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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第4話 確かめる

燈真の指先が、珠緒の手に触れた。


その瞬間、珠緒の体は無意識に身構えていた。


人に触れるとき、珠緒の体はいつも先に準備をしてしまう。何が流れ込んでくるのか分からないからだ。肩の痛みかもしれない。胸の苦しさかもしれない。言葉にされない怒りや悲しみが、皮膚の奥から静かに入り込んでくることもある。


だから珠緒は、触れる前にほんの少しだけ息を詰める。


けれど——


何も来なかった。


互いの指先が触れ合い、皮膚越しに体温がゆっくりと伝わってくる。確かに触れているのに、胸の奥へ流れ込んでくるものは何一つない。その代わり、珠緒の胸の奥で別の変化が起きていた。


沈んでいた重さが、静かにほどけていく。


長く胸の底に溜まっていた疲れや痛みが、霧のように崩れて消えていく。肩の力が抜け、呼吸が自然と深くなる。体の奥へ澄んだ空気が満ちていくような、不思議な軽さだった。


珠緒は小さく息を呑んだ。


人と触れれば必ず感じていたものがある。肩の痛み、心の疲れ、言葉にされない苛立ち、胸の奥に沈む小さな悲しみ。そうしたものが触れた瞬間から珠緒の中へ流れ込んでくる、それが当たり前だった。


けれど今は、それがない。


ただ、静かな軽さだけが体の奥に広がっていた。


珠緒はゆっくりと顔を上げる。


燈真は珠緒の手を見ていた。表情は変わらない。けれど、その視線は触れている指先から離れない。何かを確かめるように、静かな集中がそこにあった。


時間が過ぎる。


一つ、二つと呼吸を重ねる。


それでも、何も起こらない。


珠緒はそっと口を開いた。


「……平気です」


燈真の視線が上がる。


「何も、感じません」


燈真はわずかに眉を寄せた。


「苦しくは?」


珠緒は首を横に振る。


「むしろ、軽いんです」


それは飾らない本音だった。胸の奥の重さが消えた状態は、驚くほど静かで穏やかだった。今までずっと何かを背負っていた体が、突然それを失ったような感覚だ。


燈真はしばらく黙っていた。


沈黙の中で、彼の指先がほんのわずかに強張る。力を込めたわけではない。ただ、何かが起きるのを待つように、慎重に触れている。


やがて、燈真が低く呟いた。


「……おかしい」


その声は、独り言に近かった。


「今まで、こういうことは一度もありませんでした。人に触れれば、相手は弱ります。草木でも同じです。触れている時間が長いほど、命は削られていく」


珠緒はその言葉を聞きながら、燈真の横顔を見つめた。


声は淡々としている。けれど、その淡々とした響きの奥に長い年月が積み重なっていることが分かる。触れれば奪ってしまう。だから触れないように生きてきた。その時間が、そのまま言葉の奥に沈んでいた。


珠緒はゆっくりと口を開いた。


「……私も、似ています」


燈真が顔を上げる。


「人の苦しみを受け取ってしまう体質だとお話ししました。近くにいる人の疲れや痛みが、少しずつ流れ込んできます。長く一緒にいれば、それはもっと重くなります」


珠緒は胸に手を当てた。「だから、人の多い場所は苦手でした」


言いながら、少しだけ視線を落とす。


「でも——あなたに触れている間は、何も感じません」


部屋の空気が静かに張り詰めた。


燈真はゆっくりと息を吐き、しばらく考えるように沈黙してから低く言う。


「あなたの呪いは、受け取るもの」


「私の呪いは、奪うもの」


「互いの呪いが、打ち消し合っている、のか……」


珠緒の胸がわずかに鳴る。


それは不思議なほど自然な結論だった。奪う呪いと、受け取る呪い。向きが逆なら、ぶつかれば消える。


しばらく、どちらも動かなかった。


珠緒はまだ、燈真と指先で触れたままだった。


離すべきだ、と頭では分かっている。確かめることは確かめた。けれど体が、その判断より少し遅れていた。重さのない体でいることが、こんなにも穏やかなものだとは思わなかったのだ。


珠緒は自分の指先を見た。


燈真の指が、重なっている。


その手は思っていたより温かかった。強く握られているわけではない。離そうと思えば、すぐに離せる程度の触れ方だ。


それなのに、燈真もまた離そうとしない。


珠緒はふと気づく。


今まで人に触れるとき、珠緒はいつも少し身構えていた。何が流れ込んでくるのかを、無意識に覚悟していた。それが当たり前だったから、気づいてさえいなかった。


けれど今は、その身構えがない。


ただ、ここにいる。それだけだった。


——ずっと、こうだったら。


その考えが頭をよぎった瞬間、珠緒は静かに目を伏せた。


いけない。


これは確認だった。それだけのはずだ。そんなことを望んではいけない。


やがて、燈真がゆっくりと手を離した。


指先が離れる。


その瞬間、珠緒の胸の奥に鈍い重さが戻ってきた。ほんの少しではあるが、確かに戻っている。


珠緒がわずかに息を止めると、燈真が静かに言った。


「……戻りましたか」


「少しだけ」


燈真はわずかに視線を落とし、触れていた自分の手を見たあとで言った。


「つまり、触れている間だけ——呪いは消える」


珠緒は小さく頷いた。


二人のあいだに、言葉のない時間が流れる。


触れていないはずなのに、まだどこか静かな感覚だけが残っている気がした。


珠緒はふと視線を巡らせた。


書棚が目に入る。整然と並んだ本の中に、一冊だけ少し違うものがあった。薄い表紙の、絵の描かれた本だった。


珠緒はそれを手に取る。


「これは……」


子供向けの物語だった。


けれど本の角はほとんど擦れていない。ページも固く閉じたままで、何度も開かれた形跡がなかった。


珠緒は小さく首を傾げる。


「読まれたことは、ないのですか」


燈真は少しだけ目を細めた。


「……ありません」


「誰かに、読んでもらうことも?」


燈真は短く答えた。


「ありません」


その声は変わらない。けれど珠緒は、その言葉の奥にある時間の重さを感じた。


幼い頃から、誰にも触れられなかった人。

手を引かれることも、本を読んでもらうこともなく育った人。


珠緒はそっと本を棚へ戻した。


「……お役に立てたなら、良かったです」


燈真の眉がわずかに動く。


「役に立つ?」


珠緒はきょとんとした顔をした。


「はい。私は、そのために来ましたから」


当然のように言う。


その言葉に、燈真はしばらく黙っていた。何かを言いかけて、やめる。そのまま珠緒を見ていた。


やがて、低く言葉を落とす。


「あなたは——そうやって生きてきたのですね」


珠緒は少しだけ首を傾げた。その仕草は、本当に自然だった。


燈真は静かに珠緒を見ている。


珠緒はふと口を開いた。


「……あなたも、ずっと重かったのではないですか」


燈真が顔を上げる。


「触れれば命を奪うなら……ずっと、一人でいなければならなかったでしょう」


「それは、きっと、とても重いことです」


燈真は何も言わない。けれど、その沈黙は先ほどとは少し違っていた。しばらく言葉を探すように黙ってから、ようやくひとこと口にした。


「……そうかもしれません」


それだけだった。


珠緒は静かに一礼した。


「失礼します」


襖へ向かうと、燈真が低く言った。


「……送ります」


珠緒は少し驚いた顔をした。


燈真は珠緒の後ろを数歩だけ歩く。


廊下に出ると、二人の距離は昨日よりわずかに近かった。それでもまだ、指先が届くほどではない。


珠緒は振り返り、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


答えはなかったが、背中に燈真の視線を感じながら、珠緒は歩き出した。


燈真は、しばらくその場に立っていた。


さきほど触れていた指先だけが、まだわずかに熱を残していた。

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