表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/9

第7話 繋がる手

朝の庭は、まだ人の気配が薄かった。


珠緒は縁側に座り、庭の奥に広がる木々を眺めていた。夜の湿り気を残した空気が、ゆっくりと日差しに温められていく。葉の先から落ちた露が石の上で小さく光り、風が通るたびにかすかな葉擦れが聞こえた。


胸の奥には、いつもの重さがある。


けれどそれは、白瀬家にいた頃に感じていたものよりもずっと薄い。深く沈み込むような重さではなく、どこか遠くに漂っているような感覚だった。


珠緒は理由を考えようとして、やめた。


ここ数日、同じことを何度か思っている。燈真が近くにいる日は、体の奥が静かだ。廊下を歩いても、使用人とすれ違っても、胸の奥へ流れ込むものが不思議と軽い。


理由は分かっている。


けれど、あえて言葉にする必要はない気がした。


足音が聞こえた。


廊下を歩くその足取りは、慌ただしさとは無縁だった。音を立てないよう意識しているわけでもないのに、自然と静かになる歩き方。


珠緒は振り向かない。


けれど誰が来たのかは分かる。


燈真が縁側へ出てきて、珠緒の隣に腰を下ろした。いつものように少し距離を空けて。手を伸ばせば触れられるが、触れない位置だった。


しばらく、どちらも何も言わない。


庭の木々が風に揺れ、葉の影が縁側の板の上でゆっくり動く。鳥の声が遠くから聞こえ、屋敷の奥では誰かが戸を開ける音がした。


珠緒は昨日のことを思い出していた。


渡り廊下で膝をついたときの、あの息苦しさ。胸を押さえつけるような重さ。そして燈真の手が触れた瞬間、すべてがほどけていった感覚。


考えまいとしても、体が覚えている。あのときの軽さを。


「……体調は」


燈真が言葉を選ぶように口を開く。


「もう大丈夫ですか」


珠緒は小さく頷いた。


「はい。昨日は少し無理をしただけでしたから」


燈真はそれ以上追及しなかった。ただ庭を見たまま、静かに息を吐く。その横顔はいつもと変わらない落ち着きを保っているが、どこか慎重な空気が残っているようにも見えた。


少しの沈黙のあと、燈真が言う。


「今日は庭を歩きますか」


珠緒はわずかに目を瞬いた。


燈真の方から誘うような言葉を言われたことは、今までなかった。お互い、庭を歩くこと自体は珍しくない。けれどそれは、珠緒が外に出ているときに偶然会う形が多かった。


誘われたのは、初めてかもしれない。


珠緒はゆっくり頷いた。


「はい」


二人は縁側から庭へ降りる。


石畳は朝露で少し濡れており、歩くとわずかに靴底が鳴った。庭の奥には小さな橋があり、その先に藤棚が見える。花の季節はまだ先だが、枝の影が静かに広がっていた。


珠緒は燈真と並んで歩く。


距離は近い。肩が触れるほどではないが、腕を伸ばせば届く。


それでも、二人とも手を動かさない。


庭の空気は穏やかだった。珠緒の胸の奥も、いつもより落ち着いている。完全に軽いわけではない。けれど重さが体の中心に沈み込まず、表面をゆっくり流れているような感覚だった。


橋の手前で、珠緒の足がわずかに揺れた。大きくふらついたわけではない。石の縁に足先が触れただけだった。


それでも燈真はすぐに気づいた。


隣で足が止まり、視線が落ちてくる。燈真の手が、わずかに動いた。珠緒の手首へ伸びかけて――止まる。二人のあいだに、ほんの数センチの距離が残る。


珠緒はその手を見た。


昨日、迷わず掴まれた手。自分の体を支え、胸の重さを消した手。


触れれば、楽になる。それはもう分かっている。


けれど、そのことを自分から望んでいいのかどうか、珠緒にはまだ分からなかった。燈真にとっては危険なはずの行為を、自分のために求めてしまうこと。


その考えが、指先を少しだけ止める。


燈真もまた、動かない。


触れようとすればできる距離なのに、どちらも踏み出さない。庭の空気だけが静かに流れ、藤棚の枝がわずかに揺れる。


珠緒はゆっくりと息を吸った。


そして、手を伸ばす。


燈真の袖を、そっと掴んだ。

強く引いたわけではない。ただ布の端に指を添えただけの、頼りない動きだった。


「……少しだけ」


声は小さかった。


燈真の目がわずかに見開かれる。


驚いたようにも見えたが、すぐにその表情は落ち着きを取り戻した。珠緒の指先が袖を掴んでいるのを確かめるように視線を落とし、それからゆっくりと手を差し出す。


珠緒の手を取る。


その瞬間、胸の奥に沈んでいた重さがほどけた。


強い変化ではない。昨日のように一気に消えるのではなく、ゆっくり霧が晴れていくように軽くなる。息を吸うと胸の奥まで空気が届き、肩の力が自然に抜けていく。


珠緒は思わず目を伏せた。


静かだ。


庭の音がはっきり聞こえる。葉擦れの音も、遠くの鳥の声も、何もかもが遠くならない。


珠緒はふと、庭の木々へ視線を向ける。


蛟家の庭は広い。古い松も、低く刈り込まれた潅木も、長い年月をかけて形を整えられてきた木ばかりだ。白瀬家の庭よりずっと落ち着いた色をしているのに、不思議と枯れた枝がほとんど見当たらない。


珠緒は少し首を傾げた。


燈真の呪いは、触れたものの命を奪うはずだった。長く触れれば草木も弱ると、あの書斎で燈真自身が言っていた。


それなのに、庭は静かに整っている。手入れが行き届いているからだろうか。


そう考えかけて、ふと視線が手元へ落ちた。

燈真の手が、自分の手を握っている。


珠緒はそのまま、しばらく何も考えなかった。ただ繋がれた手の温もりを感じながら、庭の木々を眺めていた。


珠緒の視線に気づいたのか、燈真が同じ方向を見る。


「どうしましたか」


低い声でそう聞かれ、珠緒は小さく首を振った。


「いえ……庭がきれいだなと思って」


燈真はそれ以上何も言わなかった。


ただ珠緒の手を握ったまま、庭の橋の方へ視線を向けている。その表情はいつも通り落ち着いているが、指先の力は離れる気配がなかった。


二人はそのまま歩き続け、橋のそばで立ち止まった。


手はまだつながっている。


珠緒は庭を見ていた。朝の光が少しずつ強くなり、藤棚の影が地面に広がっている。


しばらくして、珠緒は小さく言った。


「……今日は、静かですね」


燈真は珠緒の言葉を聞き、ほんのわずかに視線を動かす。


「ええ」


短く答える。


それから少し間を置いて、続けた。


「いつもより」


珠緒は何も言わなかった。ただ、握られている手をそのままにしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ