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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第3話 呪いの相殺

珠緒は、その夜なかなか寝付けなかった。第3話 呪いの相殺


灯りを落とした部屋は静かで、障子の向こうを渡第3話 呪いの相殺る風の音だけがかすかに聞こえている。けれど胸の奥は、少しも静かではなかった。目を閉じるたび、朝の渡り廊下の光景がありありと蘇る。


倒れかけた体。咄嗟に伸びた手。手首に触れた温もり。そして、長く胸の奥に澱んでいたものが、嘘のように消えていったあの瞬間。


あれは錯覚ではない。


そう思うたびに、今度は別の感覚が珠緒の胸を満たした。戸惑いと、恐れと、ほんのわずかな期待だった。


燈真の手が離れた途端、重さは戻ってきた。つまり、あの軽さは偶然ではない。燈真に触れている間だけ、自分の呪いは静まっていたことになる。


珠緒は寝具の上で身じろぎし、そっと自分の手首に触れた。もうそこに温もりは残っていない。それでも、皮膚の下にだけ記憶が沈んでいる気がした。


翌朝、珠緒はいつもより早く目を覚ました。


まだ空が淡い色をしている時間だった。起き上がると、胸の奥にはすでに鈍い重さが沈んでいる。昨日の軽さを知ってしまった今では、それが余計に際立って感じられた。


部屋を出ると、廊下の向こうで若い女中が朝の支度をしていた。目の下にはうっすらと疲れが見える。珠緒が近づくと、女中は慌てて振り返り、頭を下げた。


「おはようございます、奥様」


その声とともに、女中の疲れがわずかに流れ込んでくる。肩のこり、浅い眠り、まだ残っている眠気。胸の奥に重さが一つ落ちる。珠緒は小さく息を吐いた。


やはり、戻っている。


昨日の出来事のあとも、自分の呪いは消えてはいなかった。ただ、燈真に触れたときだけ静まったのだ。


珠緒は女中に微笑み返し、その場を離れた。


歩くたび、屋敷の空気に混じる疲れや痛みが少しずつ重なっていく。慣れているはずなのに、今日はそれがどこか遠いものに思えた。あの軽さを知ってしまったからだろう。消えないものだと思っていた苦しみが、一瞬でも消えた。それだけで世界の見え方が変わってしまうのだと、珠緒は初めて知った。


午前のうち、珠緒は部屋で一人過ごした。手元の本を開いても文字は頭に入らず、刺繍に手を伸ばしても針先が落ち着かなかった。どうしても考えてしまう。


燈真は、あのとき何を感じたのだろう。


自分と同じように、何かが消えたのか。それとも、ただ驚いただけなのか。昨日の彼の目には、確かに困惑が浮かんでいた。礼を失わないまま距離を置こうとしていた男が、朝のあの一瞬だけは、自分の感情を隠しきれていなかった。


やがて昼前になり、部屋の外で足音が止まった。


「奥様」


襖の向こうから年配の使用人の声がする。


「旦那様がお呼びです」


珠緒は手の中の針を置いた。胸の奥が、わずかに強張る。


「……私を、ですか」


「はい。書斎へお越しくださいとのことです」


珠緒はしばらく返事ができなかった。呼ばれる理由は、きっと一つしかない。昨朝のことだ。


やがて「承知しました」と答えると、使用人は深く一礼し、静かに下がっていった。


珠緒は立ち上がる。鏡に映る自分の顔を一度だけ見て、軽く衣を整えた。胸の奥の重さは相変わらずある。けれどそれとは別に、呼吸の浅さが自分でも分かった。


書斎は、屋敷の奥にあるらしい。昨日、使用人たちが誰も近づこうとしなかったあの廊下の先だ。


珠緒がそこへ向かうと、やはり途中から人の気配が薄くなっていった。すれ違う使用人はいても、皆が自然と足を止め、一定の距離を保って頭を下げる。屋敷の中にはっきりと線が引かれているようだった。ここから先は、誰も踏み込まない。その理由は、珠緒にももう分かっている。


この家の当主は、触れてはならない人なのだ。


書斎の前まで案内した使用人も、襖の手前で止まった。


「こちらでございます」


それだけ告げて一歩下がる。珠緒は小さく頷き、自分で襖を開けた。


室内は簡素だった。大きな机と書棚、窓辺に置かれた長椅子。余計な装飾はない。午後の光が静かに差し込み、畳の上に白く落ちている。


その奥に、燈真が立っていた。


昨日や一昨日と変わらない静かな表情。それでも珠緒には分かった。彼もまた平静ではない。わずかに張り詰めた空気が、部屋の中に漂っていた。


「お呼び立てして、申し訳ありません」


燈真が先に口を開いた。低く落ち着いた声だが、少しだけ硬い。


「いいえ」


珠緒は襖の内側で一礼する。


燈真はすぐには次の言葉を継がなかった。視線を珠緒に向けたまま、机の端に置いた指先がほんのわずかに動く。何かを慎重に言葉へ変えようとしているのだと分かった。


しばしの沈黙のあと、燈真はようやく言った。


「昨朝のことを、お聞きしたい」


珠緒は静かに頷く。


「はい」


「あなたは、渡り廊下で気分を悪くされた」


それは確認するような口調だった。


「ですが……私が触れたあとのあなたの顔色は、明らかに変わっていた」


珠緒は息を止める。燈真の目はまっすぐだった。責めるでもなく、試すでもなく、ただ事実を見極めようとしている。


「その後、私の手が離れたとき、あなたはまたわずかに顔色を変えた」


燈真はそこで言葉を切った。


「何が起きていたのか、聞いてもよろしいでしょうか」


珠緒はすぐには答えられなかった。


こんなふうに問われるのは初めてだった。これまで白瀬家で問われたのは、役に立つかどうかだけだ。何を感じたのか、そんなことを知ろうとした者はいない。


珠緒は指先をそっと握り、言葉を探した。


「……私には、少し変わった体質があります」


燈真は黙って聞いている。


「近くにいる人の苦しみや痛みを、受け取ってしまうんです。病でなくても、疲れや、苛立ちや、息苦しさのようなものまで……」


言葉にしながら、珠緒は自分の胸の内を確かめる。口にしてしまえば、それはあまりにも当たり前のことのようで、逆に不思議だった。


「ずっとそうでした。ですから、昨日も今朝も、廊下を歩いているだけで胸の奥に重さが溜まっていったんです」


燈真の表情は変わらない。だがその目の奥で、何かが静かに結びついていくのが見えた。


珠緒は続ける。


「けれど、あなたに触れられた瞬間……それが全部消えました。何も流れ込んでこなかったんです。それどころか、胸の奥にあった重さが、初めてなくなりました」


部屋の中が深く静まる。


燈真はわずかに目を伏せ、それから短く息を吐いた。


「やはり」


小さな、独り言のような声だった。


珠緒は顔を上げる。


「やはり、とは……」


その問いに、燈真はすぐには答えなかった。窓から差し込む光が、彼の横顔を淡く照らしている。やがて燈真は、どこか決意を固めたように視線を戻した。


「あなたには、知っておいていただくべきでしょう」


珠緒の背筋が伸びる。


燈真は机から一歩離れた。しかし珠緒との間にはまだ十分な距離がある。触れようと思っても簡単には届かない距離だ。その距離を保ったまま、燈真は静かに言った。


「私の呪いは、触れたものの命を奪います」


珠緒は息を呑んだ。


もちろん、噂としては知っていた。だからこそ、この婚姻が結ばれたのだ。けれど当人の口から聞かされると、その言葉の重みはまるで違う。


燈真は続ける。


「人だけではありません。草木も、獣も、長く触れていれば弱っていく。幼い頃、それで多くのものをなくしました」


その声音は淡々としている。だが珠緒には、その淡々しさこそが、どれだけ長く彼がこの事実と共に生きてきたかを物語っているように聞こえた。


「手を取ろうとした乳母が倒れたことがあります。庭で遊んでいて、子犬に触れたこともありました。どちらも、翌日には動かなくなっていた」


珠緒は何も言えない。


ふと、書斎の窓の外に目が向いた。庭の木々は、どれも建物から少し離れた位置にある。手入れが行き届いているのに、誰も近づかない。それはこの屋敷の使用人だけでなく、庭の形そのものがそうなっているのかもしれなかった。


「それ以来、私は誰にも触れないようにしてきました。屋敷の者たちが距離を置くのも、正しいことです」


燈真はそこでわずかに視線を逸らした。


「だから昨日、あなたを支えたのは本当に咄嗟のことで……正気に戻ったとき、自分が何をしたのか分からなくなった」


その言葉に、珠緒は朝の一瞬を思い出す。燈真の目に浮かんだあの困惑は、驚きだけではなかったのだ。恐れていたはずのことが起きたのに、何も起こらなかった。その意味を、彼自身が受け止めきれていなかったのだろう。


珠緒はゆっくりと息を吐いた。


「……では、私に触れても、あなたの呪いは働かなかったのですね」


「少なくとも、昨朝は」


燈真はしばらく黙っていた。


珠緒の話を聞きながら、彼は一度だけ視線を落とした。机の縁に置いた指先が、ほんのかすかに動く。何かと戦っているような、短い静止だった。


この人は、話したくないのかもしれない。珠緒はそう思った。昨日のことを問い質したいなら、もっと単刀直入にできたはずだ。それなのに呼んだ。そして今、迷っている。


「だから、確かめたいのです」


珠緒はその言葉を静かに受け止めた。


確かめたい。おそらく自分も同じだった。あの一度きりの奇跡が、本当に奇跡なのか、それとも自分たちの間でだけ起きる現象なのか。


燈真はほんのわずかに眉を寄せる。


「本来であれば、頼むべきことではありません。あなたに危険が及ぶかもしれない」


「でも、確かめなければ分からない」


珠緒は、自分でも驚くほど自然にそう口にしていた。


燈真が目を上げる。


珠緒は続けた。


「私も知りたいんです。あのとき何が起きたのか」


言い終えてから、少しだけ胸が鳴った。自分のために何かを知りたいと思ったのは、いつぶりだろう。白瀬家では、知ることも望むことも許されなかった。ただ命じられた役割を果たすだけだった。


けれど今は違う。


この問いは、誰かのためだけではない。自分自身のためでもある。


燈真はしばらく黙って珠緒を見ていた。その沈黙は重くない。ただ、何かを測るような静けさだった。


やがて彼はゆっくりと頷く。


「……では、少しだけ」


珠緒は息を整えた。胸の奥には、いつもの重さがある。けれどその奥で、別の熱も小さく揺れていた。


燈真との距離は、まだ数歩分ある。その数歩が、やけに遠く感じられた。


珠緒はそっと右手を差し出す。白い指先が午後の光を受けてかすかに震える。燈真はその手を見たまま動かない。彼にとって、それがどれほど重い行為なのか、珠緒にも分かった。


触れれば命を奪う。その呪いを知りながら、なお手を伸ばすこと。


燈真は一度だけ目を伏せ、それからゆっくりと手を上げた。


二人の指先のあいだに残る距離は、ほんのわずかだ。


珠緒は自分の鼓動を聞いていた。胸の奥の重ささえ、その音に押されて遠のいていくような気がする。


燈真の指先が、ためらうように宙で止まる。


けれど次の瞬間、その手は静かに珠緒の手へ触れた。


そして――

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