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こういちと恋仲になって、初めての夏休み。
3年生であるぼくらは、受験シーズンに入っていた。
ぼくは小さい頃からフルートをやっていたから、高校はそっちの方へ進もうと思っている。
こういちとはバラバラになってしまうけれど、前から決めていたことだから、変えるつもりはない。
「おまえ、高校どこいくの?」
「桜ヶ丘だよ」
「桜ヶ丘……?」
「音楽の」
「ああ。あの有名なところだな。頑張れよ。合格したら大金星だからな」
「うんっ。…こういちは?」
「俺? 俺は……白優高校でも入ろうかななんて」
「え……そこ陸上が活発だよね。もしかして推薦で入るつもり?」
「ああ、そうだよもちろん。まー俺、バーを越えることしか脳がないからね」
そう、こういちは県内の陸上競技大会の記録保持者で、全国にも数回出場しているのだ。本人は「全国で記録を出していないから、そんなに凄くないよ」なんて言っているけれど、全国に行くのだって針の穴を通るくらい難しい。
それで一度ぼくが怒ったことがある。こういちは凄いんだと。凄くないなんて言ったら、全国に行けなかった人たちに失礼だと。
まあそれはいいとして、お互い志望校が決まり、休み中は、勉強や自分の練習に明け暮れた。なので、ずっと会えない日が続いた。だから、勉強する時は一緒に図書館に行ったり、どちらかの家に行ったりして、2人の時間を確保するようにした。
夏休みに真剣に取り組んだおかげで、ぼくの学力は驚くほど伸びた。それは頭のいいこういちが隣で教えてくれていたからだろう。あんなに理解不能だった英語も、今ではスラスラ解けるようになった。
ある日、こういちが突然海に行こうと言い出した。
「何で?」
「だってさ、勉強ばっかりで俺飽きた」
「……飽きたんだ。だからって何で海…」
「いいじゃん。俺海好きだし」
「ぼくはあまり好きじゃないよ。泳げないし」
「確かに泳げなさそうだな」
「うっ……」
「おまえ、もしかして海行ったことない?」
「ううっ……行ったことあるよっ……1回くらいは…」
「やっぱり行こうぜっ。おまえ、日に焼けた方がいいと思うし。そんなに生っ白いのは、健康にもよくないし」
「別にそれは大丈夫だと思うよ……」
「よし! 海行こう!」
強引に海を誘われ、ぼくは急いでいろいろと準備しなければならなくなった。あまり海で遊んだ経験がなかったから、何を用意していけばいいのか迷ったが、取り敢えず水着など必要最低限のものをバッグに放り込んだ。
まあ、ぼくも受験勉強ばかりでろくに運動していなかったし、たまには海で遊ぶのも悪くないと思った。それより何より、中学校最後の夏、こういちと思い出作りがしたかった。
当日、駅で待ち合わせをして、ぼくは約束の時間より30分も前に着いてしまった。何もそんなに急がなくても、と言われそうだが、ぼくはとても楽しみだった。
早くこういちが来ないかな、とワクワクして待っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返って見ると、サングラスを掛けた怖いお兄さんが立っていた。
もしかして通行の邪魔をしていたからかなと、ごめんなさいと謝り壁の方へ引き下がろうとしたら、そのお兄さんはぷはっと吹き出した。
「俺だよ俺。晃一」
そう言ったお兄さんはサングラスを外した。すると、大好きなこういちの笑い顔が現れた。
「こういちっ……!」
よかった。一瞬知らない人に絡まれたのかと思った。
「俺のこと気づけよ。しばらくおまえの後ろにいたんだぜ? ったく、おまえは前ばっかりしか見てないんだから」
そうだったのか。ちょっと拗ねた顔をするこういちに、すまないと思った。
ともあれ、今日はこういちとずっと一緒にいられる。ぼくの胸はもう、照れと期待でドキドキしていた。
「ごめんね、こういち。許して」
「キスしてくれたら許す」
「……んじゃ、いいや。許してくれなくても」
「んなっ…」
「公衆の面前でキスなんてしたくないもん」
「じゃあ、人がいなければいいのか?」
「うっ……ま、まあ、そうだけど…」
ぼくがどもると、こういちはニヤリと笑い、ぼくの手を引いて、駅の裏の人気のない場所に連れ込んだ。
壁にぼくを挟んで片手をついたこういちは、まるでドラマで女の人を口説くときみたいに顔を近づけ低く囁いた。
「キスして……俺、サングラスかけてたらおまえに気づかれなくて、本当におまえに好かれてんのか心配になったんだけど」
「こういち……」
「普通気づくはずだろ? 好きなら」
こういちはわざと最後の言葉を強調して言った。
こういちのしたいことなど分かっている。そうやって言葉で攻めて、ぼくを折れさせようという魂胆だ。
本当は抗いたいけれど、何を言ってもこういちには敵わないことは知っている。結局ぼくが折れるしかない。
「分かったよ……っ、ごめんねこういち。ただぼくは、いつも以上にこういちがカッコよかったから、一瞬誰かなって、モデルさんかなって思ったんだよ。……キス、するから許してよ…」
ぼくは背伸びしてこういちの唇にキスをした。自分からするのなんて初めてで、どうしたらこういちみたいな余裕のあるキスができるのかは知らないが、とにかく自分のが相手の唇にそっと触れるだけのキスをした。長い時間重ねるなんて度胸はぼくにはなくて、すぐに離してこういちを上目遣いで見つめる。ぼくは恥ずかしすぎて顔から火がでそうだった。
こういちは唖然とした表情を見せていたが、急に真剣な顔つきになった。そして勢いよく、ぼくの唇に再度キスをしてきた。
「あ……んっ」
ちょっちょっ、こういち!
ぼくはびっくりした。
こういちの舌がぼくの口内にするりと入ってきたからだ。今までキスしたけれど、こんなことは初めてだった。
っていうか、キスって相手に舌を入れるものなの? ぼくは疑問に思いつつ、こういちの激しい舌の動きに絡ませた。というより絡ませられた。
さっきから息ができなくて苦しい。飲み込めなかった唾液がぼくの口の端から垂れてくる。
いい加減離して、とこういちの胸を叩いても、離してくれるどころかキスはますます燃えて、角度も深くなってしまう。
頭がぼうっとして、まるでとろけていく感覚に陥る。何とか立っている足も力が入らなくなって、かくん、とくずおれてしまう。最後はこういちに支えてもらいながらキスを受けた。
やっと離してくれて、ぼくは酸素を多く取り込もうと、息を大きくたくさん吸う。まるで全力疾走した後のようだった。
ぼくは、ある意味ショックを受けていて、しばらくの間呼吸をすることしかできなかった。
あんな、舌を入れてくるキスなんて……他のカップルでもやるのだろうか。ぼくが知っているものは、表面だけが触れるのだけだった。こういちもそれだけしかしてこなかったから、てっきりそうなんだと思っていた。
「こう、いちっ……」
ぼくはまだ息が荒くて、しゃべるのも喘ぎ喘ぎになってしまう。
「キス……こんなの聞いてないよ…っ」
「そりゃ、言ってないもん」
「そうだけどさぁ…こんなキス、あるの?」
「あるよ。今や世界中の何億人という人がしてる。恋人同士がするキスだ」
「じゃあ、こういちは? 今までしてきた?」
こういちの表情が陰った。ぼくは調子に乗って空気の読めないことを聞いてしまったかもしれない。
「ご、ごめんっ…今のは取り消しっ」
「…してきたよ。あいつらだって、当時は恋人だったんだからな」
答えは分かっていたはずなのに、その言葉を聞くのは嫌な気持ちがした。それなら聞くなよ、という話だが、もう過ぎたことは仕方がない。
「そんな顔するな、後にも先にも、俺の心の底を震わせられるのは、おまえだけなのだから」
こういちの大きな手で頭を撫でられると、何だかぼくらは同い年に思えない。
こうやって、スキンシップをとっていると安心する。自分が、こういちの隣にいてもいいのだと再確認できる。
「…と思う」
こういちは間を置いて曖昧な言葉を付け足した。その顔はいたずらっぽく笑っている。
「こういち!」
「冗談冗談。おまえだけだよ。そろそろ行こうか。電車に乗れなくなる」
「乗れなかったらこういちのせいだからねっ」
「ハイハイ。急ごうか」
こういちはぼくの手を引き、そのまま改札を通って、ちょうど来た電車に乗り込んだ。電車の中はそれほど人がいなくて、ぼくらは並んで座ることができた。
朝早く起きたので、ぼくはうとうとと眠くなってきた。こういちの肩に頭を預けて、ぼくは安らかな眠りについた。