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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第5話 二人の距離

縁側に、珠緒は一人でいた。

胸の奥に沈んでいるはずの重さが、今日はどこか遠い。


庭の奥に、古い松が一本立っている。枝ぶりは整っているが、誰かが丹念に手入れをしている様子はない。ただそこに長くあり続けてきたような、静かな佇まいだった。


珠緒は膝の上で手を重ね、その松を眺めていた。


風が通る。袖がかすかに揺れる。

胸の奥が、いつもより少し軽い。


理由を考えようとして、やめた。考えたところで言葉にならない気がした。ただ、ここにいると息がしやすかった。それだけのことだった。


足音が近づいてくる。


珠緒は振り返らなかったが、誰かは分かった。


燈真が縁側に来て、珠緒の隣に腰を下ろす。少し間を空けて。手を伸ばせば触れられるが、触れない距離だった。


「……庭を、見ていたのですか」


「はい」と珠緒は答えた。「松が、きれいだなと思って」


燈真は少しだけ庭に目をやった。それきり、何も言わない。


珠緒も黙った。


会話はそれで終わった。けれど、どちらも立たなかった。風が庭木を揺らす音だけが、二人のあいだに静かに流れていた。



しばらくして、廊下を女中が一人通り過ぎた。


珠緒は何気なく視線を向けた。


女中は縁側に気づいた瞬間、ほんのわずかに目を見開いた。それはほとんど気づかないほどの動作だったが、珠緒には見えた。すぐに視線を伏せ、女中は足を速める。


見てはいけないものを見てしまった、とでも言いたげな背中だった。燈真が誰かと並んで座る。それは、この屋敷では珍しい光景なのだろう。


珠緒は前に向き直った。


燈真は気づいていないのか、庭をぼんやりと見ている。


——そうか、と珠緒は思った。


燈真は誰とも並ばない。誰も近づかない。それがこの屋敷の当たり前だった。使用人たちは礼を欠かさないが、常に一定の距離を保っている。廊下ですれ違うときも、食事の膳を運ぶときも、必要以上に近づこうとしない。


それは規則ではなく、長い時間をかけて根付いた習慣なのだと珠緒には分かった。


自分が今、その習慣の外側にいる。


そのことを、当然だとは思えなかった。



自室に戻ってから、珠緒はしばらく考えた。


燈真のそばにいると、何も流れ込んでこない。


人に近づくたびに感じていたものがある。肩の重さ、息苦しさ、誰かの怒りや悲しみが皮膚の奥からじわりと滲んでくる感覚。それは珠緒が物心ついた頃からずっとそこにあった。人が多い場所では特にひどかった。賑やかな廊下を歩くだけで、体の芯から疲れ果てていた。


燈真のそばでは、それがない。


ただ、静かだった。


それは——どこか落ち着かなかった。


珠緒はゆっくりと息を吐く。


誰かの苦しみを受け取ること、それが自分の役割だと思って生きてきた。苦しみを吸い込むことで相手が楽になる。だから珠緒はそこにいる意味があった。幼い頃から、そういうものだと知っていた。家族が疲れているとき、珠緒のそばに来た。客が心身を病んでいるとき、珠緒が呼ばれた。誰かが癒されるたびに、珠緒の体は少しずつ重くなっていく。


でも、それでよかった。役に立っているのだから。


燈真のそばでは、誰の苦しみも受け取らない。何も吸い込まない。消耗しない。ただ、存在しているだけだ。


それが間違いではないかと、珠緒はふと思う。


何も受け取らない自分に、ここにいる理由はあるのだろうか。楽なだけの場所に、自分から留まろうとしていいのだろうか。燈真のそばが心地よいと感じている。その感覚が、どこかうしろめたかった。


珠緒は膝の上の手を見る。


何も奪わず、何も与えず、ただ並んでいた。


それだけのことなのに、胸の奥にある感覚を、うまく名前にできなかった。



ある日、珠緒は気づいた。


膳の中身が、他の日と少し違っている。


白湯。煮た根菜。薄味の汁物。魚は蒸したもので、脂の少ない部位だった。最初の日は気にしなかった。二日目も、たまたまかと思った。三日目に並んだ膳を見て、珠緒はようやく確信した。


自分の膳だけ、毎回少し違っている。


膳を下げに来た女中に、珠緒は静かに聞いた。


「これは……いつもこういう献立なのですか」


女中は少し迷うように視線を落としてから、静かに答えた。


「旦那様のご指示です」


「……旦那様の」


「はい。奥様のお体に、負担が少ない方がよいと」


珠緒は少しのあいだ黙っていた。


女中が下がった後、珠緒はその日の夕方、燈真を見つけた。書棚の前に立っていた燈真は、珠緒の気配に気づいて振り返る。


「食事のことで、お礼を言おうと思って」


珠緒はそう切り出した。燈真はわずかに眉を動かす。


「お体に負担が少ない方が良いと思っただけです」


静かな声だった。特別なことをしたという様子もない。


珠緒はしばらく燈真を見ていた。


それはとても小さなことだった。誰かが珠緒のために何かを考えた。珠緒の体のことを考えて、何かを少し変えた。それだけのことだ。


けれど胸の奥が、ほんのわずかに温かくなった。言葉を探したが、うまく見つからなかった。


「……ありがとうございます」


それだけを言った。燈真は短く頷いただけで、また本に目を向けた。



翌日、二人は庭を歩いた。


並んで歩くのが自然になっていた。庭の端まで行って、折り返す。それだけのことだったが、歩くうちに珠緒の体から力が抜けていくのが分かった。


藤棚の手前で、珠緒は足元の石に気づかなかった。つまずいて、体が前に傾く。


燈真の手が動いた。反射的に、腕を伸ばす。


——止まった。


珠緒はその場で体勢を立て直す。大きくよろめいたわけではない。すぐに地に足がついた。


「大丈夫です」と珠緒は言った。「石があって」


燈真は何も言わなかった。


珠緒はそのまま歩き出した。


燈真は一瞬だけ、自分の手を見た。伸ばした手が止まる。触れなかった。今は、触れても奪わない。それは分かっている。頭では分かっている。


けれど指先が、止まった。


長く染みついた習慣が、咄嗟の反応より先に動く。それだけのことだ。燈真はゆっくりと手を下ろして、歩き出した。



夕方、二人はまた縁側に並んでいた。


庭が橙色に染まっている。松の影が長く伸びて、庭石の上に落ちている。


会話はなかった。


珠緒は庭を見ながら、膝の上の手がわずかに動いた。ほんの少し、燈真の方へ。自分でも気づかないくらいの動きだった。気づいた瞬間、止まった。


燈真の手も、かすかに動いた。


二人の手のあいだには、まだ数センチの距離があった。


触れれば、きっとまた楽になる。胸の重さが消えて、息が深くなる。それは分かっていた。


でも、それを望んではいけない気がした。


理由はうまく言葉にならない。ただ、今ここで手を伸ばすことが、何かを越えてしまうような気がした。何を越えるのかは、まだ分からない。


珠緒は視線を庭に戻した。


松がある。風が通る。橙色の光がゆっくりと薄れていく。


ほんの少し手を伸ばせば、触れられる距離だった。


けれど、どちらも手を動かさなかった。それでも、その距離は以前よりもわずかに近かった。

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