第7話 繋がる手
朝の庭は、まだ人の気配が薄かった。
珠緒は縁側に座り、庭の奥に広がる木々を眺めていた。夜の湿り気を残した空気が、ゆっくりと日差しに温められていく。葉の先から落ちた露が石の上で小さく光り、風が通るたびにかすかな葉擦れが聞こえた。
胸の奥には、いつもの重さがある。
けれどそれは、白瀬家にいた頃に感じていたものよりもずっと薄い。深く沈み込むような重さではなく、どこか遠くに漂っているような感覚だった。
珠緒は理由を考えようとして、やめた。
ここ数日、同じことを何度か思っている。燈真が近くにいる日は、体の奥が静かだ。廊下を歩いても、使用人とすれ違っても、胸の奥へ流れ込むものが不思議と軽い。
理由は分かっている。
けれど、あえて言葉にする必要はない気がした。
足音が聞こえた。
廊下を歩くその足取りは、慌ただしさとは無縁だった。音を立てないよう意識しているわけでもないのに、自然と静かになる歩き方。
珠緒は振り向かない。
けれど誰が来たのかは分かる。
燈真が縁側へ出てきて、珠緒の隣に腰を下ろした。いつものように少し距離を空けて。手を伸ばせば触れられるが、触れない位置だった。
しばらく、どちらも何も言わない。
庭の木々が風に揺れ、葉の影が縁側の板の上でゆっくり動く。鳥の声が遠くから聞こえ、屋敷の奥では誰かが戸を開ける音がした。
珠緒は昨日のことを思い出していた。
渡り廊下で膝をついたときの、あの息苦しさ。胸を押さえつけるような重さ。そして燈真の手が触れた瞬間、すべてがほどけていった感覚。
考えまいとしても、体が覚えている。あのときの軽さを。
「……体調は」
燈真が言葉を選ぶように口を開く。
「もう大丈夫ですか」
珠緒は小さく頷いた。
「はい。昨日は少し無理をしただけでしたから」
燈真はそれ以上追及しなかった。ただ庭を見たまま、静かに息を吐く。その横顔はいつもと変わらない落ち着きを保っているが、どこか慎重な空気が残っているようにも見えた。
少しの沈黙のあと、燈真が言う。
「今日は庭を歩きますか」
珠緒はわずかに目を瞬いた。
燈真の方から誘うような言葉を言われたことは、今までなかった。お互い、庭を歩くこと自体は珍しくない。けれどそれは、珠緒が外に出ているときに偶然会う形が多かった。
誘われたのは、初めてかもしれない。
珠緒はゆっくり頷いた。
「はい」
二人は縁側から庭へ降りる。
石畳は朝露で少し濡れており、歩くとわずかに靴底が鳴った。庭の奥には小さな橋があり、その先に藤棚が見える。花の季節はまだ先だが、枝の影が静かに広がっていた。
珠緒は燈真と並んで歩く。
距離は近い。肩が触れるほどではないが、腕を伸ばせば届く。
それでも、二人とも手を動かさない。
庭の空気は穏やかだった。珠緒の胸の奥も、いつもより落ち着いている。完全に軽いわけではない。けれど重さが体の中心に沈み込まず、表面をゆっくり流れているような感覚だった。
橋の手前で、珠緒の足がわずかに揺れた。大きくふらついたわけではない。石の縁に足先が触れただけだった。
それでも燈真はすぐに気づいた。
隣で足が止まり、視線が落ちてくる。燈真の手が、わずかに動いた。珠緒の手首へ伸びかけて――止まる。二人のあいだに、ほんの数センチの距離が残る。
珠緒はその手を見た。
昨日、迷わず掴まれた手。自分の体を支え、胸の重さを消した手。
触れれば、楽になる。それはもう分かっている。
けれど、そのことを自分から望んでいいのかどうか、珠緒にはまだ分からなかった。燈真にとっては危険なはずの行為を、自分のために求めてしまうこと。
その考えが、指先を少しだけ止める。
燈真もまた、動かない。
触れようとすればできる距離なのに、どちらも踏み出さない。庭の空気だけが静かに流れ、藤棚の枝がわずかに揺れる。
珠緒はゆっくりと息を吸った。
そして、手を伸ばす。
燈真の袖を、そっと掴んだ。
強く引いたわけではない。ただ布の端に指を添えただけの、頼りない動きだった。
「……少しだけ」
声は小さかった。
燈真の目がわずかに見開かれる。
驚いたようにも見えたが、すぐにその表情は落ち着きを取り戻した。珠緒の指先が袖を掴んでいるのを確かめるように視線を落とし、それからゆっくりと手を差し出す。
珠緒の手を取る。
その瞬間、胸の奥に沈んでいた重さがほどけた。
強い変化ではない。昨日のように一気に消えるのではなく、ゆっくり霧が晴れていくように軽くなる。息を吸うと胸の奥まで空気が届き、肩の力が自然に抜けていく。
珠緒は思わず目を伏せた。
静かだ。
庭の音がはっきり聞こえる。葉擦れの音も、遠くの鳥の声も、何もかもが遠くならない。
珠緒はふと、庭の木々へ視線を向ける。
蛟家の庭は広い。古い松も、低く刈り込まれた潅木も、長い年月をかけて形を整えられてきた木ばかりだ。白瀬家の庭よりずっと落ち着いた色をしているのに、不思議と枯れた枝がほとんど見当たらない。
珠緒は少し首を傾げた。
燈真の呪いは、触れたものの命を奪うはずだった。長く触れれば草木も弱ると、あの書斎で燈真自身が言っていた。
それなのに、庭は静かに整っている。手入れが行き届いているからだろうか。
そう考えかけて、ふと視線が手元へ落ちた。
燈真の手が、自分の手を握っている。
珠緒はそのまま、しばらく何も考えなかった。ただ繋がれた手の温もりを感じながら、庭の木々を眺めていた。
珠緒の視線に気づいたのか、燈真が同じ方向を見る。
「どうしましたか」
低い声でそう聞かれ、珠緒は小さく首を振った。
「いえ……庭がきれいだなと思って」
燈真はそれ以上何も言わなかった。
ただ珠緒の手を握ったまま、庭の橋の方へ視線を向けている。その表情はいつも通り落ち着いているが、指先の力は離れる気配がなかった。
二人はそのまま歩き続け、橋のそばで立ち止まった。
手はまだつながっている。
珠緒は庭を見ていた。朝の光が少しずつ強くなり、藤棚の影が地面に広がっている。
しばらくして、珠緒は小さく言った。
「……今日は、静かですね」
燈真は珠緒の言葉を聞き、ほんのわずかに視線を動かす。
「ええ」
短く答える。
それから少し間を置いて、続けた。
「いつもより」
珠緒は何も言わなかった。ただ、握られている手をそのままにしていた。




