくなって、こういちが浮気しないか心配だ。こういちのことを信じていないわけではないけれど離れているとそういうことを考えてしまう。
『…冬夜…どうし』
「会いたい」
今、会いたくて仕方がない。
『冬夜…』
「今から会わない?」
入学式云々はお昼までには終わっていたので、まだ外は明るい。会おうと思えば会える。
『…俺も会いたい』
「こういちの家に行っていい?」
『OK』
「じゃあ今から行くねっ」
『何か急に元気になったな。気をつけて来いよ。おまえ可愛いから』
「心配しないで、可愛くないから。じゃあいったん切るよ?」
ぼくは電話を切った。切る間際に「絶対に可愛いだろう……」と聞こえたが、あえて無視をした。
ぼくは早足でこういちの家に向かう。道のりが嫌に長く感じた。
こういちの家(豪邸)に着き、ベルを鳴らす。数分経ってから、こういちが制服姿で出てきた。
「こういちっ…」
ぼくはカッコいいこういちに抱きついてやった。こういちは、ぼくの頭をぽんぽん撫でた。
「久しぶりだね、冬夜。どうやら襲われずに済んだようだな」
「失礼だなー。ぼくなんて襲われるわけないよ」
「どうかな」
こういちは突然ぼくの耳を食み出した。
「んっ…やっ……めてよっ…」
思わず声が出てしまう。反抗しても、やめてくれない。声を出すまいと真っ赤になっていると、こういちはケラケラ笑いながら離してくれた。
「可愛い」
家に上がらせてもらい、真っすぐにこういちの部屋に入った。密室となった部屋で、ぼくらは強く抱き締め合った。こういちの胸の中は、温かくて気持ちがいい。ついつい眠くなってしまう。
「やっぱおまえがいないと、学校つまんねー」
ぼくの頭の上で、こういちが苦笑する。
「ぼくはこういちがいなくても頑張れそうだよっ」
「……耀のヤツがいるからな。あとでよろしくと言っておいて」
こういちは抱き締めていた腕を解き、ぼくを見下ろした。その瞳は慈愛に満ちていて、ぼくまで心がほっこり温まる。
「うんっ。思い出したら言っとくね。それにしても、偶然ってあるんだね」
「そうだな」
ぼくらは軽くキスを交わした。温かくて優しくて、心から安心する。
キスに夢中になっていたら、いつの間にかベッドのところまで後退りしていた。こういちはぼくを押し倒し、上に乗った。久々の感覚に首の後ろがゾクリとする。
こういちはぼくの手を取って、チュッと音を立てながら手の甲にキスを刻んだ。ぼくはその妖艶な仕草に胸が高鳴る。
狂おしい視線が降りてくる。
「んっ……」
食らい付くように唇を重ねられ、ぼくの体は一瞬強ばった。割り入れられた熱い舌がぼくの舌と絡まる。息ができなくて酸欠状態になるけれど、どこか気持ちがよかった。
「…今、おまえを独占したい」
離し、こういちはぼくの唇を親指でなぞる。
「おまえを、奪ってしまいたい……――」
こういちの瞳の色が穏やかなものから猛禽類の鋭いものに移り変わってゆく。ぼくの首に手をかけ、舌を這わせた。
「…んんっ……」
首筋から頭にかけてぞわぞわする。こういちはぼくが着ていたパーカーのチャックを下ろし、中のTシャツの下に手を入れて、妖しい手つきでぼくの胸辺りを撫でる。
「んっ……ダメだよ、こういち…」
言ってもこういちは手を止めない。逆に2度目のキスをされてしまう。
「――……欲しい。冬夜のすべてが」
「ダメっ…」
「何で」
ぼくが黙って嫌そうな顔をすると、こういちは1人納得したように、頷きながらやめてくれた。
「……分かったよ。確かにおまえ、ヤった後ひどいもんな」
「ごめん…」
こういちは優しく微笑んで、いいよと言った。
「じゃあその代わり、ちょっとだけこうさせて」
こういちはぼくの手足を絡めて抱き締めてきた。上に乗っているこういちの重みは決して軽くないけれど、愛しさを感じる。
「こういち……?」
「落ち着く」
ぼくはどうしたらいいか分からず、じっとしていた。こういちの心臓の音とぼくの音が不規則に絡まる。
「……」
ぼくはこういちの背中と頭に手を伸ばし、あやすように抱き締めた。
きっとこういちも甘えたいんだろう。ぼくが寂しい時にこういちに甘えたくなるように。ぼくは甘えられていることが嬉しくて仕方がなかった。
「こういち、土曜日ここに来ていい?」
上にいるこういちは、もぞもぞと身じろぎしてぼくと顔を見合わせる。
「いいけど…どうして」
「こういちと一緒にいたいなって思って。だってなかなか会えないじゃない?」
「確かに…そうだな。いいぜ。何されてもいいなら」
何されてもいいなら――少し前のぼくはその言葉を聞いたら何をされるのか分からなくて不安になっただろう。だけれど、いまのぼくならちゃんと分かる。一抹の不安はあるけれど、こういちと一緒にいたい。
「いいよ。それにぼく、こういちにアレされるの、嫌じゃないもん……つらいし、大変だけど、こういちが好きだし…」
「冬夜っ…」
ぼくが言うと、こういちはぎゅっと抱き締めてきた。
「……それ以上言うな。我慢がきかなくなるから。…ありがとう。…めっちゃ嬉しい……」
こういちの顔が真っ赤になっていた。それを見て、ぼくも嬉しくなった。
「……その代わり加減はできないと思う」
「え」
こういちはニッタリと笑った。背筋に寒気が走った。
「好きすぎるから。冬夜が思っている以上におまえが好きだから。一度たかが外れるとどうなるか分からない」
「でも、殺しはしないでしょ?」
「まあね」
「なら、いいよ……」
こういちはぼくの頬に軽くキスをしてきた。ぼくはドキドキしちゃってこういちの顔をまともに見られなかった。
「……覚悟しとけよ? 気絶させるまで愛しぬくから」
ぼくは唾をゴクリと飲んだ。前回以上に激しいのか……。
「心配しなくても死にやしないから」
こういちはにっこり笑った。ぼくは不安と安堵を両方の感情がせめぎあう。
「こういち……」
「何?」
ぼくは不意に甘えたい気分になって、自らこういちの胸のなかに潜り込んだ。
「どこにも……行かないでね」
「冬夜…?」
「だってこういちは格好いいし、モテるし」
「冬夜」
こういちはぼくをギュッと抱き締めた。
「行かないよ。心配すんな。そんなに信用ないなら、土曜日にどれだけ本気なのか教えてやる」
「いや…それは…」
「土曜日が楽しみだ」
自分で言っておいて、土曜日のことを考えたら体が火照ってきた。こういちはもうヤル気満々で、後には引き返せない。ぼくは照れていることがバレないように、こういちの胸で顔を隠した。
甘い時間を過ごしていたら、夕暮れ時になった。ぼくは帰らなければいけない。
「……さて。もうそろそろ帰るね」
「俺送ってくよ」
勢いよく立ち上がったこういちに手を差し出され、その手をとってぼくも立った。そして手を繋ぎながら家まで送ってもらった。2人とも何も話すことはなく、と言っても話すことは尽きてしまったので、無言だった。帰り道という、どこか物寂しい空気がぼくらの周りに漂った。
横を向けば、こういちは真っ直ぐ前を見て歩いている。その視線の先には、もうぼくの家が迫っていた。
帰りたくない。しかし、家はもう、すぐそこにある。
一時の別れでも、こんなに惜しくなる。家の前に来たらその気持ちが余計に強くなった。
じゃあな、とこういちはぼくに軽いキスをしてきた。道のど真ん中で、と恥ずかしかったけれど、寂しさが紛れた。
至近距離で見つめ合って、ゆっくりと手を離す。こういちの手の温かさが消えて、冷たい空気に触れた。
「バイバイ」
握っていた方の手を振って、こういちを見送る。姿が迫り来る夜の闇に掻き消えるのを見届けて、ぼくは家の中に入った。
……この時はまだ幸せだった。
次の日、ぼくはきちんと朝早く起きて、余裕を持って学校に到着した。気になる黒木君も、当たり前だけれど早く来ていた。
こういちの古い友達なら、仲良くしたいと思う。しかし黒木君は「近づくなよ」というオーラを醸し出していて、声を掛けづらい。後ろの席にいるのに、振り返って話しかければ済むことなのに、それができない。
ぼくは臆病で人見知りが激しい。直したい性格の1つだ。だから友達も作るのが苦手だ。まあこの学校の人たちは皆フレンドリーだから、向こうから話しかけてくれる人がいて、そういう人とは友達になれた。
とうとう話しかける勇気が出なくて、1日が終わった。ちょっと残念だったけれど、一筋の希望の光が見えた。
それは、黒木君と同じ保健委員になったからだ。それぞれがやりたい委員会に入り、ぼくは真っ先に保健委員会についたのだが、気がつけば黒木君も入っていた。
明日は身体測定があるらしく、保健委員は身長計や体重計などの器具を用意する仕事がある。その時に、話しかけよう。
家に帰ったら即座にフルートを出して練習をした。
ワクワクしてきた。
次の日、保健委員の仕事のために普段より早く学校へ行った。廊下を歩いていたら、担任の下嶋先生が1―Bの教室から出てきた。
「先生おはようございます」
「おはよう。春日井は真面目だから心配ないな」
「……何の話です?」
下嶋先生はぼくの前で立ち止まり、少しトーンを低くして言った。
「黒木なんだが……あいつ怠けないようにちゃんと見てくれな」
「あ……はい」
ぼくには状況が理解できなかった。先生と別れ、1―Bの教室に入ったとき、その意味が理解できた。
そこには、黒木君がいた。でも昨日までの黒髪と眼鏡ではない。今日は髪を真っ赤に染めて立たせ、眼鏡は外していた。あまりの変貌ぶりに言葉を失った。
でも、今日の黒木君の方がカッコいい。初めて見たのに、黒髪より馴染んでいるように見えた。
黒木君はぼくに気づかずに、あくびをしながら部屋を出ていこうとしていた。
話し掛けるなら、今しかない。このチャンスを逃したら、次はいつになるだろうか。時間が経つにつれて話し掛けづらくなってくる。だから、今しかない。
ぼくは勇気を振り絞って、黒木君を呼び止めた。
「あ…っ、あのっ……」
ほとんど擦れた声が出た。ドアのところで黒木君が振り返った。いかにも「何だよ」という顔をしながら。
「……黒木耀君ですか?」
そんなことわざわざ聞かなくたって黒木君は黒木君って知っている。ぼくは顔に熱が集まるのを感じた。
じっとぼくを観察した後、黒木君は口を開いた。
「……ああ、そうだよ。君は?」
「ぼくは春日井冬夜です。黒木君と同じ保健委員です。あの…っ、よろしくね」
ぼくはテンパって早口になってしまった。憧れの人と会話で、緊張して変な汗をかいている。
そんなぼくを見て、黒木君はニッと笑った。少しだけ緊張が解けた。
「……ん。春日井君、取りあえず敬語はやめようね。俺そんな柄じゃないから」
「あ……すみません」
「……ほら」
「あ、……」
黒木君は面白がるように笑い、おいで、と言った。
「…取りあえず行こうか。保健室に」
「……はい…あ、…うん」
ドア付近で待つ黒木君のところへ行き、隣を歩いた。保健室に行って器具を持ち運んでいる間、ずっと他愛ない会話をした。話をしていくうちに、黒木君はヴァイオリン専攻だと知った。近づきがたい雰囲気とは反対に、話しやすい人で、ぼくはすぐに仲良くなることができた。でも、何となく敬語で話したくなってしまう。黒木君が発する圧倒的な何かが、タメ語でしゃべることを躊躇わせてしまう。
保健委員の仕事が終わったら、ぼくらは教室に戻った。黒木君は自分の席に座ったとたんに寝ていた。
SHRが終わり、身体測定が始まった。まずはジャージに着替えるために更衣室に向かわなければならない。黒木君と一緒に行こうと思ったが、黒木君は隣の席にいる人と何かを言い合っていて、なかなか話し掛けられなかった。
終わるのを待とうと、ぼうっとしていたら、いつの間にか2人は教室を出ていこうとしていた。だからぼくは慌てて黒木君を呼び止めた。
「あ…っ、あの…っ一緒に行ってもいいですか?」
こういうのを頼み込むときは、勇気がいる。ぼくはまた顔が熱くなるのが分かって、恥ずかしかった。断られたらどうしようと思ったが、振り返った黒木君は、ぼくを確認するとにっこり笑った。
「ああ。もちろん」
心の中でホッとしたのはつかの間、黒木君の後ろにいた人が眉間を寄せ、再び彼らは言い争いみたいなことをしていた。ぼくはどうしたらいいか分からず、2人の言い合いを傍観していた。
「さ、行こう、冬夜。こんなやつ置いといて」
話に決着がついたのか、黒木君はため息をついてぼくに話を振った。もう1人の人は、恨めしそうにぼくを見ている。誰が見ても平和な状態じゃない。
「……でもっ」
「いいのいいの。お坊ちゃまは嫌でもついてくるから」
おろおろしているぼくの手を、黒木君はむんずと掴んだ。ぼくはそのまま手を引かれて更衣室に向かった。こういちよりほんの少しサイズが小さくて、冷たい手だった。
更衣室の道中、誰かが黒木君を呼び止めた。その人は格好がチャラチャラしていて、見るからに軽そうな男だった。その人がやってきたことによって、4人で行動することになった。黒木君は来るもの拒まずな性格なのか、誰と一緒でもポーカーフェイスのままだ。笑顔になることはまずない。
少し、不思議だった。
しかし、その黒木君が、更衣室を目の前にしたとき、一瞬立ち止まり、表情を乱した。どうしたんだろうと、黒木くんの視線の先を探したら、そこには、黒木君とそっくりの人が立っていた。
もう一度黒木君を見てみたら、その人を凝視して、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。今まで貼り付いたような無表情だっただけに、少し心配になる。
「…大丈夫ですか、黒木くん」
僕の声に、黒木君は動揺しながら振り返り、答えた。
「…あぁごめん、平気」
「そのわりには顔が青いですよ」
文字通り、顔面蒼白だった。
「何でもない。たいしたことじゃないよ。行こう」
黒木君は薄く微笑み、唇を結んで前を向いた。黒木君のそっくりさんは逃げるように去っていった。
更衣室での彼は茫然としていて、僕の呼び掛けにも生返事をするだけだった。その傍ら、お坊ちゃまとチャラチャラした男子は呑気に喧嘩し始めた。主に黒木君を取り合うような内容だ。
「……何だよ、お前、耀となれなれしくしてんじゃねーよ。耀は僕が目をつけたんだから」
「何だと、1番初めに声を掛けたのはオレだぞ。そっちこそ何だよ、お坊ちゃん」
2人を見ていられなくなって仲裁に入ると、4つの目にギロリと睨まれた。
『うるさい、チビ』
「チビって……何で皆そんな風に……」
気にしていることをズバッと言われ、泣きたくなった。涙をこらえていると、お坊ちゃまと言われた人がさらに言い連ねる。
「だって、チビだろ。お前みたいな平凡なやつ、耀がよく付き合ってるな」
「う、うるさいっ」
本当に泣きたくなった。でも泣いたら負けだと、お坊ちゃま君を睨み付ける。一瞬でこの人が嫌いになった。
「……おいおい、それは言いすぎだぜお坊ちゃん」とチャラチャラしたやつがフォローするけれど、お坊ちゃま君は辛辣な言葉を言うのをやめない。ぼくは悔しくて涙が出て、黒木君に助けを求めようとしたら彼はそこにいなかった。おそらく、ぼくらの喧嘩に付き合っていられなくなって先に行ったのだろう。ぼくも2人を置いてその場から逃げ出した。
「黒木君ー…!」
体育館に行くと、黒木君は上靴を履きかえているところだった。その周りには、遠巻きに黒木君の様子をうかがっている女の子たちが見えた。ぼくはその子たちが見ている中だったけれど、黒木君に抱きついた。
「……どうした」
「何で先行くんですか……ぼく、あの2人にいじめられて……ヒクッ……ぼく特に、黒メガネの方嫌いっ!」
黒木君の胸で泣いていると、黒木君はぼくの背中をやさしく撫でてくれた。
しかしそれもつかの間、先ほどの2人が怒鳴りながらやってきた。
「あっ、チビっ、抜け駆けしてんじゃねーよっ」
チャラチャラしたやつが大声を上げるのを聞いて、僕は肩をビクッと震わせ、黒木君の後ろに隠れた。「………ったく、チビのクセに逃げ足はえーんだから」とか何とか罵声が聞こえた。
黒木君はため息をつき、仲裁に入る。
「……やめないか。くだらないことで大騒ぎするんじゃない」
『くだらなくない!』
黒木君以外のぼくら3人はハモった。要は皆黒木君のそばにいたいのだ。
後ろでぼくが縮こまっていることを察したのか、黒木君は至極優しい口調でぼくを庇ってくれた。
「……取りあえず、冬夜を泣かせんじゃないよ。お前らと違って繊細なんだから」
ぼくは頼もしい黒木君に胸がドキドキした。その後もチャラチャラ男とお坊っちゃま君はぼくに対して辛辣な言葉を浴びせてきたが、黒木君はそれらからすべて守ってくれた。
本当に、こういちといるときみたいだ……。
黒木君はため息をつき、後ろを振り返った。
「さ、冬夜、この2人は置いといて、早く中入ろう」
そう言いながら黒木君はぼくの頭をぽんぽんと叩き、肩を組んできた。
「うん……ヒクッ」
ぼくは慰めながら黒木君と体育館の中に入った。
黒木君がいてよかったと思う。そして友達になれてよかった。あの時、勇気を出して話しかけられて、本当によかった。
その後は自分の身体測定をする傍ら、黒木くんと保健委員の仕事をこなした。ぼくらは身長計を任され、黒木君が生徒の身長を計り、僕はその隣で記録をとった。
黒木君はやっぱり優しい人で、身長のことをバカにしなかった。優しいけれど、知れば知るほど謎をたくさん持っている人物だと分かった。出身地を聞くと曖昧な回答をされるし、その他の質問も答えないか流されてしまうかだった。極めつけはこれだった。
「黒木君、兄弟はいるんですか?」
何となく聞いてみただけだけれど、一瞬黒木君は悲しそうな顔をし、苦しそうに笑った。
「いるよ」
後は聞かないで、というような雰囲気を出して黒木君は黙り込んだ。その様子は大きな傷の痛みを自分の手で癒しているように感じられた。あるいは痛いのをじっと我慢しているようにも見えた。ぼくは聞いてはいけないことを聞いてしまったのかな、と後悔した。
黒木君はしばらく沈黙していてなかなか話しかけられなかった。ぼくは頭の中でそのことがぐるぐるして、今後はその件には触れないようにしようと思った。
「……冬夜、靴ヒモ」
「はい?」
「靴ヒモほどけてる」
ふと黒木君に言われた通り自分の足元を見れば、右足の体育用シューズのヒモがほつれていた。ぼくは慌てて結び直してありがとうを言うと、その時には黒木君はいつもの彼に戻っていた。内心ホッとした。
「……あ、そうだ」
体育館の中央で黒木君と2人で立っているとき、ぼくはあることを思い出した。黒木君は眉を上げて、何? と言いたげな顔をした。
「……黒木君、実技テストの伴奏って誰に頼むか決まりました?」
実技テストとは、専攻楽器のテストのこと。ぼくらピアノ以外の楽器をやっていると、大抵の曲は伴奏が必要になる。その伴奏の相手を探すのに、誰かと行きたいと前から思っていた。
「……まだだけど…」
「…ですよね。今度一緒に回りませんか?」
「……どこに?」
「音楽棟です。練習している人の演奏とかが聞こえてくるし、パートナー選びに少し参考になるかなって思うんです。人の演奏をなかなか生で聞く機会ってないし、盗み聞きみたいになっちゃうけど……」
自分に合う相手を探すのは大変だ。だからこそ、しっかり選びたい。
黒木君はOKしてくれるかな……。
しばらくの沈黙の後、黒木君は首を縦に振った。
「……ああ、いいよ」
ぼくは嬉しかった。また、黒木君と一緒にいられる口実ができた。
「じゃあ、来週の月曜の放課後に回りましょう。こういうのって、早め早めに行動していないと、いい人を誰かに取られちゃいますから」
黒木君は、そうだな、と相づちを打った。