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「……」
手元の携帯には、驚くほどの数の不在着信があった。
その数、20件。
全部冬夜からだ。
余程電話したかったのか、10分おきにかかってきていた。でも諦めたのか、20回目の後はかかってきていない。
あいにく俺は、昨日は推薦入試で、携帯電話は必要ないだろうと始終電源を切っていた。そして家に帰ってもそのままで、今日の朝になって電源を入れたのだ。
こんなに電話したがっていたのに、悪いことをしてしまったな。冬夜は寂しがり屋だから、俺がいなくてつらかったのかもしれない。
俺はいつもより家を早く出て、少し歩くが冬夜の家に出迎えに行った。インターホンを押せば、冬夜は家から出てくるなり俺に飛び付いてきた。
「こういちっ……」
その声は震えている。俺は顔の下にある冬夜の頭をやさしく撫でた。
「おはよう、冬夜」
全身で「寂しかった」ことを表す冬夜は、俺にへばりつく力を強めて、顔を俺の胸に埋めた。
「こういちっ…」
冬夜はくぐもり声で、寂しかったと叫んだ。俺はその背中をさすってやった。
「そんなに寂しかった?」
「うっ…も、こういちと、離れたくないっ…」
「泣くなって」
俺は嬉しいの半分、困った半分で笑いをこらえた。
「そんなに寂しかったんだ……高校生になってからが大変だな」
「うる、さい……だって本当に寂しかったんだもんっ…こういちがいないとぼく死んじゃうよ」
冬夜はサラッと言ったが、無性に嬉しい言葉を聞いた気がする。胸がざわざわした。
「嬉しいなあ。そこまで言ってくれると」
こんなに想ってくれるから、海外になんてますます行きたくなくなる。というか行けない。
「ねぇ、こういち…」
冬夜は俺に抱き締められながら、顔を上げた。目はウルウルしていて、下瞼は少し赤くなっている。頬は白い肌に一滴の朱を加えて薄くのばしたように、ほんのりと色づいている。
これを可愛いと言わなくて何と呼ぶ?
普段ならここで唇を奪うところだが、まだ冬夜の話が終わっていない。俺はこういち…の後が聞きたい。
「ずっと……一緒にいてくれるよね?」
心を甘く突き刺す言葉。一抹の後ろめたさを感じたが、俺はその後冬夜を強く抱き締めてしまうほど、嬉しかった。
絶対に日本に残ろう。
親が何と言おうと。
「くる、しい…」
冬夜が俺の腕の中でもがいても、敢えて離さない。
冬夜が好きすぎるから。
「力、強っ……離してっ」
「離れないよ。ずっと、おまえと一緒にいる」
「…こういち?」
俺は力を緩め、見上げてくる冬夜と見つめ合った。
「俺はおまえの傍にいるよ」
親の仕事なんて関係ない。
学校が違うとか関係ない。
性別を越えて、好きになってしまったおまえと、ずっと一緒にいるよ。
「こういち!!」
冬夜は満面の笑みで、その細い腕を俺の背中に巻き付け、ぎゅっと引き寄せた。意外と力が強い。
「大好き!!」
冬夜は嬉しそうに言う。絶対にその笑顔を手放したくない。
「ああ、俺も大好きだよ」
喜びに感極まっていると、目の前の家の玄関がカチャリと少しだけ開いた。誰が覗いているのかと思えば、冬夜の母親だった。
「あ、のー、……イチャついてるとこ悪いんだけど…」
冬夜の母さんはドアから顔を出して、好奇心丸見えのニタニタ笑いをしていた。
「あなたたち、時間よ?」
ハッとなって腕時計を見れば、SHRまであと数分というところだった。一体俺たちは、どれくらいの時間抱き合っていたのだろう。
「これはヤバいな……冬夜、走るぞ!!」
「うん!」
冬夜は母親から荷物を手渡され、俺たちは冷たい朝の空気を切って走って走って走りまくった。何とかギリギリ間に合ったが、その後の疲労(特に冬夜)はただならぬものだった。
その日から約2週間後、俺は職員室に呼ばれ、合格内定の通知を受け取った。俺はとりあえずほっとした。冬夜に知らせたら、「よかったねこういち!!」と俺に抱きつくくらいとても喜んでくれた。
高校に合格してしまえば、親の意見を拒否する口実にもなる。
その通知を家に持って帰り、母親に伝えると、非常に複雑な表情をされた。本当だったらここで喜んで欲しいところなのだろうが、俺は別にいい。それが俺の親だと割り切っているから。
「父さんに…連絡しなくちゃね…」
そう言って家の電話を掛け始めた母さんの顔は暗く沈んでいた。
俺はあと少しで勝利がつかめることを悟り、母さんの落ち込む姿を見て、気分が高揚していった。
母さんは電話で父さんと何かを話し込んだ後、
「はい、こういち、代わりなさい」
とまるで俺が敵であるかのように、突き刺すように睨みながら受話器を押しつけた。俺は悠然とそれを受け取り、耳に当てた。
久しぶりの父さんとの会話だ。少し緊張する。
「もしもし…」
『もしもし。晃一か』
「はい」
父さんがこんなに図太い声をしていたか、記憶は定かではない。最後に会話したのはいつだったか……少なくとも、ここ1年間はしていなかった気がする。
『お前、日本の高校に合格したそうだな』
「はい。まだ内定ですが」
『ああ。……内定なら、それを取り消すこともできるんだな?』
父さんがニヤリと笑ったのが、声の調子で分かった。
俺は血が逆流するかと思った。
「……それは、どういう意味です」
『晃一。どうしてもこっちには来たくないか』
「行きたくないと何回も言っているでしょう」
『だがな、晃一。お前は頭がいいのだから、こっちへ来て文化の違いや環境の違いを乗り越えて、勉強に励み、沢山のことを吸収できると思うんだ。お前には日本なんかにいないで、ぜひこっちに来てほしいんだ』
「…嫌だと言っているでしょう」
親と言えば子供の気持ちを考えない生きものだ。
怒りが腹でぐらぐら煮えている。俺は爆発しないように、声のトーンを落とし、気持ちを制御した。
「父さんは俺を買い被りすぎです。それほどできる人間じゃありませんよ、俺は」
『いいや。お前には素質がある。陸上だってそうじゃないか。お前はこれからどんどん伸びる。私はそんな日本のどこにあるか分からないような学校で、どこの馬の骨だか知らない能力の低い連中と過ごして欲しくはないんだよ』
父の言葉は俺を逆上させるには十分だった。俺はこれまでにないくらいにキレた。キレて、言ってはいけないような言葉も怒りにまかせて吐いた。当然、俺たちは、もう親子の縁を切ると言いたくなるまで大喧嘩になった。
だって俺は白優高校を目指して一生懸命頑張ってきた。白優高校は勉強の方面でもスポーツの方面でもそれなりに名の知れた高校で、倍率は高い。白優高校に合格したとなれば、大抵の親は鼻が高くなる。それくらいの学校なのに、父親には激しくけなされ、今までの努力を否定された。確かに父さんが言うとおりエリートが通う学校ではないが、推薦合格という、非常に喜ばしい結果を持ち帰ってきたというのに、親からは落胆のため息をつかれる。そればかりか、日本の高校になんて行くなと叱責された。それに俺の大切な人まで侮辱した。
ここまで言われたら、抑えようと我慢していた怒りだって爆発する。
親は何もわかっていないんだ。
別に誉められなくても喜ばれなくてもいい。俺はそんなことは望んでいない。代わりに何も言わないで欲しい。黙って白優高校に行かせて欲しい。そして、努力して手に入れたものを奪おうとしないで欲しい。その努力も否定しないで欲しい。
今まで俺を放っておくだけ放っておいて、使える駒だと分かったら大いに利用しようとする。……腹が立つ。親の汚いやり方は腹が立ってしょうがない。
そんなやつに親の顔をされたくない。
「俺は誰が何を言おうと日本に残ります!! そして絶対に親の元では暮らさないっ」
『生意気言うな。これはお前のために言ってるんだ』
「俺のためになってねえんだよ!! 何も分からないくせにっ」
『何だと!? 私はお前の将来を見越して言っているんだ。少なくともお前よりは物事を分かっている』
「違うんだよっ、もういい、親父とは話にならねえ!!」
『親に向かってその口の聞き方は何だ』
「俺はアンタを、一度も親と思ったことはねえよ!」
『………何だと…!?』
「アンタは、俺の何が分かっていると言うんだ。ああ、俺の将来を絶対的にする方法なら嫌と言うほど知ってるかもしれない。でもそれは他の人物でも応用がきく。俺のことを知っていることにはならねえよ!!」
俺は言い捨てるように叫び、はあはあと荒く息をついた。
『お前を、親に向かってそんな口をきくように育てた覚えはない!』
父さんも、大声になる。
「育ててないじゃねぇか……父さんは俺が小さいときからいなかったんだからっ……母さんがそれを言うならまだ分かるけど、父さんは俺の何が分かってんだよ。知らないだろ? 俺が中学でどんな生活を送っているのか。長年俺を放っておいたくせに、俺のことを語るなよっ……」
心の底に静かにたまっていたヘドロのような感情は、少しずつ掘り起こされて、俺の心を憎悪で濁す。それによってヘドロの下に抑えられていたものも、露になる。
放っておいたなら、もうずっと放置しておけよ。俺もその中でやりたいようにやるから。
大切な仲間。主に陸上部の奴らだが、スランプの時に支えてくれた。そして、苦労して入った高校。推薦といえど、それまでの努力は自慢できると思う。そして、大事な人。互いに高め合い、励まし合える、俺にとってかけがえのない人間。その人は俺に「好き」という気持ちを教えてくれた。
どれも親に放置されていた時に見つけたんだ。そういった存在を軽視して欲しくない。ほとんど関わりのない人間に、俺の人生を横から口出しされたくない。
俺はその後も暴言を吐き、生まれた時から言いたかった事柄を全部吐き出した。父親はその酷さに言葉を失ったのか、言い返してこなくなった。
憤然と受話器を置いた時には、話を初めてから1時間が経っていた。
俺はやさぐれた気持ちになって、苛立ちが募っていた。どこにも発散できないので、夕方の暗い中だったが、ランニングしに出かけた。走って走って、それこそ全力疾走して、死んでしまうと思えるほど走った。
次の日の朝、冬夜と一緒に登校する。
冬夜ももうすぐ入試がある。本人は特別焦っていたり取り乱していたりする気配はなく、どうやら自信に満ちているようだった。俺は安心した。
「ねぇ、こういち……」
「ん」
「入試…こんなに気持ちに余裕を持って臨めるなんて……こういちが支えてくれたおかげだよ」
冬夜は俺の手をきゅっと握ってきた。不意討ちに俺はドキッとした。今まで1度も手など握ったことはなかったから。
「……そんなことねぇよ。それは冬夜が今まで頑張ってきたからだろ。俺はただ見守ってただけだし」
「ううん。それが支えになったよ。……傍にいてくれてありがとう」
照れながら言う冬夜は、いじらしくて可愛かった。俺はたまらなくなって、細くて暗い路地に連れ込み、冬夜を抱き込んでキスをした。
「ん、ん、ふ」
いつもよりやさしい口付けだったにもかかわらず、冬夜は甘い声をちぎれちぎれに出し、頬をリンゴみたいに赤く染めていた。
「こういち……」
冬夜は潤んだ瞳で見上げてくる。その頬を片手で包み込んだ。
「ごめん、手ぇ繋ぐとか、結構嬉しくて」
「こういち…」
「何」
気付けば、冬夜は俺を観察するような目で見ている。訝しく思って見つめ返していると、冬夜は俺の顔に手を伸ばしてきた。
「こういち、昨日何かあったの?」
「……え」
「ここ……」
冬夜は親指で、俺の下瞼をなぞる。
「隈ができてるよ」
俺は慌てて自分の顔に手をやった。そんなことをしても、隈ができていることは分かるはずもない。
「……どうしたの?」
尚も冬夜は聞いてくる。その真っ直ぐな眼差しに、俺の心はぐらぐらと揺らいだ。
「何かあったら、聞くよ?」
「冬夜…」
「あんなに白優高校に入って嬉しがっていたくせに、今はくたびれてて全然笑ってないよ? ご両親と何かあったの?」
こいつ、いつもぼーっとしていて間抜けなくせに、人の繊細な感情には敏感だ。俺は目を閉じた。
「んー…冬夜は心配しなくていいよ」
ニコッと微笑んで誤魔化しても、千里眼となった冬夜には通用しなかった。
「心配しちゃうよ。こういちはぼくの大切な人なんだから。誤魔化そうとしないで、言って?」
「……冬夜の受験が終わったら言うよ」
「やだ。いつもそうやって、聞くの忘れちゃうから今言って。気になって受験に集中できなくなっちゃうよ」
「だって、これを言ったら、冬夜、おまえ少なからずショックを受けるかもしれないんだぞ。それで受験に失敗したとか嫌だからな」
「絶対そんなことない。ぼく、フルートと日常生活はなるべく分けるようにしてるから。だから、言って? こういちに支えてもらった分、ぼくもこういちの支えになりたいんだよ」
今日の冬夜はしつこく食い下がってくる。そんなに、俺の顔が変だったのだろうか……確かに、今まで1度も隈などは作ったことはないし、血色もいい方だった。
今日は冬夜が大いに心配するほど疲れているように見えたのだろうか……?
「……分かった。言うよ。昨日親と喧嘩したんだ。初めてね」
「初めて? 喧嘩したことなかったの?」
「ああ。喧嘩しようにも、親が家にいなかったからね」
「ふーん……で、どうして喧嘩になっちゃったの? 推薦もらってきたのに?」
俺は大きく息を吸った。そして、冬夜をねめつけるように見つめた。
「俺、もしかしたらおまえと一緒にいられなくなるかもしれないんだ」
冬夜は目を見開いた。