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「何でだよ!!」
何で、何で。
「俺は、絶対嫌だ」
「だからね、晃一…、私、仕事で海外に飛ばされることになってしまったのよ。分かって?」
「それは分かったけど…、それで何で…」
「だから、私、父さんと向こうで住むことにしたの。晃一も一緒に来ないかって言ってるだけじゃない…」
「俺は絶対に嫌だよ」
日本を離れ、海外に住むなんて……。
だって、そうしたら、冬夜と離ればなれになってしまう。せっかく、思いが通じ合って幸せになったのに…。
「…よく考えておいて。父さんだってきっと、あなたとの時間を過ごしたいはずよ」
何を今さら。
今まで散々放っておいて、よくそんなことが言える。
俺はもう父さんなんていないに近い。だって、どんな顔だったかも忘れたし。
父さんや母さんは、やっと手に入れた幸せを、奪う気でいるのか……?
「その時は、多分、高校に入ってすぐに向こうに移ることになるわ。大丈夫、学校の手続きは私たちがするから。海外でもきちんと学校に行けるわよ」
「…俺は、日本に残る」
海外なんて断固拒否だ。国内の遠恋だって続かないカップルは多いのに、ましてや国外なんて……どれだけ辛抱しなければならないんだ。
あの柔らかな笑顔に触れて、あのなめらかで優しい声にさえずられて、あの小さくて可愛い姿を見て、傍にいさせて、俺はやっと生きていけるというのに。
冬夜なしの世界なんてあり得ない。例え親と離ればなれになっても、冬夜と過ごす方を選ぶ。長年俺を放っておいた親と一緒に暮らすなんて…おぞましくて鳥肌が立つ。しかも冬夜がいなかったらその場所では生きていけないだろう……。
「俺は、日本の高校にいくんだ」
「やっぱり、…やっぱりだめ……? 私たちと過ごしたくない…?」
「ああ。それにさぁ、俺、入試2か月前なんだよね。受験に向けて一直線にやっているのに、何で途中で水を差すようなことを言うんだよ」
「それでも……私たちはあなたと過ごしたいのよっ」
「俺は嫌だね。息子の努力を台無しにさせようとする親は。とにかく、高校のうちは海外に行かない」
誰に何を言われようと。
ずっと入りたかった高校だし、運動部のレベルの高さといったら、周辺の高校と比べ物にならない。絶対に入ってやると意気込んでやってきたのに。
俺はリビングを出て、2階に上り、自分の部屋に入った。部屋に入っても、憤りや驚きは収まらない。どうにかならないものかとベッドにドサッと音を立てて座る。
それは、約30分前のこと。
珍しく母親が家にいて、話があるからと部屋に呼び出された。行ってみれば、母親は深刻そうな顔をして言った。
「私、海外に赴任することになったの」
だから晃一も一緒に海外に住みましょう、海外と日本で親と子が別々に暮らしているのは効率が悪いことだし、あなたが病気になったり怪我したりしたら親としても心配だし。何しろあなたとの時間を過ごしたいからね。………爺や? 爺やにはまた違う仕事を与えるわ。……それより大切なのは、あなたが私と海外に出ることよ……。
何で。
何でそんなに急に言うんだよ。俺は受験シーズン真っ最中だぞ? そんなことを言われたらやる気をなくしちゃうじゃないか……。
それに、やっと大切なものを手に入れたのに、むざむざ手放すなんて真似、できるはずない。
俺は募った苛立ちを母親にぶつけて、部屋を出たというわけだ。ろくに話も聞かないで。
俺は日本を出るつもりはない。これっぽっちもない。猫の額も、鼠の額もない。ないものはない。しかし、もし万が一、海外に行くことになったら、どうしよう…。あり得ないことではない。俺が拒否しても、受け入れられない可能性だってある。
こんなに親を恨んだことはなかった。今までどんなに放られても、別に気にしなかった。
しかし今度ばかりは違う。激しい怒りが腹の中で煮え繰り返っている。
今、冬夜の声を聞きたい。
俺は勉強机に無造作に置いてあった黒い携帯を手に取り、開いて電話帳で冬夜の名前を探す。すぐに見つかった。迷わずに、通話ボタンを押す。
7回目のコールの後、やっと繋がり、『もしもし…?』と愛しい人の声がした。
「冬夜っ……」
おまえは何て言うだろうか。
俺がいなくなったら。
『何? こういち』
事情の知らない冬夜の声は、極めて明るい。その声を聞いたら、ますます心が暗くなった。
「冬夜……、例え話なんだけど、」
『うん』
「俺がさぁ、……もし何らかの理由でいなくなったら…どう思う?」
しばらくの間、緊張した沈黙が流れた。
『それは……どういう意味?』
電話の向こうで訝しげに聞いてくる。俺はその顔が目に浮かんだ。
「…そのままの意味」
『そのままの意味って……ぼくは嫌だよ…こういちがいなくなっちゃうなんて…悲しいし、淋しいし』
俺はほっとした。その言葉を聞いたら、煮え繰り返っていたものがすっと収まった。それと同時に歓喜で踊りだしそうになる。
「やっばり……そうだよな……」
健気な冬夜に安堵してしまう。この人だけは絶対に俺を裏切らないと、確信できる。
よかった。
冬夜がいてよかった。
『どうしたの? 何かあったの?』
「ううん…何でもない。それよりごめんな、突然電話かけて。練習してた?」
『大丈夫だよ。今休憩中だったし』
「そうか…それじゃあ、明日な」
『うん……』
切ろうとした間際に、スピーカーから、こういち!! と大声で叫ばれた。
「何?」
『こういち、何かあったらぼくに言ってよ? つらい事でも何でも聞くからね?』
冬夜の必死さに胸が熱くなった。ますます好きになってしまう。
あの親とは正反対に。
「ありがとう。でも大丈夫だから、電話切るな? 練習頑張れよ」
俺は名残惜しかったが、受話器を耳から外して携帯を切った。そしてそれをベッドに放り投げ、ついでに自分の体も一緒に投げ出した。
俺は怒りの方はすっかり収まって、眠気が襲ってきた。
やっぱり、俺は海外なんて行かない。冬夜も淋しいと言ってくれたことだし、せめて学校に通う年齢の間は、ここにいたい。
冬夜に電話したことで、急にやる気が復活した。激しく拒否すれば、親も俺が日本にとどまることを許してくれるかもしれない。それを後押しするために、高校は絶対に受からなくてはならない。
そう考えたら眠気など吹っ飛んだ。そして勉強机に向かい、1週間後の模試のために勉強を開始した。
もしかしたら俺が海外に住むことになるかもしれないということはまだ冬夜には黙っていよう。なるべく心配とかそういうものは掛けさせたくない。入試には一番いいコンディションで臨んでもらいたい。
その後、親には何度も留学の手続きをしてやると言われたが、俺はそれを無視して受験勉強に励んだ。受験間際になれば、親も諦めたのか、もう何も言わなくなった。俺はしめたと思って、内心晴れやかな気分になって受験の日を迎えた。