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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第6話 その手だけが

燈真の姿が見えない朝は、廊下の空気まで少し違って感じられた。珠緒は襖を開けた瞬間から、そのことをなんとなく察していた。


障子越しの光はやわらかく差し込み、庭の葉擦れもいつもと変わらない。それなのに胸の奥に沈んでいる重さだけが、今日は妙にはっきりしている。眠りの底に沈めていたものが、目を覚ました途端、何食わぬ顔で戻ってきたようだった。


廊下へ出ると、すぐ近くを通った女中が足を止めて頭を下げた。その丁寧な声とともに、肩のこわばりと浅く積もった疲れが、じわりと珠緒へ流れ込んでくる。ほんのわずかなものだ。それでも珠緒には、どこか懐かしい感覚だった。白瀬家で朝を迎えるたび、珠緒はこういう小さな重みをいくつも拾っていたのだと、今さら思い出す。


ここ数日は、それが薄かった。


燈真のそばにいる時間が増えていたからだろう。縁側で並んで座る。庭を歩く。ほんの短く言葉を交わす。それだけで胸の奥に沈むものが遠くなる。触れていないのに息がしやすいのは、どうしてなのか。


考えようとして、珠緒は途中でやめた。


けれど今日は違う。廊下を歩くだけで、すれ違う人々の倦みや気疲れが細い糸のように胸へ絡みつく。燈真が近くにいない。ただそれだけで、体はもうあの静けさから遠ざかっているのだと分かった。


珠緒は小さく息を吐き、奥庭へ続く渡り廊下へ足を向けた。朝の光を受けた板張りの床が白く静かに光っている。庭の草木はまだ露を含み、空気もひんやりとしていた。その冷たさが頬を撫でていくのに、胸の内側だけが重く曇っている。


廊下の端に、人影があった。


若い女中が柱に肩を預けるようにして立っている。最初はただ休んでいるだけかと思ったが、近づくにつれて様子がおかしいことが分かった。顔色が悪い。呼吸が浅く、胸を押さえるようにしている。


「……大丈夫ですか」


声をかけると、女中ははっと顔を上げた。無理に笑おうとしたのか、口元だけがわずかに動く。


「だ、大丈夫です、奥様。少し立ちくらみが……」


大丈夫だと言いながら、その声は掠れていた。


珠緒が一歩近づいた瞬間、胸の奥へ重いものが落ちてきた。


息苦しさだった。


胸の真ん中を内側から押されるような圧迫感。深く吸おうとしても途中で引っかかる。そこに寝不足の鈍さと、無理を重ねた体の疲れが重なっている。


珠緒は静かに息を整えた。


この人は、ずっと我慢していたのだろう。


「少し座りましょう」


珠緒はそう言って、廊下の端へ腰を下ろした。女中は戸惑ったようだったが、やがて小さく頭を下げて隣へ座る。


その途端、珠緒の胸へ流れ込むものが強くなる。


息苦しさ。肩から背へ広がる重さ。何日も休めていない体の倦怠。珠緒は唇を結んだままそれを受け止める。


女中の呼吸が少しずつ整っていく。浅かった息が、ゆっくり深くなる。


「……あれ」


女中が小さく呟いた。


「さっきまで、胸が苦しかったのに……」


珠緒は答えなかった。


ただ隣にいた。


それだけで、相手は少し楽になる。その代わり、苦しさは珠緒の内側へ落ちてくる。それは昔から変わらないことだった。


これでいい。


珠緒はそう思う。


女中の呼吸が整うほど、珠緒の体は重くなる。視界の端がわずかに揺れる。それでも、こちらの方が落ち着く気がした。


燈真のそばにいれば楽でいられる。


何も受け取らない。ただ静かで、穏やかで、息がしやすい。


けれど、その心地よさに珠緒はまだ慣れていない。


女中が立ち上がった。


「もう、大丈夫そうです。本当に、ありがとうございます」


顔色はだいぶ良くなっていた。


珠緒は頷こうとして、少し遅れた。


体が重い。


立ち上がろうとした瞬間、床板の木目が揺れた。


視界がぼやける。


膝が折れ、珠緒は片膝をついた。胸の奥がきつく締めつけられ、吸い込んだはずの空気が喉の途中で引っかかる。呼吸を整えようとしても、次の息がうまく入ってこない。


「奥様……!」


女中の声が遠く聞こえる。廊下の光がわずかに揺れ、板張りの床の木目がぼやけて見えた。耳の奥では水の中にいるように音が鈍く、周囲の気配が薄い膜を隔てて届いてくる。


立たなければ、と珠緒は思う。迷惑をかけてはいけない。その考えだけが頭の奥でかろうじて形を保っていたが、体は思うように動かなかった。胸の奥へ流れ込んできた重さが、遅れて全身へ広がっていく。


そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。静かで、けれど迷いのない足取りだった。近づいてくる気配に、女中が振り返る。


「旦那様、奥様が……」


その声が終わるより早く、燈真は珠緒の前にしゃがみ込んでいた。


珠緒はぼんやりと顔を上げる。視界の中に、燈真の黒髪と整った横顔が入った。いつもと変わらない静かな表情なのに、その目だけがわずかに鋭く珠緒を見ている。


燈真は珠緒の顔色を一瞬で見て取り、何かを確かめるようにわずかに息を止めた。それから迷う様子もなく手を伸ばす。


珠緒の手を掴む。


その瞬間、胸の奥に沈んでいた重さが音もなく崩れた。


締めつけていた苦しさがほどけ、止まっていた呼吸が一気に流れ込む。肺の奥まで空気が満ち、先ほどまで白く曇っていた視界がゆっくり輪郭を取り戻していった。


珠緒は思わず大きく息を吸い込んだ。胸の奥が軽い。それだけで体が自分のものへ戻ってきたような感覚がある。


目を上げると、燈真の顔がすぐ近くにあった。燈真は珠緒の手を握ったまま、低く言う。


「……無茶をしましたね」


その声音は責めているというより、抑えた息を吐き出すようだった。珠緒は小さく首を振る。


「大丈夫です」


そう答えながらも、声はまだ少し頼りない。けれど呼吸は整っている。胸を締めつけていた苦しさも、もう残っていなかった。


燈真は何も言わない。ただ珠緒の手を握ったまま、しばらくそのままでいる。離す必要がないと判断したように、指先の力が静かに残っていた。


珠緒の胸は驚くほど軽い。呼吸も深く、ゆっくりとできる。先ほどまで体を満たしていた重さが嘘のようで、逆に少し落ち着かないほどだった。


楽でいることは、間違いなのだろうか。


そんな考えがふと浮かぶ。


誰の苦しみも受け取らず、ただ静かに息をしているだけの時間。これまで自分には許されないものだと思っていた状態が、今こうして手の中にある。


それでも燈真の手は離れない。


珠緒はその温もりを感じながら、そっと目を閉じた。胸の奥に残っているのは、先ほどまでの痛みではなく、ただ静かな軽さだけだった。


指先が、ほんの少しだけ力を返す。


それに気づいたのかどうか、燈真の手の力がわずかに強くなる。


珠緒は何も言わなかった。ただその温もりを受け止めながら、しばらく彼の手を離さなかった。

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