婚約破棄保険に入っていたので、痛手を負わずに済みました
「エレオノーラ! 私は君との婚約を破棄する!」
王太子フェルディナンド殿下の声が、夜会の大広間に響き渡った。
殿下の隣には、勝ち誇ったように微笑む男爵令嬢が寄り添っている。
周囲の貴族たちは一斉に口を閉ざし、私たちへ視線を向けた。
私は小さく息を吐いた。
「まさか、本当にこんなことになるなんて」
「ようやく現実を受け入れたか」
「ええ」
私は胸元から、手のひらほどの小箱を取り出した。
中央には赤い押し釦が一つ付いている。
半年前、殿下が男爵令嬢を夜会へ伴い始めた日に契約しておいて正解だった。
「入っててよかった」
そう呟いて、釦を押した。
チン。
可愛らしいベルの音が鳴る。
数秒後、夜会場の扉が勢いよく開く。
「そこまでにしてもらおう」
黒い礼服をまとった男が、革鞄を片手に歩いてくる。
「誰だ、お前は!」
男は殿下の前まで来ると、懐から銀色の身分証を取り出した。
「王都相互保険、婚約契約査定部です」
「……保険?」
「婚約破棄事故の通報を受け、参りました」
「事故だと?」
「はい。婚約破棄事故です」
「私は婚約を破棄しただけだ!」
査定員は革鞄から録音魔導具を取り出し、静かに起動した。
「婚約破棄のご意思は、今もお変わりありませんか」
「当然だ」
「撤回されるご意思はございますか」
「あるわけがない!」
「では、ご宣言をお願いいたします」
「いいだろう!」
殿下は私を指差した。
「エレオノーラ! 私は貴様との婚約を破棄する!」
カチッ。
査定員は録音魔導具を止めた。
「ありがとうございます。婚約破棄の意思を確認いたしました」
査定員は帳面を開いた。
「約款第十八条に基づき、被保険者様には満額補償が適用されます」
「満額補償?」
殿下が眉をひそめる。
「はい」
「何を補償するというのだ」
「婚約準備に伴う損失一式です」
査定員はそれ以上説明せず、帳面へ何かを書き込んだ。
「待て。こんなものが本当に認められると思っているのか」
「認められております」
「私は王太子だぞ」
「存じております」
「ならば話は早い。こんな保険は無効だ」
「契約は有効です」
「誰が認めた!」
そのとき、夜会場の奥から低い声が飛んだ。
「何事だ」
国王陛下が歩み寄ってきた。
殿下はすぐに振り返る。
「父上! この男が、私の婚約破棄を事故だなどと!」
査定員は国王へ一礼した。
「王都相互保険、婚約契約査定部です」
「保険会社か」
「はい」
「王太子殿下が婚約を破棄されましたので、被保険者様への保険が適用となります」
王は首を傾げた。
「なお」
査定員は帳面を一枚めくる。
「約款第三十二条に基づき、当社より王家へご請求申し上げます」
「……王家に?」
「はい」
「持参金準備費、王太子妃教育費、信用毀損、逸失利益に加え、公衆の面前での宣言につき公開婚約破棄特約が適用されます」
査定員は帳面へ視線を落とした。
「合計、金貨三万枚です」
「待て」
王の声が低くなった。
「そんな額は払えん」
「承知いたしました」
査定員は帳面を閉じた。
「それでは裁判所へ支払督促を申し立てます。期限までにお支払いがない場合、王家資産の差押え手続へ移行いたします」
「待て待て待て!」
王が慌てて手を上げた。
「王城まで対象になるのか」
「裁判所の判断となります」
王は額を押さえた。
殿下が査定員を睨みつける。
「こんな契約、王家が認めるものか!」
査定員は革鞄から一枚の書類を取り出した。
「加入申込書には国王陛下の署名がございます」
王は書類を受け取り、署名欄を見つめた。
「……私の署名だ」
「婚約締結時に提出されております」
王はしばらく黙り込んだあと、私へ向き直った。
「エレオノーラ嬢」
「はい」
「婚約を元に戻してもらえないだろうか」
査定員が一歩前へ出た。
「今後の交渉は、弊社を代理人としてお願いいたします」
「代理人?」
「保険事故成立後の交渉窓口は弊社となります」
王は査定員を見つめ、それから諦めたように口を開いた。
「では、婚約再締結を希望する」
査定員が私を見る。
「被保険者様。婚約再締結のご意思はございますか」
「ございません」
「承知いたしました」
「待て!」
王が身を乗り出した。
「条件は見直す。持参金も減らしてよい。王太子妃教育も免除する。フェルディナンドにも謝罪させる」
査定員は私を見る。
「ご意思に変更はございますか」
「ございません」
「承知いたしました」
査定員は帳面へ記入した。
「婚約再締結交渉、不成立」
「まだ交渉は終わっておらん!」
「被保険者様の意思確認は完了しております」
殿下が私を睨んだ。
「エレオノーラ! 本当にそれでいいのか。私は王太子だぞ!」
「だから保険に入ったのですけれど」
夜会場のあちこちから、堪えきれなかった笑いが漏れた。
殿下の顔が真っ赤になる。
「貴様!」
査定員が録音魔導具へ手を伸ばした。
殿下は口を閉ざした。
「なお」
査定員は帳面を一枚めくる。
王の肩が跳ねた。
「婚約再締結が成立しなかった場合も、求償額に変更はございません」
「待て」
「支払期限は三十日です」
「三万枚など、すぐに用意できるものか」
「分割払いも承っております」
王は黙った。
しばらくして、低い声で尋ねる。
「何回までだ」
「十二回までです」
王は深く息を吐いた。
「……財務担当と相談する」
「承知いたしました」
査定員は請求書を差し出した。
「こちらに受領の署名をお願いいたします」
王は震える手で羽根ペンを取った。
殿下が愕然とした顔で見ている。
「父上、本当に払うのですか!」
「お前が払わせるのだ!」
王の怒声が大広間に響いた。
査定員は私へ保険金支払証書を差し出した。
「手続きは以上です」
「ありがとうございました」
査定員は男爵令嬢へ視線を向けた。
「なお、婚約破棄を教唆した第三者についても、後日事情を伺います」
男爵令嬢の笑顔が消えた。
「今後、王家から直接連絡があった場合は、弊社へご連絡ください」
「承知しました」
査定員は一礼し、革鞄を手に夜会場を去っていった。
残された王は請求書を見つめ、殿下は青ざめ、男爵令嬢はいつの間にか人混みの後ろへ隠れている。
私は近くの給仕から新しいグラスを受け取った。
婚約者選びには失敗した。
けれど、保険選びには成功したようだった。
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