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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第1話 輿入れ

白瀬家の紋を染め抜いた黒塗りの車が、(みずち)家の門前で止まった。


珠緒は膝の上でそっと指を組み合わせる。そうしなければ、微かに震える手先を自分でも持て余してしまいそうだった。


御簾の向こうに見える蛟家の屋敷は、噂に違わぬ佇まいだった。長い石畳の先に構える門は重々しく、季節の色を落とした庭木はよく手入れされているのに、華美なところが少しもない。古い名家らしい威厳が、そのまま形になったような屋敷だった。


けれど珠緒が最初に覚えたのは、感嘆ではなかった。


――静かすぎる。


門が開かれ、出迎えの使用人たちが並ぶ。人数はいる。足りないわけではない。誰もが丁寧に頭を下げ、礼も作法も乱れがない。にもかかわらず、そこには妙な空白があった。


息を潜めているような静けさ。


歓迎のざわめきも、花嫁を迎える家の浮き立ちもない。ただ、音だけが綺麗に削ぎ落とされている。この屋敷そのものが、何かを恐れてひっそりと身を縮めているようだった。


「お嬢様、どうぞ」


付き添いの女中に促され、珠緒は車を降りた。


裾を乱さぬよう慎重に足を運ぶ。白瀬家で何度も叩き込まれた所作だ。花嫁として見苦しくないように。名家に嫁ぐ娘として恥をさらさぬように。いや、違う。正確には、白瀬家の看板に泥を塗らぬように、だった。


珠緒の足が石畳に触れた瞬間、近くにいた若い使用人がわずかに肩を強張らせた。ほんの一瞬だけ、苦いものを飲み込むような気配が伝わる。


それは珠緒にとって見慣れたものだった。


珠緒自身はずっと、これを呪いと呼んでいた。

人はみな、彼女のそばで少しだけ楽になる。


頭痛が引く。気分の悪さが和らぐ。胸の奥にたまった苛立ちや倦怠が薄らぐ。代わりに、それらは珠緒の内へ流れ込んでくる。


人は利用した。


具合の悪い使用人のそばへ立たされ、癇癪を起こす弟妹の機嫌を取るために呼ばれ、父の大事な客の前では「気の利く娘」として控えさせられた。彼らは皆、珠緒を見ていなかった。見ていたのは、自分たちを軽くしてくれる便利な器だけだ。


それでも珠緒がここまで来たのは、家のためであり、役目のためであり、命じられたからだ。


政略婚。


古い名家である蛟家は、体面こそ保っているものの財政難に喘いでいる。成り上がりの富豪に過ぎない白瀬家は、金はあっても由緒が足りない。ならば互いに不足を補えばよい――それがこの婚姻の建前だった。


珠緒はそのための駒でしかない。


それでも、知らない家へ嫁ぐのなら、せめて今までとは違う何かがあるのではないかと、ほんの少しだけ期待していた。けれど門をくぐってすぐ、その淡い期待は静かにしぼんでいった。


ここでも同じだ。


この屋敷にも、この家の都合がある。白瀬家とは別の形をしているだけで、珠緒が「何か」として数えられることはないのだろう。


案内されるまま、珠緒は屋敷の中へ進んだ。


廊下は広く、柱や欄間には年月を経た美しさが宿っている。歩けば衣擦れの音さえよく響くのに、人の気配は驚くほど希薄だった。使用人たちは必要なときだけ現れ、用が済めば水が引くように気配を消す。


その中でも珠緒の目を引いたのは、ある一点だけだった。


誰も、屋敷の奥へ近づかない。


廊下の端で立ち止まり、盆を置き、一定の距離を保って頭を下げる。そこから先へ踏み込むことを、誰も無意識のうちに避けている。


珠緒は視線だけを巡らせた。


あそこにいるのだ、この家の当主が。


彼女の夫となる人が。


「旦那様をお呼びいたします」


年配の使用人がそう告げ、珠緒を広間へ通した。


襖の向こうから射し込む午後の光が、畳の上に白く落ちている。整えられた室内には余計なものがなく、どこか冷たく感じられた。珠緒は座して待つ。背筋を伸ばし、袖口をそろえ、視線を落とす。


やがて、静かな足音がした。


一歩ごとに近づいてくるその気配に、部屋の空気がわずかに張り詰める。先ほどまで控えていた使用人たちが、そっと息を詰めるのが分かった。


珠緒は顔を上げた。


そこに立っていたのは、想像していたよりずっと若い男だった。


黒髪は艶もなく夜のように深く、整った顔立ちは冷ややかなほど端正だった。鋭さを秘めた目元のせいで気難しく見えるが、どこかひどく静かな印象がある。威圧的というより、近づきがたい。自ら壁を築いてしまった者の静けさだと、珠緒は思った。


(みずち)燈真(とうま)


由緒正しき蛟家の嫡男にして、現当主。


珠緒の夫になる人。


「……白瀬珠緒(しらせたまお)殿」


低く落ち着いた声だった。感情の起伏を抑えた、丁寧な呼び方。


「本日は、よくお越しくださいました」


珠緒は深く頭を下げる。


「白瀬珠緒にございます。未熟者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」


型通りの挨拶。幾度も練習した言葉。顔を上げると、燈真は正面にいながら、一歩――いや、半歩以上遠いところに立っていた。


その距離が、妙に不自然だった。


広間に通されたのだから、夫婦として対面するならもう少し近くてもよい。手を差し出すでもなく、隣に座るでもなく、燈真はあくまで珠緒に届かない位置を保っている。


近づいてはならないと、自分で決めているように。


「長旅でお疲れでしょう。必要なものがあれば遠慮なく申し付けてください」


言葉は礼を失していない。むしろ過不足なく整っている。だがそれだけだった。歓迎の色も、興味も、夫としての温度もない。


珠緒は胸の奥で小さく息をついた。


この人もまた、私を必要としているわけではない。


「……はい」


珠緒は静かに答えた。


それだけで会話は途切れた。


あまりにもあっさりとした対面だった。だが不思議と腹立たしさはなかった。期待していなかったからかもしれない。あるいは燈真の距離の取り方に、露骨な蔑みや嫌悪がなかったからだろうか。ただ、近づかない。それだけだ。だからこそ、余計に冷たくも見える。


燈真は一瞬だけ、何か言いかけるように唇を動かした。しかし結局何も言わず、視線を伏せる。


「部屋へ案内させます。今日はお休みください」


「……ありがとうございます」


珠緒が再び頭を下げると、燈真はそれ以上とどまらなかった。踵を返し、音もなく去っていく。その背を、誰も追わない。使用人たちもまた、彼が十分に離れてからようやく息をつくように動き始めた。


部屋へ向かう廊下で、珠緒はそっと自分の手を見る。


細く白い指先。宝の字を与えられながら、宝として扱われたことのない手。誰かに縋るためではなく、誰かの痛みを引き受けるために使われてきた手。


この手で、これから何を掴めるのだろう。


案内された部屋は広く、調度も過不足なく整えられていた。白瀬家で与えられていた部屋より、ずっと上等だ。けれど居心地のよさとは別のものだった。丁寧に整えられた空間は、かえって「ここにいてよい理由」を問うてくるように感じられる。


女中が一礼して去ったあと、珠緒はようやく一人になった。


障子越しの光が畳に淡く滲んでいる。遠くで鳥が鳴いた。屋敷は相変わらず静かで、その静けさの底に、言葉にならない緊張が沈んでいる。


珠緒はそっと膝を抱えた。


疲れているはずなのに、眠る気にはなれなかった。今日一日で人の痛みを吸い込んだわけではない。それでも胸の奥に、いつもの鈍い重さが残っている。白瀬家を発つ前、母が整えた簪を挿しながら「せいぜい役に立ちなさい」と淡々と言った声が耳に残っていた。


役に立つ。


その言葉は、珠緒の人生をずっと縛ってきた。


ここでもきっと同じなのだろう。


燈真が最初から距離を置いたのも、きっと何か事情があるにせよ、それは珠緒にとって珍しいことではない。近づいてはならないもの。便利ではあっても、触れたいとは思われないもの。そういう扱いには慣れている。


だから傷つくほどのことではない。


そう、自分に言い聞かせる。


けれど、広間で一瞬だけ見た燈真の目が、なぜだか胸に残った。冷たいだけではなかった。拒むというより、恐れているようにも見えたからだ。


何を。


誰を。


珠緒にはまだ分からない。


分かる必要もないのかもしれない。


政略婚で結ばれた夫婦に必要なのは、互いの心を知ることではなく、与えられた役目を果たすことだけなのだから。


珠緒は目を伏せ、小さく息を吐いた。


「ここでもまた……」


声に出した途端、その言葉はひどく静かな部屋に溶けていった。


きっと、同じだ。


障子の向こうを渡る風だけが、かすかに庭木を鳴らしていた。

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