1
9月。夏も過ぎて、いよいよ秋本番。俺たち受験生は少しずつ緊張感が高まってくる。
と言っても教室にはまだ進学先を決めずに遊んでいる奴らもいる。呑気に授業を寝てつぶす者も少なからずいて、まだ本気モードには達していない。
俺はスポーツ推薦で入るつもりでいるから、日々勉強を重ねて成績を上げていた。1年の時も2年の時も、並よりも上くらいの偏差値だったから、まず校内推薦が取れるようにするためにも、学力を上げることは必要だった。
冬夜といえば、あいつはあいつで音楽の道を進むらしく、毎日寄り道せずに帰宅し、練習に集中している。あいつは一般入試だから、試験では学科も必要になってくる。涙目で勉強を教えてくれ、と俺にせがむものだから、学校にいる間は図書室を利用して勉強を教えた。最近の俺たちはまったく色恋事は持ち込まず、健全な付き合いをしていた。
「だから、そこは違うって。xが……」
毎日俺に怒られながらも冬夜は、弱音を吐かずに必死に勉強していた。どこへも遊びに行かずに、練習に勉強に一生懸命で、体を壊さないか心配になるくらいに。
「冬夜……おまえ少し息抜きした方がいいんじゃねえの?」
10月に入ろうとした頃、冬夜の顔のラインが少しシャープになったような気がした。
「そう…かな。ぼくまだ全然疲れてないよ」
「そういう人はね、本番直前にガクッとくるの。あまり根つめてやり過ぎないほうがいいと思うぜ」
「うん……」
冬夜は納得がいっていないという顔で頷いた。
11月になったら、周りの環境もいよいよ受験、とピリピリしてきた。俺は普段どおりに勉強に励んだ。また息抜きとして体を動かし、トレーニングを怠らなかった。
冬夜は心なしか顔色が少し悪くなってきている。本人はそれに気付いていないらしい。それならば、俺が休みを取らせるしかない。
「冬夜、今度の日曜デートしようぜ」
休み時間でも隣の席で黙々と勉強をしている冬夜に、俺は邪魔するみたいに話し掛けた。
「日曜? ……はダメ、レッスンが入ってる」
「じゃあ、土曜」
「土曜もダメ。ソルフェージュがほぼ1日入ってる」
「じゃあ、その次の週は?」
「次の週は……何もないけど、休日はたくさん練習したいし……」
「ならその日1日俺とどっか出かけよう。気分転換にね」
「え…でも……」
「大丈夫。そんなに毎日たくさん練習しているんだから、途中1日くらい抜けても大したことはないよ。逆に練習しすぎたときは、少し吹かないのもある種の手だからね」
「こういちも、そうしてるの?」
「ああ。練習してもどうしてもうまくいかなくてむしゃくしゃした時は練習をやめる。1・2日経ったらまた再開する。そうすると、前できなかったことが不思議と簡単にできてしまうこともあるんだよ。どうやら人間の体は、練習し過ぎると感覚がつかめなくなるものらしい…。たまに休むと、体の「感覚」も整理されてくるんじゃないかな」
ペンを止めて無言で聞き入っていた冬夜は、落ち込んだ顔をして下を向いた。
「うん…こういちがそうしているのならそうする……じつはぼく、最近フルートがうまく吹けなくて…毎日練習してるのに、頭で考えていることと指と口とが連動しなくて。練習すればするほど悪くなる一方で……ちょっと落ち込んでたんだ」
「……ああ」
「でもこういちも陸上で同じようなことを経験してそれを切り抜けてきたんだから、こういちの言ったとおりにしてみる」
こういちを信じる、と冬夜は縋るようにこちらを見てきて、俺は責任重大だなと戸惑いを感じた。
「んで、どうする? パーッと遊ぶ?」
気を取り直して、俺は話を続ける。
「…うん。でもゆっくりもしたい気分。あんまりはしゃぎ過ぎると疲れちゃうんだよね」
「何か…年寄りだな…」
「うるさいっ」
「でもそれが冬夜だから仕方がないか。水族館でも行くか?」
「んー…ぼく映画が見たい」
「体をまったく動かさないな。動かさないのも疲れるんだぜ?」
「ん…じゃ、映画やめる…」
「え、別に諦めなくてもいいぜ」
「何で?」
「ハシゴすればいいことだから」
冬夜はぽかーんと間抜け面をした。そんな冬夜も可愛いから、俺以外には絶対見せたくない。
「ハシゴ……? ぼくそんなにお金持ってないよ」
「大丈夫。その時は俺が払ってやるから」
「……そんなの悪いよ…こないだのホテルだって払ってもらったし…」
「あんなの俺が払って当たり前だろ。そのことは気にしなくていい」
「……何でこういちはそんなにお金あるの?」
冬夜の問い掛けに、俺の頬は強張った。
まさか親の愛と引き換えにだよ、とは言えず、代わりに苦笑いを作った。
「持ってるから持ってるの」
冬夜は不信に思ったのか、じとーと俺を見つめてくる。
「何か怪しい…」
「怪しくない。冬夜、おまえは俺が水商売でもしてると思ったのか? 残念だったな、俺はそんなことしてない」
「…よかった…」
「…本当に疑ってたのか」
「…だって、いつもこういちは簡単に「おごるよ」って言うし……そんなお金どこから出てくるんだろうって…」
「まあ、親の仕事の関係だね」
「こういちのご両親は、何をしていらっしゃるの?」
「まあ…いろいろ」
父親は建築士で、海外にいる。母親も母親でデザイン関係の仕事をしていて、2人ともあまり家には帰って来ない。小さいころからそうだったから、家に人がいないことはもう当たり前になっていた。
……でも、ひとりだけ家にいる。それは爺やだ。血縁関係はないが、俺の子守だかなんだかで、父親がずっと前から雇っている。両親が家に不在であるため、家のことは何でもしてくれているのだ。執事みたいなものと思っていいかもしれない。
おっかなくてあまり親しくない存在だったが、いつごろからか――多分俺が爺やの背を超えたときから――少しだけ話せるようになった。
それはともかく、両親はあまり構ってやれない代わりに、俺に毎月相当な額を手渡してくる。それで洋服など身の回りの物を買うようにということなのだが、はっきり言って余るくらいだ。「こんなにいらない」と何度も親に言ったが、「親の愛だ、受け取れ」と額を変えずにおしつけてくる。贅沢な悩みなのかもしれないが、そうやって毎月「小遣い」をしぶしぶもらっているのだ。
今はまだ中学生だから駄目だが、高校に入ったらバイトして親に頼らないようにしたい。
「…俺のことは心配すんな。おまえは俺の隣で幸せそうに笑っていればいいんだから」
俺を見つめていた冬夜は顔をみるみる赤くし、ぷいっと横を向いた。その肩は震えている。
「どうした? 冬夜…」
「この…」
「何だ?」
「もうっ! 学校でそんな恥ずかしいこと言わないでよ!」
「え…何で」
「無意識なら尚更言っておくけど、こういちは真顔でかゆいこと言ってるんだよ。ぼくもう……顔が火照っちゃうよ…」
「いいじゃん。そんなこと言えるのもお前にだけだし」
「それ、それだよ! サラッと言うから余計ドキドキする…」
「何が不満なんだ、冬夜?」
リンゴみたいに真っ赤になった冬夜は、うう…と可愛く唸りながら机に向かって勉強を始めた。俺は隙を見てそのノートをかっさらう。
「あっ!! もうっ」
予想外なことをされて冬夜は頭から湯気が出そうなほど怒った。その涙目になった顔も、もともと整った顔だから可愛い。
「やめてよっ」
「さっきも言っただろ。頑張りすぎはよくないって。それより冬夜は俺の何に不満なのかが最重要問題なんだけど」
「だから、恥ずかしい言葉を言うことだよ…心臓が壊れそうになっちゃうんだ」
「…何で心臓が壊れそうになるの?」
「だって、こういちがそういうコト言うから…」
「何でそう感じるの? 普通の人は気にしないぞ?」
「だって、…こういちにどう想われてるのかなって、些細な言葉でも伺えるし…そういうコト言われたら、心が敏感になっちゃうんだ…」
「つまりは?」
「こういちが好きだから……って、何で告白させるの!! もうっ!」
ほとんど半泣きで、ノートを奪い返そうと俺に乗り掛かってきた。俺は体を仰け反らせて、冬夜からノートを取られないように意地悪をした。
「冬夜、可愛い」
「だからもう…そうやって…」
俺の真上にある顔は今にも泣きそうだった。教室に誰も人がいなければ、ここで細い体をぎゅうっと抱き締めて、ゴメンとキスできるのに、と頭の中でぼうっと考えた。
「ごめんな、いじめすぎたね」
俺は素直にノートを返し、しょげる冬夜の頭を撫でた。伏し目がちにコクンと頷いた冬夜は、手にしたノートを机に置き、椅子に座ってぼうっとしていた。
「もう…勉強する気失せた…」
「…ごめんな」
「……許す。許す代わりに、ぼくを元気づけて。最近落ち込み気味だから」
「難題だな」
「当たり前だよ。ぼくをいじめた罰だもん」
「分かったよ」
…ということで、来週の土曜日に遊ぶことになった。遊ぶことになったのはいいが、果たしてそれが本当に冬夜の気晴らしになるのか分からない。でも、近ごろの冬夜は気を詰めすぎているから、やはり息抜きをさせないといけないと思う。それに、ふさぎ込みがちの心を少しでも解放して前向きにさせるのは、俺の仕事だと思う。
2人で志望校合格したいから。