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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第8話 外の世界

朝の廊下は、まだ静かだった。


障子越しの光が細く差し込み、板張りの床に淡い影を落としている。屋敷の奥からは、誰かが水を運ぶ音と、遠くで戸を開ける音が聞こえた。人の動きはあるのに、騒がしさはない。蛟家の屋敷には、いつもこの静けさがあった。


珠緒はゆっくりと廊下を歩いていた。


すれ違う使用人が一礼する。そのたびに、胸の奥へ小さな重みが落ちてくる。肩のこり、寝不足、言葉にしない疲れ。どれも強いものではないが、数が重なると体の奥へ静かに沈んでいく。


それでも、以前ほどではなかった。


白瀬家にいた頃なら、朝の廊下を歩くだけで胸の奥が重く満ちていた。ここではそれがどこか遠く、表面を流れていくような感覚に変わっている。


珠緒はその理由を考えかけて、やめた。


分かっていることを、改めて言葉にする必要はない気がしたからだ。


廊下の先が、少しだけ騒がしかった。


普段なら聞こえない種類の足音が混じっている。使用人たちの声も、どこか緊張を含んでいた。珠緒が角を曲がると、玄関の方から人の出入りが見えた。


大きな荷を持った男が一人、廊下の端で頭を下げている。


家令が珠緒に気づき、すぐに近づいてきた。


「奥様」


深く頭を下げる。


「白瀬家より使者が参りました」


珠緒はわずかに目を瞬いた。


白瀬家からの使い自体は珍しいことではない。商いの話や贈り物のやり取りで、たびたび人は来ていた。けれど珠緒がこの屋敷へ嫁いでから、正式な使者が訪れたことは一度もなかった。


「そうですか」


珠緒は小さく頷いた。


家令は少しだけ声を落とす。


「応接間にお通ししております。旦那様にもお知らせしておりますが……先に奥様へご挨拶を、とのことで」


珠緒は一瞬だけ考え、それから歩き出した。


応接間の前に立つと、襖の向こうに人の気配がある。知らない気配ではない。白瀬家の屋敷で、何度も感じた種類のものだった。


襖を開ける。


座敷の中央に、年配の男が一人座っていた。


白瀬家の番頭格の男だった。珠緒が幼い頃から、屋敷に出入りしていた人物でもある。けれど珠緒の顔を見た瞬間、その男の目に浮かんだものは懐かしさではなかった。


確認するような視線だった。


男はすぐに姿勢を正す。


「これは奥様。ご無沙汰しております」


丁寧な口調で頭を下げる。礼儀は崩れていない。けれどその視線は、珠緒の顔色や姿勢を細かくなぞるように動いていた。


珠緒も静かに頭を下げる。


「遠いところをご足労さまです」


向かい合って座る。


少しの沈黙のあと、男が口を開いた。


「白瀬家の皆様は、変わりなくお過ごしです。旦那様もご壮健で、最近は港の商いも順調に」


珠緒は頷きながら聞いていた。


白瀬家の話は、どこか遠く感じられる。ついこの前までその屋敷で暮らしていたのに、今では記憶の中の景色のようだった。


男はしばらく近況を語り、それから言葉を切った。


「奥様は……」


そこで一度、珠緒の顔を見た。


「お変わりありませんか」


珠緒は少しだけ首を傾ける。


「ええ。こちらの皆様に良くしていただいています」


そう答えると、男の眉がわずかに動いた。


珠緒の顔色を、もう一度確かめるように見ている。


「……随分、お健やかなようで」


男の声は柔らかい。けれどその言葉の裏にあるものは、珠緒にも分かった。


驚き。そして計算だろう。


珠緒は静かに息を吐いた。


男が何を見ているのか、分かる。蛟家へ嫁いだ珠緒が、消耗するどころか顔色が良い。白瀬家はそれを予測していなかったのだ。そしてその予測が外れたことを、今この男は確かめている。


何のために、そんなことを確かめるのか。その理由も、珠緒には分かっていた。


珠緒は視線を伏せたまま、穏やかに答えた。


「おかげさまで」


男は一瞬黙った。


それから、少しだけ声を落とす。


「白瀬家では、奥様のお体を大変心配されておりました」


言葉は丁寧だった。


けれど珠緒には、それが心配ではないことが分かる。


白瀬家で珠緒は、いつも同じ役割だった。具合の悪い客のそばに座り、疲れた人間の近くに置かれる。そうすれば相手は楽になり、珠緒の体は重くなる。


それが珠緒の価値だった。


襖が静かに開き、燈真が部屋に入る。


男はすぐに姿勢を正し、深く頭を下げた。


「これは、蛟様」


形式的な挨拶が交わされる。


燈真は珠緒の隣に座り、男を見る。その視線は静かだったが、わずかに温度が低い。


男は少しだけ笑みを浮かべた。


「奥様がお元気そうで、安心いたしました」


燈真は短く頷く。


男は続ける。


「このようにお健やかであれば、社交の場にもお出になれるでしょう」


その言葉に、珠緒は少しだけ視線を落とした。


社交の場。


白瀬家で何度も聞いた言葉だった。客の前へ出され、静かに座っているだけでよい場所。笑う必要も、話す必要もない。ただそこにいれば、人は楽になる。


燈真の声が、静かに落ちた。


「妻の体調は、私が判断しますので」


部屋の空気が止まる。


男は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを戻した。


「もちろんです」


それ以上は何も言わなかった。やがて使者は帰り、屋敷はまた静けさを取り戻した。


珠緒は庭へ出た。


朝より日差しが強くなり、石の上の露はもう消えている。庭の奥では、風が藤棚の枝を揺らしていた。


胸の奥が少しだけ重い。先ほどの会話の残りが、静かに沈んでいる。


足音が近づく。振り向かなくても分かる。


燈真と二人、縁側の端に並んで立つが、お互いしばらく何も言わなかった。


珠緒は庭を見ながら、小さく言った。


「外は、賑やかですね」


燈真は少しだけ考えた様子で、それからこう答えた。


「……ここよりは」


珠緒は小さく頷いた。


庭は相変わらず静かだった。

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