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「ありがとうございました」
フルートのレッスンが終わり、ぼくは涼しい建物の外へ出た。真夏の真っ昼間は、かんかん照りでさながら地獄にいるようだ。
熱風が吹き付ける中、少しでも肌をじりじりと焼く熱線から逃れようと、ぼくは建物の影伝いに歩いていく。しかし、そんなことをしても、暑さから回避できないのは変わりない。
この時、歩いて帰らずにおとなしくバスに乗っていれば良かったのだ。こんな、気温が最高に高い時に外を出歩くなんて、ぼくはバカだった。
その時そうしなかったのは、日頃の運動不足を何とか改善しようとしていたからなのだ。ぼくはあまりにも細い。細いということは筋肉がないということで、ぼくは力が弱すぎる。力が弱く、軟弱な自分に、いい加減嫌気がさしていたのだ。
しばらく歩いていると、気持ちが悪くなってきて、動機や息切れをするようになった。おまけに体全体が火照っている。
ぼくは息苦しさに思わずしゃがみ込んだ。眩暈までしてきて、頭がぐらぐらする。
ぼくは立ち上がろうと試みたが、体が思うように動かない。
苦しい、助けて――。
ぼくは照り返しの強い歩道の真ん中で、身動きが取れなくなっていた。
このまま、死んでしまうのかとも思った。体内の水分がすべて蒸発して、干からびてしまうのではないか、と朦朧とする思考でぼんやり考えていた。
その時。
「…お前、大丈夫か!?」
頭の上でした声の主を見るために、重い頭を持ち上げると、そこには長身の男の人が無表情でぼくを覗き込んでいた。
「…お前、顔が赤いぞ。熱中症じゃないか?」
「え…」
「……とにかく、来い」
膝の上にあったぼくの手を彼はむんずと掴んで、そのままぼくを引きずるように強引に引っ張った。ぼくは時々転びそうになりながらもフラつく足で、懸命に彼についていった。
繋がったぼくらの手。彼の手は冷たかった。
やってきたのは、公園の噴水の脇にあるベンチだった。木陰になっていて、容赦ない熱線から逃れられるばかりか、水の近くなので、アスファルトの上より幾分か涼しい。
「横になって」
彼に促されるままその木のベンチに横たわると、そこは別世界のように気持ち良くて、今が夏であることを忘れそうになった。
荒かったぼくの息も穏やかになって、いくらかは体も冷めていった。爽やかな風に身を晒して、ぼくは目をつぶって落ち着いてきた心臓の音だけを聞いていた。
ふいに額にひんやりしたものが当てられ、びっくりして目を開けると、青い缶の冷えたジュースが目に入った。よほど冷たいことを主張したいのか、缶も大汗をかいている。
「お前、水くらい飲んでおけよ」
彼が近くの自動販売機で買ってきてくれたらしい。ぼくは礼を言って受け取り、火照った頬に冷えた缶を押し当てた。
彼は横になっているぼくの頭の隣に腰掛け、プルタブを二本指で押し上げてジュースを飲んだ。
その様子を下から眺めていても、彼はカッコいい。年はおそらくぼくと同じだと思うが、缶をクイッと持ち上げて飲む仕草とか、いちいち大人っぽい。
端正な顔立ちに見合った、肉付きの良い、バランスの取れた身体。裕に180は越えているだろう。160もないぼくからすると、羨ましい限りだ。
ぼくがあまりにもじいっと彼を観察していたため、彼は怪訝そうな顔をした。
「…何、冬夜」
「…え」
ぼくは会ったばかりの人物に名前を当てられ、ただ困惑していた。
「何でぼくの名前知ってるんですか?」
「…知ってるも何も…」
彼はそこで言葉を切り、ジュースを飲み干した。空になった缶がぼくの頭のすぐ脇に置かれた。
「……小学校の時一緒のクラスだっただろ。まあ、あまり付き合いがなかったから、覚えていなくても無理はないけど」
ぼくは起き上がって彼の隣に座り直し、真正面から彼の顔を見た。自動的に頭の中でその顔をサーチすると、驚く早さで思い出された。
「――…あっ! もしかして、木菅君!?」
それは、小学校4年生の時。
普段一匹狼で人を寄せ付けないオーラを醸していたので、ぼくは自ら近づこうとは思わなかった彼が、ぼくがいじめにあっていたところを助けてくれたのだ。人を助けるなどしなさそうに見えた彼の、意外な一面にクラスの皆が驚いた。ぼくは嬉しくなって彼と仲良くなろうとしたが、彼は人を撥ね付けるような態度ばかりを取るから、関係はそのまま進展しなかった。
「…ああ、そうだよ。完全に忘れ去られてたみたいだけどな」
「ごめん……でも、木菅君、昔と少し雰囲気が変わったし……、何だか、より男らしくなったね。言われるまで木菅君だと気付かなかった」
「そういうお前は昔と全然変わってねぇけどな」
「うっ…」
痛いところを突かれ、反論しようと拳を振り上げると、彼はそれまでの無表情をいとも簡単に崩し、無邪気に笑った。
ぼくが知っている彼は、こんなに明るく笑ったりしなかった。いつも警戒して、気難しい顔をしていた。そして、何よりも人と一緒にいることを嫌い、先程のようにうずくまっていたぼくの手を引いて公園に連れて来たりなど絶対にしなかったのだ。
彼にそういう印象しかなかったから、すぐに思い出せなかったのかもしれない。
「…いーよねっ、木菅君は身長も伸びてさっ、ぼくなんていくら牛乳飲んでもちっとも伸びてくれなくて困ってるんだからっ!!」
「バーカ、道の真ん中でしゃがみ込んだやつがおまえだと気付いたのも、昔と全然変わらなかったお陰でもあるんだぜ? まんざらでもねえよ」
「そ、そうだけど……何か複雑…」
ぼくは口を尖らせながら彼にもらったジュースを開けて、口に流し込んだ。体の奥深くまですうっとしみ込んでいくので、とても干からびていたことに今更気付いた。
無言の時間が流れていく。ぼくは何か話題を切り出さなければ、とあれこれ考えていた。
「……木菅君、どこの中学通ってるの?」
その結果、これに行き着いた。
思えば、クラスが一緒になったのはそれきりで、その後どうなったのかはお互いに知らない。
「俺? 市来中学」
「あ、同じだ。不思議だね、学校で会っていてもおかしくないのに」
「まあ、あの中学は人数が多いからな。たまたま会わない人もいるんだろう。ってことは、おまえ何組」
「1組だよ。木菅君は?」
「……8組」
どうりで、1組と8組の教室は互いに離れたところにあるから、滅多なことでは触れ合えない。
今まで1度も会わなかったことに納得がいく。
とにかく、ぼくは彼が同じ学校だと知ってなぜか嬉しかった。
「じゃあ、これから一緒に帰ったりできるねっ」
「おい、何でそんな話に……」
「ねぇ、木菅君、」
本当は、あの時に仲良くなりたかった。いじめから救ってくれた時に、何てかっこいいんだろう、友達になりたいと、彼に淡い想いを抱いた。それを完全に拒まれて、ぼくはちょっぴり悲しかった。
今度こそ、仲良くなりたいな……。
「…友達に、なってください」
「……は」
ぼくの突然の依頼に、彼は言葉を失った。
こんなの、彼は望まないかもしれない。もともと一匹狼が性に会っている彼には、ぼくなどは邪魔な存在なのかもしれない。
それでも、ぼくは彼の隣にいたいんだ。その高貴な存在と少しでも近づきたい。
それに、こうやって出会えたのも、何かの縁だ。このまま何もなくサヨナラしたくない。
「……ぼくは、木菅君と友達になりたいんです。……ダメですか?」
ダメと言われたくない。言われても、絶対にこの人を逃がしたくない。
尚も絶句し続ける彼を半ば睨み付けるような眼差しで、切に乞う。
ぼくの目をしばらくじっと見て、彼は苦笑いをした。
「…おまえは、こんな俺のどこがいいの?」
例えがおかしいかもしれないが、彼の何もかも諦めたような笑みに、ぼくは目が離せなくなった。
「……「俺のどこがいい」って、どういうこと?」
「いいや……」
彼はフイと目を逸らした。ぼくはその退廃的な笑顔の理由を聞きたくてしょうがなかった。
でも、あまり仲良くもなっていないのに、重要なことを詮索するのは不躾かと思って、それ以上は何も言わなかった。
「ぼくは、まだ木菅君のことあまり分かってないし、どこがいいかなんて言葉で説明できないけど、……でも…、」
体が中心から熱くなってくる。熱中症の症状とはまた違う、マグマが込み上げてくるような感覚がぼくの体中を駆け巡った。
「…一緒にいたいんです。ぼくを木菅君の隣にいさせてください」
ぼくの熱弁が終わると、彼はクスッと笑いだした。次第に笑いが大きくなって、ぼくは大笑いされるハメになった。
「…何がおかしいんですか! ぼくは必死なんですよっ」
ぼくが憤慨すると、彼は目尻の涙を指ですくい、くしゃりと明るく笑った。
「…悪い、こんなに熱く語るやつも初めてだなってさ。……別に構わないぜ? こんな俺でいいんだったら」
彼の何気なく放った言葉に、ぼくは救われた気がした。
真夏の公園の、涼しい木陰のベンチで。
ぼくらの関係が始まった。