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「冬夜ーっ」
もう浜辺に上がっているこういちが、ぼくの名前を呼んでいる。
気づけばもうお昼で、お腹が空いていたことに気づく。
ぼくは今朝こういちに教えてもらった泳ぎ方で浜辺の方に向かう。確か平泳ぎっていったっけ……楽チンだ。
こういちは浜辺でぼくを待っている。ぼくはそれを嬉しく思いながら、その姿を直視できないでいた。
なぜかというと、こういちがカッコよすぎるからだ。服を脱いだら筋肉質の美しい肉体が現れて、キラキラしている。反対にぼくのは薄っぺらで、見せるには恥ずかしい。
それに…こういちの裸を見ると、何か変に意識してしまうんだ。男同士なのに、別にたわわな胸をたくわえた女の人を目の前にしているわけでもないのに、こういちの身体にぼくはドキドキしてしまう。
ぼくって…おかしいのかな。
こういちに近づくにつれて、ぼくの心臓は激しくなる。
「冬夜、随分泳げるようになったね」
はにかんで言われると、ますます顔が火照ってきてしまう。
どうしよう…このままだと爆発しそう…。
ぼくはなるべく下を向いて水から上がった。そして、こういちから微妙に視線をそらす。そんなことしてはいけないって思うけど、こういちを見ると緊張してしまう。
そんな微妙な空気のまま、ぼくらはお昼を済ませ、こういちはまた海に浸かって、ぼくは浜辺で休んだ。
遠くからこういちの姿を眺めていれば、微笑ましくさえ思える。あのカッコいい人はぼくの恋人なんだって思うと、優越感に浸れる。
…あ、サーフボードを持った男の人たちに囲まれて何かを言われている。笑顔で話しているから、別に悪いことを言われているわけではないのだろう。
っと思ったら、こういちはその人たちに連れられて、サーフィンをやり始めた。こういちは初めてだったらしく、最初は手解きを受けながらだったが、運動神経のいい彼はどんどんうまくなっていく。ぼくはその様子を見て、思わず頬が弛んだ。
ぼくがうとうととしていると、先ほどまでサーフィンをやっていたこういちが、浜へ上がってこちらへ歩いてきた。
「冬夜、寝るのもいいが、一緒にサーフィンやらないか? 楽しいぞ」
「いいよ、ぼくは。泳ぐのだって大変なのに、ましてやサーフィンなんて無理だから。こういちが波に乗ってるところを眺めてれば幸せだよ」
そうか、とこういちはぼくの隣に座った。水が滴る髪の毛をかき上げて、ぶるぶると頭を振って水を飛ばすと、いつものこういちには似つかわしくない、無造作ヘアが出来上がった。
「今日で冬夜は泳ぎが上達したもんな。大したもんだと思うよ」
無造作ヘアの下で明るく笑うこういちは、太陽の光よりも、海が反射する光よりも、眩しかった。
ドキドキしてしまう。
「ありがと……こういちこそ、スゴいよ。サーフィン、初めてだったんでしょ?」
「まあな。でも常日頃運動はしてるから、それを応用しただけだよ」
「器用なんだね」
本当にこういちはスゴいと思う。泳ぐことさえままならなかったぼくとは大違いだ。
「さて。もう一度海へ入るか。冬夜も、どうせ寝るんだったら一緒に来いよ。せっかく海に来たんだしさ」
手を引かれて、ぼくは再びこういちと海で遊んだ。こういちがサーフィンしている間は、ぼくは海で浮き輪に掴まってプカプカ浮きながらこういちを見ていた。
それまでは楽しかった。
というのは、こういちがサーフボードを脇に抱えながら海から上がったとき、女子高生みたいな人に囲まれてしまったからだ。カッコいいこういちのことだから、いわゆる逆ナンというものなのだろうが、生で見るのは初めてだった。
……嫌な感じがする。胸がむかむかしてきた。
媚々する女の子たちに腹が立った。こういちと付き合っているのはぼくだと叫びたくなった。…だけど、そんなこと、言えるはずもない。さらに、こういうの、女の子たちに向けた笑顔を見たら、怒りはしぼんで、反対に不安になってきた。
こういちは、ぼくにあんなにきらきらした笑顔を見せてくれない。やっぱり、ぼくは次の彼女ができるまでのキープに過ぎないのだろうか……。
こういちはぼくのことを好きだって言ってくれたけれど、いつその言葉に時効がくるか分からない。もしかしたら、目の前に群がる女の子たちに心を持っていかれてしまって、ぼくなどポイ捨てにされてしまうかもしれない。
嫌だ。こういちと離れるのだけは嫌だ。
こういち、ちゃんと断ってくれるよね……? ぼくより女の子たちの方が断然可愛いけれど、ぼくのことを見捨てないよね…?
こういちは女の子たちとすっかり話し込んでしまっている。挙げ句の果てには女の子たちがこういちの腕を組んだりベタベタ触れたりするので、ぼくは見ていられなくなった。海から出て、こういちに見つからないような、なるべく遠いところまで早足で歩き去った。
「こういちのばか…」
人影のない場所に着いたら、足を止め、その場に座り込んだ。
嫌だな。
こういちが女の子と楽しそうに話しているのは嫌だ。でも、そんな小さなことで嫉妬してしまう自分も嫌だ。
ぼくは青い宝石のように輝く海を眺めて、ため息をついてしまった。
「こういち……」
吐息に混じって出た愛しい人の名前は、海から吹き上げてくる風に流され、消えていった。ぼくは悲しくなった。虚しくなった。一度、元の場所に戻ろうと思ったけれど、ぼくの小さなプライドが許さなかった。
しばらくうなだれていたときだった。
後ろから足音がし、ぼくに近づいてくるようだったので振り返ろうとしたら、背中から強く抱きしめられ、羽交い締めにされた。一瞬こういちかと思ったけれど、違う。相手は全然知らない人だった。
「や、離してっ……!」
バタバタと暴れてみるけれど、相手の力の方が強く、ぼくはあっという間に背中が地面についていて、男に組み敷かれてしまった。
「可愛いね、君」
男の猫なで声にぼくは鳥肌が立った。覆い被さる男は消して若くなく、歳が40くらいに見えて、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。
怖い。
「落ち込んでるみたいだけど、どうしたんだい? 私が慰めてあげようか」
男がぼくの顔を手で包む。ぼくは体が強ばるのが分かった。
助けを呼ぼうとしたけれど、ぼくはわざわざ閑散としたところに来たわけで、近くに人がいなかった。心なしか、天気も曇ってきた気がする。
「私が、気持ち良くしてあげるよ」
「あ……っやめっ…っ」
男がぼくの口を喰うように塞ぐ。にゅるり、と舌が入ってきて、ぼくの舌に絡んできた。ぼくは必死で抵抗したけれど、キスはどんどん濃厚なものになっていく。
ぼくはひたすら気持ちが悪くて、男のキスを受けている間、吐き気がしていた。こういちの時は、いきなりやられてびっくりはしたけれど、気持ち悪く感じなかった。逆に、こういちと繋がって嬉しかった。だけど、今の相手は知らないおじさんで、おぞましくて一刻も早く逃げ出したかった。
「暴れないでね。君、こういうことは初めてかい?」
口が離され安心していると、いつの間にか男の頭がぼくの胸のところにあって、2つの突起の辺りをいやらしく舐められた。恐怖でぼくは泣きたくなった。知らないおじさんに体を舐められるなんて……気持ちが悪い。ぼくは自分1人だと抵抗する力が皆無なことを悔しく思った。
「こう、いちっ……っ」
こういち、こういち……! ぼくは何度も何度も心の中でこういちの名前を呼んだ。今、頭にあるのはこういちのことだけだった。早くこの状況から逃げ出し、こういちのいるところに戻りたい。何でこんな目に合っているのだろうか……。
そうだ、こういちが逆ナンされているのが我慢できなくて、いつまでも楽しそうに女の子たちと話しているのに嫉妬したんだ。ぼくはそんなこういちは見たくなかったから、こんな人がいない、薄暗いところまで来てしまったのだ。そして知らないおじさんに捕まって、キスされたり体をべろべろ舐められたりしているのだ。
こんなことになると数分前に分かっていたなら、例えこういちに嫉妬しても、こんなところに来なかったのに…! 今さら後悔しても仕方がないのに、自分に対してふつふつと込み上げてくる怒りは、止まりそうにない。あの時我慢してこういちが話し終えるのを待っていれば、気持ち悪い思いも怖い思いもしなかったのに……。
ごめん、こういち……。
今すぐに、こういちに会いたいよう……。
「お利口さんだね、君は…」
男はすでにぼくの下半身を攻めていて、男がぼくのデリケートな部分を触れるたび、痺れのような快感が襲って、ぼくはビクビク反応してしまう。感じたくないのに躰は素直に反応してしまうのが悔しかった。喘ぎ声も出そうになったが、せめてもの抵抗で呑み込む。
「ふっ…んっ……」
「そうそう、声を押し殺すことはないだろう?」
嫌だ――こんなやつ…!
とうとう本格的に涙が込み上げてきて、ぼくは泣いた。
助けて、こういち―……!
ぼくが切願していた時だった。
「冬夜っ…!」
近くで愛しい人の叫ぶ声がした。幻聴かと思ったが、声のした方に顔を向けると、ぼやけていたがちゃんとこういちの姿があった。
「こういち……た、すけ…」
「てめぇ、よくもっ…!」
怒り狂ったこういちは、ぼくの上に乗った男を蹴り飛ばし、馬乗りになってボコボコにした。
「冬夜に何してんだよっ! 許さねぇぞっ」
相当頭に血が上っているらしく、相手が気を失いかけているのにもかかわらず、こういちは殴る手を止めようとしない。
「こういち、その人死んじゃうよっ…」
「こいつ、冬夜にあんなことしといて…死に値するっ!」
「でも殺しちゃったらこういちが警察に捕まっちゃうよ…ぼくはやだよ……」
こういちは「それもそうだな…」と攻撃する手を止め、立ち上がって男を見下ろした。
「……覚えておけっ! 俺の大事な人を傷つけたら、ただじゃおかないからなっ」
こういちは憤然と言い捨てて、最後に男を一蹴りし、男から離れた。
「大丈夫か、冬夜」
こういちはこちらへ歩み寄り、心配そうな表情でぼくを抱き締めた。ぼくはその頼れる胸元の温かさに、心から安心した。一度緊張が解けると大粒の涙が溢れてきて、ぼくは訳が分からぬほど泣いた。
「ごめんなさいっ……ぼくが身勝手な行動をしたからっ……」
先ほど男にされた行為を思い出したら、恐怖と羞恥で体が震える。落ち着かせようとしても、体の震えは止まらない。
「冬夜……」
こういちは低い声で唸るように言い、抱き締める力を強めた。あまりにもその力が強いので、肋骨が折れるかと思った。
「く、苦しいっ…」
「おまえが震えてるからだろ」
「こういち……怒ってるでしょ?」
「……ああ」
ぼくは何度もごめんなさいを繰り返し、むせび泣いた。その間、こういちは無言だった。