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土曜日。ぼくは家の鏡の前で服を着替えていた。
一応恋人のこういちとデートするのだから、気張るまではいかなくてもきちんとした格好をしていきたい。
「冬夜ー、それじゃ今日は何時に帰ってくるの?」
部屋を覗いてきた母さんは、そう言いながらプッと吹き出した。
「…何がおかしいの母さんは」
「いや、気合いが入ってるなってね。またこないだ海に行ったときの子と?」
「…そうだよ」
「しっかりしているわよね、あの子。あんたがホテルでぐうぐう寝ている間に、うちにちゃんと電話してきてくれたのよ。それにあんたが腑甲斐ないからって家まで送ってくれたしね。同年代とは思えないわね」
「何だよ、さっきから。何が言いたいんだよ」
「言っていいことなのかな?」
「言って悪いことを言う気?」
「じゃあ言うけどあんた、あの子に惚れてるでしょ」
「…っ!!!」
衝撃的な言葉だった。心臓を思い切り蹴られたかと思った。全身の血液の流れが目まぐるしくなる。
何で母さんは知っているんだ…。言った覚えも、そういう身振りも見せたことないのに……。
「そんなこと分かるわよ。何年あんたに付き合ってると思ってるの」
「……15年です…」
「恋愛に疎かったあんたが、いきなり色気でてきたから、これは恋だなって思ったのよ」
「い、色気…」
そんなにぷんぷんしていたのだろうか? 自分は自分を客観的に見られないとはまさにこのことだと痛感した。
「そうよ。色気づいてきたわ。でもあんたの周りに女っ気がないのは変わりなかったから、思い違いかなって思ったこともあったの。だけどね、あんた、気付いてた? 食卓でする話は、いつもその子のことばかりなのよ」
「え!」
驚いたぼくに、母さんはニコッと微笑んだ。何か、意地悪そうに。
「気付いてなかったようね。とにかくそれで悟ったわ。冬夜はその男の子に恋していると」
ぼくは頭がくらくらしてきた。母さんがそんなことを思っていたとは知らなかった。拒絶されたらどうしよう……。「もうあんたは家の子じゃない」と追い出されたらどうしよう…。
「かあ、さん……何か普通に喋ってるけど、ぼくのこと、気持ち悪くないの?」
「何が?」
「…だってさ、いくら理由をこじつけても、ぼくらのは同性愛じゃん…親として、悲しくなったりしない?」
「なーに言ってんの」
母さんはぼくの頭をぺし、と叩いた。その瞳はやさしい。
「冬夜がそれで幸せなら、いいのよ。男も女も、本当に分かり合える相手にはなかなか巡り合えないから。だから、もし同性でもそういう相手に出会えたなら奇跡、私は絶対に否定しないわ。父さんはどうだか知らないけどね」
そうか…父さんはおそらく反対するのかもしれない。というか、9割方反対するに決まっている。あとの1割はしらないけれど。でも身内で、しかも母親が味方になってくれることは嬉しかった。大きな強みになると思う。
「ありがと…うん、ぼくこういちのこと好きだよ…大好き…」
「いきなり告白しないでっ…照れるわ」
「…あ」
「そういうことは本人に言うものよ」
「こないだ言った…」
「まあ」
母さんはニヤニヤしながら顔を手で隠すふりをした。数秒して、ぼくは自分で失言したことに気付いた。
は、恥ずかしい…っ。
「も、もう分かったでしょ? 母さんはあっち行ってよ! いろいろ準備しなくちゃなんないし……」
「ふふ、そうね」
「…あ」
「何?」
「ちょっとまだ行かなくていいや。何で母さんは平気なの?リアルな…ほ…ホモだよ? ぼく…」
「聞きたい?」
「うん…」
「そう…」
母さんは妖艶に目を伏せながら、ぼくの耳元にそっと言葉を吹き込んだ。
――……私、実は腐女子なのよ…ほほほ…――
ぼくは一瞬思考が停止しかけた。いや、した。ぼくの目の前でニコニコと微笑む母さんの顔を、茫然と見つめていた。
「腐…じょ…!?」
「子よ。父さんにも言ったことないわ。だから、そういうの慣れてるの。うふ」
ちょっと待って母さん…今までぼくら男をそんな目で…?
腐女子と呼ばれる部類の人がこんなに近くにいるなんて…世界は狭い。…いや、そんなんじゃなくて! 結構ショックを受けた。母さんにそんな嗜好があったなんて…。
でもぼくもぼくで人のことが言えないな。そんなぼくを笑って受け止める母さんは、すごいたまをしていると思う。…たまはないけれど。
「母さん」
「何?」
「とりあえず、鯖を読むのはやめてください。あなたの年だと貴腐人です……」
「あら、そうね。いつまでも気分は少女だから…」
「……さいですか…」
「でもまあ、これでお互いの弱みを握ったわね。誰にも言う気はないでしょ?」
母さんの台詞の語尾にはハートマークがつきそうだ。
「ないよ。さらさら。っていうか今度こそあっち行ってください。ぼくあともう少しで家出るから」
あらーラブラブねー、と上機嫌な母さんを部屋から追い出して、ぼくはカバンの中に詰めるものを用意した。財布、携帯……意外と少ない。
玄関先で靴を履いていると、母さんが「そうそう、あなた何時に帰ってくるの?」と見送りに来た。
「んーと…まあ、7時までには帰ってくるよ」
「そう。じゃ、行ってらっしゃい」
腐じょ…ではなくて、母親の顔に戻った母さんは、ぼくの背中を軽く押した。
「行ってきます!!」
ぼくは照れ臭さを感じながら、明るい光のなかへ飛び出した。
「…ていうことなんだよー…」
「よかったじゃん」
ファミレスの茶色いテーブルの向かい側に座るこういちは、カラカラとドリンクの氷をストローで掻き混ぜながら薄ら笑った。
「俺たちの仲を、許してくれる人がいて。俺も気が楽になるしね。でもまさか母親が貴腐人とは…」
「ダブルショッキングだったよ。こういちとの恋がバレたのと、母親が貴腐人だって分かったのと…。お互いカミングアウトしちゃったよねー……」
「でもいいじゃないか。それでまた、親子の関係が親密になって」
「よかったのかな…」
「ああ」
考えてみれば、良かったのかもしれない。ぼくらの関係を母さんには隠さなくてよくなったし、「貴腐人」の母さんはそういうことに関して「エキスパート」らしいから、相談もできる。
「俺は羨ましいよ。冬夜と冬夜のお母さんが。仲がよくていいと思う」
そう呟いたこういちの顔はどこか寂しげに笑っていた。
こういちは、親御さんとはあまり仲がよくないのかな…。
「…こういち? どうしたの?」
「ん。何でもないよ」
笑ってごまかすこういちを見て、何か心に引っ掛かった。問い詰めようとしたけれど、こういちが別の話を持ち出して来たので、うやむやなままになった。
「それより冬夜、何であの映画が見たいって思ったんだ?」
ぼくらは朝、待ち合わせして映画館に向かった。ぼくがどうしても見たい映画があったからだ。
そのタイトルは「呪縛」。ホラー映画だ。
「冬夜がホラー映画を好きなんて信じられないな」
「そうかな。面白いじゃない。日常にあり得ないシーンとかあってさ。話の内容は薄いことが多いけど」
「怖いとかは感じないの?」
「もしかしてこういちは怖いの?」
「こ、怖くねぇよっ」
「へーそう、怖いんだー」
「……何かムカつくな。そう言うおまえも怖くて最初から俺の手を握ってきたくせに」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「多分それはこういちを安心させるために握ったんだよ。大丈夫だよ、ってね」
「…おまえ手が震えてたぞ」
「……」
何故かこういちには口では勝てない。必ずぼくが言い返せなくなってしまう。もう、悔しい。
「…ちょっと怖いシーンあったかも」
「ちょっと? いやおまえ、途中俺の肩にしがみついてきたから」
「……」
駄目だ、今回は完全な敗北だ。負けを認めるしかない。
「……怖かったよ。すごく。でもね、怖い世界を体験できるのが楽しいんだ。恋愛ものとか歴史ものよりも、もっと心理的に追い詰められたりスリル感たっぷりだったりするから」
「何か…Mっぽいぞ」
「…うるさいっ」
「俺は個人的にドキュメンタリーとかがいいな。恋愛ものもいいと思う」
「…こういちはロマンチストだね」
「どうも」
午前中は映画を見て過ごし、終わったらちょうど昼ごはんを食べる時間になっていた。今は、ぐうぐうなるお腹を抑えて近くのファミレスに入ったところなのだ。
「あ、来た」
しばらくして、ぼくらが注文した料理であろうものを両手持ちにしたウェイトレスが、こちらにやってきた。「失礼します」と品のよい声でテーブルに料理を並べた。ぼくはパスタセット、こういちはステーキセットだ。
「いただきますっ!!」
ウェイトレスが去った後、ぼくらは背中にくっつきそうになっていたお腹に、食べ物を夢中になって詰め込んだ。2人とも食べることに集中していて、しばらく無言だった。
「……こういち、一口味見させて?」
こういちが食べるステーキがあまりにも美味しそうだったので、少々食べたくなってしまった。こういちは、いいよと言いながらナイフで肉をひとかけら切り、フォークでぼくの口まで運んだ。ぼくは身をのり出してステーキを食べた。
「あーん……んん、おいひい」
「それはよかった」
ジューシーな肉からたっぷりと肉汁がしみ出てきて、美味しい。香辛料の辛さも肉の味が引き立つ。
「冬夜のも一口いい?」
「うん、いいよ。どうぞ」
さすがにパスタは自分のフォークで食べてもらわないと危険なので、皿をこういちの方に押しやった。
「ん、んまい」
こういちは、簡単なコメントを残し、皿をぼくのところに戻した。
「それよりさぁ、冬夜」
「何」
「水族館行ったら…どっか寄ってかない?」
「何で?」
「おまえといちゃつきたいから」
ぼくは口の中のものを吹き出しそうになった。
「いちゃ……」
「最近じゃキスだってろくにしてないだろ。だから…」
ぼくの心臓は騒がしくなった。
「うん…」
「じゃ、俺んちに行くか」
「ん…」
「大丈夫、そんなに固くなるなよ冬夜。体に負担かけるようなことはしないから。でも冬夜の門限が7時なんだろ? 水族館行っただけじゃ時間が余るだろうと思ってさ」
「うん…そうだね」
かくして、ぼくはこういちの家に行くことになった。そのことが気になって、水族館で雄大な海の世界を見ていても、どこか上の空になってしまった。
だって、あの夏のように、またこういちの密着した体温を感じることができるんだ。ドキドキしながら、同時に不安にもなる。
水族館を出てこういちがふとぼくの手を握ってきた。「そんなに緊張しなくていいのに」と苦笑いするこういちを見て、ぼくの胸はいっそう高まるだけだった。