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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第2話 触れる

蛟家で迎える最初の朝は、思っていたよりも静かだった。


珠緒は目を覚ましたとき、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない天井。障子越しに差し込む朝の光。耳に届くのは、遠くで揺れる庭木の葉擦れだけ。


やがて昨日のことを思い出す。輿入れ。蛟家。そして――燈真。


珠緒はゆっくりと身を起こした。体は思っていたより重くない。そのことに少しだけ安堵する。環境が変わると、人の感情も変わる。白瀬家では、朝起きたときから誰かの不機嫌や倦怠が胸の奥に沈んでいることが多かった。


ここでは、まだそれが薄い。


それでも立ち上がる頃には、胸の奥に鈍い重さが戻り始めていた。


廊下に出ると、すぐに理由が分かる。


「おはようございます、奥様」


頭を下げる女中の声は丁寧だったが、その肩には目に見えない疲れがのしかかっていた。珠緒の胸の奥に、じわりと同じ重さが流れ込んでくる。珠緒は慣れた呼吸でそれを受け止めた。――いつものこと。


歩くたび、すれ違うたび、誰かの疲れや痛みがわずかに移ってくる。大したものではない。長く一緒にいれば別だが、すれ違う程度なら耐えられる。それでも数が重なれば、体は少しずつ重くなる。


女中は一礼すると、すぐに下がった。珠緒はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。


ふと、違和感に気づいた。


廊下には人がいる。働いている気配もある。けれど、どこか空白がある。昨日も感じた違和感だ。珠緒は視線を巡らせた。


そして、すぐに分かる。


屋敷の奥へ向かう廊下。そこだけ、誰も近づかない。使用人は盆を置く位置を決めているかのように同じ場所で立ち止まり、必要以上に奥へ踏み込まない。視線さえ向けない者もいる。関わること自体を、皆が避けていた。


珠緒は足を止めた。その奥にいるのは、この家の当主――蛟燈真。昨日、広間で見た男の顔が脳裏に浮かぶ。整った顔立ち、冷ややかな静けさ。そして、あの距離。夫婦として対面するには、あまりにも遠い位置。


珠緒は小さく首を振った。考えても仕方のないことだ。この家には、この家の事情がある。


珠緒は再び歩き出した。けれど一度だけ、廊下の奥へ視線を向ける。


そのとき、胸の奥に流れ込んできた重さが、いつもより少しだけ強くなった。


廊下を曲がると、奥庭へと続く渡り廊下が見えた。朝の光が白く差し込み、磨き込まれた板の床が静かに光を返している。庭の木々はまだ朝露をまとい、葉の先で小さく揺れていた。


珠緒はそのまま歩き続けた。


歩くほどに、胸の奥の重さが少しずつ増していく。


使用人とすれ違うたび、ほんのわずかな疲れや痛みが流れ込んでくる。肩のこり。眠気。言葉にしない苛立ち。そうしたものが、静かに積み重なっていく。


それは珍しいことではなかった。


白瀬家にいた頃も、こういう朝はよくあった。家中の人間がそれぞれの不満や倦怠を抱えている日は、珠緒の体も自然と重くなる。


珠緒は呼吸を整えながら歩いた。


慣れている。


そう思いながらも、今日の重さはどこか違った。


一つ一つは小さいのに、胸の奥に沈んでいく速度が少しだけ早い。


珠緒は足を止めた。


渡り廊下の向こうから、二人の使用人がやってくる。盆を持った若い女中と、その後ろを歩く年配の男だった。二人は珠緒に気づくと、すぐに立ち止まり、深く頭を下げる。


「おはようございます、奥様」


珠緒も軽く頭を下げ返した。


その瞬間、胸の奥にもう一つ重さが落ちてくる。


女中の疲れだろうか。いや、それにしては少し強い。


珠緒は視線を上げた。


二人の使用人は、珠緒の横を通り過ぎようとして――ふと同時に足を止めた。


わずかな間。


次の瞬間、二人はそろって廊下の端へ身を寄せた。


珠緒の後ろを見ている。


珠緒は振り向こうとして、少しだけ躊躇した。

理由は分からない。けれど、胸の奥の重さがまた一つ増えた気がした。


ゆっくりと振り返ると、廊下の奥に、人影があった。


静かな足音が近づいてくる。


その歩みは速くもなく、遅くもない。ただ一定の調子で、迷いなくこちらへ向かってくる。廊下に差し込む朝の光の中で、その姿はゆっくりと輪郭を持ちはじめた。


黒い髪。整った顔立ち。冷えた水面のように静かな目。


蛟燈真だった。


珠緒は無意識に背筋を伸ばした。昨日、初めて対面したばかりの夫。夫と呼ぶには、あまりにも距離の遠い相手。


燈真は珠緒に気づいているはずだった。だが足取りは変わらない。近づくでもなく、避けるでもなく、ただ決められた線を歩いているような静けさだった。


珠緒の胸の奥が、わずかに重くなる。


理由は分からない。ただ、さきほどよりも確かに重い。


珠緒の後ろにいた二人の使用人は、さらに壁際へ身を寄せた。廊下の端ぎりぎりまで下がり、頭を下げたまま顔を上げない。嵐をやり過ごすように、身を縮めていた。


珠緒はその様子を見て、少しだけ首をかしげた。


燈真は歩みを止めず、距離が少しずつ縮まっていく。

そのたびに、珠緒の胸の奥へ流れ込む重さが増していった。


小さな痛み、疲れ、息苦しさ。誰かの感情ではない、もっと重く、もっと濃いもの。


珠緒は思わず呼吸を整えた。


おかしい。


人とすれ違うだけでここまで重くなることは、ほとんどない。


それなのに――


一歩。


また一歩。


燈真が近づくたび、胸の奥の重さが増していく。


珠緒の視界が、ほんのわずか揺れた。


床板の木目が、ゆっくりと歪む。

珠緒は足を踏み出そうとして、ふらりと体を傾けた。


足元が、わずかに遅れた。


踏み出したはずの足が床を捉えきれず、体の重心が静かに崩れる。珠緒は咄嗟に手を伸ばしたが、掴めるものは何もなかった。視界が揺れ、廊下の光が白くにじむ。胸の奥に沈んでいた重さが、一気に流れ込んできた。


――しまった。


そう思ったときには、もう遅かった。体が前へ傾く。その瞬間、目の前の空気が動いた。


燈真の足音が一つだけ速くなる。次の瞬間、珠緒の手首を誰かの手が掴んだ。力強くもなく、乱暴でもない。ただ確かに、倒れかけた体を支えるだけの力だった。


珠緒の手首を、燈真の手が掴んでいた。


そのことを理解するより先に、胸の奥で何かが変わった。沈み込んでいた重さが、すっと引いていく。胸の奥を占めていた濃い重みが、嘘のように消えていった。呼吸が軽くなる。視界が澄む。


珠緒は目を瞬かせた。


同時に、燈真の手もわずかに強張る。珠緒を支えていたその手が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。今起きていることを、受け止めきれていないかのように。


廊下は静まり返っていた。後ろにいた使用人たちは、顔を上げることさえできずに固まっている。


珠緒はまだ、燈真に手首を支えられたままだった。二人の距離は、昨日の広間とは比べものにならないほど近い。近すぎるほどに。


珠緒はその手を見た。細く長い指。骨ばった節。冷たいと思っていたその手は、意外なほど温かかった。


そして珠緒は、はっきりと気づく。


胸の奥の重さが、完全に消えている。


こんなことは、今まで一度もなかった。


珠緒はゆっくりと顔を上げた。燈真もまた、珠緒を見ている。その目には、昨日の広間では見えなかったものが浮かんでいた。


驚き。


そして――わずかな困惑。


燈真は何かを言いかけた。しかし言葉は出ない。ただ珠緒の腕を掴んだまま、立ちすくんでいる。


その沈黙を、珠緒が先に破った。


「……申し訳ありません」


珠緒は小さく頭を下げようとした。だが腕を掴まれているため、うまく身を引けない。


「足を滑らせてしまって」


燈真の手が、はっとしたように離れた。今になって初めて触れていることに気づいたかのようだった。


珠緒の腕から燈真の手が離れ、その瞬間――胸の奥に、鈍い重さが戻った。


珠緒はわずかに目を瞬かせる。先ほどまで完全に消えていたはずの重みが、再びゆっくりと胸の奥に沈みはじめていた。燈真もまた、それを感じ取ったようだった。


彼は一歩、後ろへ下がる。距離を取る動きだった。昨日、広間で見たのと同じ距離。最初からそこに線が引かれているかのように、正確な位置へと戻っていく。


燈真はしばらく珠緒を見ていた。


「……大丈夫ですか」


低い声だった。けれど今度は、昨日のような形式的な響きではなかった。


珠緒は小さく頷く。


「はい。もう、平気です」


それは嘘ではなかった。実際、先ほどまでの重さは消えていたのだから。


ただ――


珠緒は自分の手をそっと見た。


燈真に支えられた瞬間、胸の奥で澱んでいたものが、すべて消えていた。


燈真の視線もまた、珠緒の手へ落ちていた。そしてゆっくりと、先ほど自分が掴んでいた彼女の手首へ。


燈真はわずかに眉を寄せる。


「……今」


短く言いかけて、言葉が止まる。


珠緒は顔を上げた。


燈真は何かを言おうとしている。だが、その言葉はうまく形にならないようだった。


しばらくの沈黙。


やがて燈真は、ほんの少しだけ視線を伏せた。


「……失礼しました」


それだけ言うと、燈真は体を引いた。先ほどまでの距離よりも、さらにわずかに遠くへ。

珠緒はその動きを見て、ほんの少しだけ胸がざわめいた。


距離を置かれている。


それは昨日も同じだったはずなのに、なぜか今は少し違って感じられた。


燈真は使用人たちへ視線を向ける。


「もうよい」


低い一言。


それだけで、廊下の空気が動いた。

壁際に控えていた二人の使用人が、慌てて頭を下げ直す。


「お部屋までお送りしろ」


「は、はい」


女中が慌てて前へ出た。


珠緒は小さく一礼する。


「ありがとうございます」


燈真は頷きもせず、ただ、珠緒を見ていた。


珠緒は女中に促されて歩き出し、廊下を数歩進んだところで、ふと振り返った。


燈真はまだそこに立っていた。朝の光の中で、静かに。けれどその目は、昨日のような冷たい静けさではなかった。


珠緒は一瞬だけその視線を受け止め、すぐに前を向いた。


胸の奥に、わずかな重さが戻っている。


けれど先ほどとは違う。


完全に消える感覚を、珠緒は確かに知ってしまった。


あの人に触れたとき。


珠緒は歩きながら、自分の手をそっと握る。


温もりは、もう残っていない。


それでも――


胸の奥に、奇妙な静けさだけが残っていた。

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