光の道
古ぼけた家の横にある、その殆どを雑草に覆われた広い庭。その一角に、雑草が一本も生えていない、土がきれいに均され踏み固められた場所があった。五メルタ四方ほどのその空間に、ミリナは傍らに置いた本を見ながら、石灰で一心不乱に文字を書いていた。
「……H、R、E、S、と。これでよしっ」
慎重に最後の文字を書き終えたミリナは、石灰で真っ白になった手で、額にうっすらと浮かんだ汗の粒を拭う。そのせいで額が白くなったことには全く気付かず、ピョン、と跳ぶように立ち上がった。そして、腰に手を当て、自分が書き上げたものを満足げに眺める。
精確な大小の円が複数重なり、その中心のわずかな空間を残して、円の内側を全て埋め尽くす複雑な図柄。
一見、子供の落書きのようにも見えるその図柄は、この国の古代語に使われる古代文字とされ、現代では魔術でのみ使われている。魔術を習う者は古代語をある程度以上習得はするが、使うことはあまりない。うわさでは、ドラゴンや不死鳥などの古代からの生き物は古代語を使うと言われている。けれど、ドラゴンや不死鳥を見つけたことがある人の噂さえ、聞くことがない現在では、そのうわさすら真実だと思っている人はほんの一握りしかいない。
「うん、初めてにしては上出来じゃない?」
軽く手を打ち合わせて石灰を落とすと、地面に置いてあった本を手に取った。土に接していた面についている、少しだけ湿った土を払い、ミリナは真剣な顔で声に出してそれを読む。
「『魔法陣を書き終えたら、陣から出て、「エ・ラクス・サイエス、イル・ミカケスタ・メヌエ」と唱える。注意、この時には“必ず”魔法陣の外に出ていること』——陣から出てって書いてあるのに、注意書きがある意味ないんじゃないのかな?」
と、ついさっきまでいた場所から一歩も動いていない、魔法陣の中心で呟くミリナ。
直後、石灰で書いた文字が仄かに光り出したことで、ミリナはようやく自分が魔法陣の中にいたことを思い出した。
「え? ウソ、な、何で?」
慌てて陣から出ようとするも、体の隅々まで何かに押さえつけられているかのように、指一本動かない。そのうちに、光は強くなっていき、同様にミリナを押さえつける力も、彼女を圧縮しようとでもいうかのように強くなっていく。
「ちょ、まって。こ、これ止めらんないの? ウソっ、あたしどうなるわけ!?」
完全に事態についていけていないミリナをよそに、その光は完全に彼女をのみこみ、彼女の叫びは誰に聞かれることもなく、広い敷地に波紋のように響き渡り、消えた。
◆◇◆◇
ローファ・カイエンはその村で唯一のハンターだ。
このハンターと言うのは、自分が住む地域の人々に害を為し、自分達の生活を脅かす、魔獣や妖獣を狩ることを生業とする者のことをいう。人々は敬意や畏怖、そして稀に侮蔑を込めて「破魔狩人」と呼んだりもしている。
ともあれ、その時ローファは、村の近くの森に村人を襲う魔獣が最近住みついたという話を聞いて、それに対抗する幻獣を召還しようとしていた。
ハンターといえども、いくら武装していたとしても単身で魔獣と対峙して生き残れる確率は、万に一つ、否、億に一つあるかないかといわれている。そのため、大抵のハンターは、狩りを行う際、媒介(大抵の場合、呼ぼうと思っている幻獣の好きな食べ物が用いられる)を用いた召還術で異界から幻獣を呼び出し、共に行動させる。逆に、召還術が使えない者は、いくら腕っ節が強くても、周囲にハンターと認められることはない。
とはいえ、いくら村に害がないといっても、村の中で幻獣を呼び出すと、妖獣と間違えられることが多く、それなりの騒ぎになる。そのため、森に入り、村から少し距離をとったところで、ローファは右手でポケットから拳ほどの大きさの、赤い木の実を取り出した。
「ラウ、サウシータ」
小さく呟くと、媒介となる木の実が発光し、異界に繋がる光の門、「次元の扉」が出来上がる。そして、術が成功した場合、その光の中から幻獣が歩いて出て来るのだが——。
「へっ?」
べちゃっ、と言う効果音をともない、放り出されるように次元の扉から落ちてきたのは、少女だった。
「〜〜〜っ」
はいつくばるような姿勢で着地した少女は、言葉にならない呻き声をあげる。
緩やかに波打った、夕陽を思わせる銅色の髪は肩の辺りできれいにそろえられている。人工的にすら思われる、染み一つない白磁の肌に、触れれば折れてしまいそうな細く、華奢な体躯。少女が数秒経っても動かないので、どうしたのかとローファが心配になってきたところで、少女はゆっくりと体を起こした。
「だ、大丈夫か?」
驚きを隠せない(隠す気もなかったが)ローファが少女に声をかけると、少女は一拍置いて、勢いよく顔を上げた。鋭角的な顔立ちのわりに人懐っこそうな淡い碧眼には、落ちた時に打った場所がよっぽど痛かったのか、今にも溢れ落ちそうなほど涙が溜まっていた。が、それ以上に大きく見開かれている。それを見ているローファまで瞳が乾いて目が痛くなってきそうだった。
少女はローファを見て暫く硬直し、それから、人形のようなぎこちなさで首を幾度も縦に振った。
「ダ、ダイジョーブ、でス」
少女の声は鈴を転がしたような、とも表現できるが、どうも驚きで声が裏返ってしまっただけのようった。そして、どこかのなまりなのか、発音も少しおかしかった。
とりあえず話を聞いてみようと、ローファは少女の前に腰を下ろした。
◆◇◆◇
光に呑まれたミリナは、一瞬、どこかを落下するような感覚を覚え、別の場所に放り出された。当然、受け身をとる余裕もなく、そのまま思い切り地面に激突する。
「〜〜〜っ」
地味に、そしてかなり痛い。その上、落ちた時の衝撃が電気ショックのように全身を駆け巡り、それが収まるまで少しの間、ミリナははいつくばったような体勢のまま固まっていた。そして、体の至る所にまだ少し残る痺れと、痛みに目を潤ませながらも、両手をついてのろのろと体を起こすと、目の前に驚き、狼狽えたような青年がいた。
『だ、大丈夫か?』
(……え?)
一瞬、ミリナは青年の言葉が理解できなかった。明らかに普段使っている言葉ではないい、けれど、どこかで聞いた覚えのある言葉だった。未だに混乱する思考で、懸命に記憶を探ると、思いの外あっさりと心当たりが見付かった。と同時に、たどり着いた結果に驚愕して目を見張りながら、顔を上げた。そして、目の前にいる青年を凝視する。
よく日に焼けた小麦色の肌に、光を反射し煌めく白銀に限りなく近い金髪。柔和そうに見えるたれ目は、しかし、瞳の吸い込まれるような緋色のせいでどことなく不気味な印象を与えられる。体格はかなりがっしりとしているけれど、ゴツいという言葉は浮かばない。あえていうならば筋肉質なのだろうが、それも服を着てしまっている今は、なかなかそうは見られない。少しだけおかしな服を着ているけれど、普通の人とは大して変わらないように見える。
そんな人が、何故、普通に古代語を話しているのだろうか。それに、発音も完璧なようだ。ミリナも古代語に関してはかなり出来る方だと自負していたが、青年のそれを聞いたとたん、そんな自信も露と消えてしまった。驚いてとっさに出てきた台詞だろうから、青年は古代語を日常的に使っているのだろう。そんな話、冗談でも聞いたことがない。
そこまで考えたところで、自分が最初の青年の言葉に応えていないことを思い出して、ミリナはかくかくと首を縦に振った。そして、どうやって返事をすればいいのか迷った挙げ句、青年に倣って古代語にすることにした。
「ダ、ダイジョーブ、でス」
我ながら酷い発音だと思う。青年は少し首を傾げ、困ったような顔をしながらもミリナの前に腰を下ろしてきた。
「……えーっと。とりあえず、お前、誰?」
妙に時間がゆっくりと流れるように感じられた数秒の沈黙の後、青年がそう切り出した。
「ハ、ハイッ。あたし、ミリナ・エリエっていいまスッ。ハ、はじめましテッ」
ミリナは背筋をピンと伸ばして挨拶する。いつもは親にも教師にも友達のように接している自分が、何でこの青年にはこんなに畏かしこまっているのか、なんてことは露ほども疑問に思っていない。というよりも、精神的にそんな余裕がなかっただけなのだが。
「ミリナか、珍しい名前だな。随分と訛ってるけど、どこ出身なんだ? というか、なんでお前次元の扉から落ちてきたんだ?」
「『ジゲンノトビラ』? ナンですか、そレ?」
ミリナが尋ねると、青年はいぶかしげに眉をひそめた。けれど、きちんと答えてくれた。
「知らないのか? 召還術を使った時に出来る、光の門みたいなやつだよ。引きずられると危ないから絶対に触るなって、この国のやつなら術を使えない赤ん坊だって知ってるぞ」
それを聞いたミリナは、僅かに首を傾げた。召還魔法を使った時の光は、魔法陣の図柄が発光するのであって、普通に考えれば門と言われるものではないと思う。そう言っている人にもあったことはない。それに、召還魔法は最近はほとんど使われなくなった魔法で、多くの国民に知られているなんてことは、術の存在の認識からして、ほぼないと断言できる。
そのことを青年に言うと、彼は今度こそ本当に不審者を見るような目でミリナを見てきた。
「そんなことあるか。ハンターは皆召還術を使っているんだ。現在進行形で新しい術の研究も進んでいる。俺たち以外にも使ってるやつは沢山いるから、術の需要はうなぎ上りだぞ」
「はんたー? そレよりモ、あたしが気にナってるのは、ナンであなたがそンなにりゅーちょーに古代語ヲ話せるノかッテことナんですケド」
「は? 古代語? ……さっきから思ってたんだけど、お前、頭大丈夫か? もしかしてさっき落ちてきた時にどっか打ったりした?」
少しだけ緊張もとれて、混乱もなくなってきたミリナの疑問に、青年は不審と哀れみの視線、そして気遣うような態度で返してきた。
「…………なンか、ものスゴくバカにされてル気がします」
あたしはおかしくなんかないもん、と続けてミリナは自分の母国語で呟いた。
「なんて言ったか?」
「ベツに、ナニも。——じゃナクてですねっ、…………えーっト、すみまセン、ここ、ドコですカ?」
耳ざとく聞きつけたらしい青年にミリナは頬を膨らませながら答え、すぐに頼りなさそうに尋ねた。
「あぁ、次元の扉から落ちてきたってことは、どっかからとんで来たってことだもんな。——カラマ国東端のジェニル村、そのすぐ横の森の中だよ」
「ドコですか、ソコは。あたし、カラマ国なんテ聞いたコトありまセンよ」
「は? 大陸で一番でかい国だぞ。聞いたことないなんてあり得ない」
「大陸デ一番おっきイ国はエストールですヨ」
「それは——」
と、そこで青年は言葉を切って、何か考え込むような仕草をした。
「……ミリナは次元の扉から落ちて来たんだよな……?」
そう言われて、ミリナはムッと眉をひそめる。
「初対面ノ人ニ馴れ馴れシク名前を呼び捨てにサれる覚えハありまセン。ジゲンノトビラから落ちテ来たからッテ、ナンだって言うンですカ」
「次元の扉は召還術を使った時に出来るって言っただろ。ミリナのいう召還術は知らないけど、俺が使ってる召還術って言うのは、基本的に異世界から動物を呼び寄せる術だ。っていうことは、次元の扉は異界に繋がってる筈なんだ」
前半の苦情は無視して、青年が続けた。
「ミリナ、異界から来たんじゃないか? さっきなんか言葉がどうのこうの言ってただろ」
「異界? ここハあたしがイタ世界とは違ウってコトですカ?」
「そういうこと。本来なら、俺は人間を召ぶことなんて出来ない筈だけど、今回は何かの手違いでミリナがこの世界にとばされてしまった。だから、俺の常識はミリナには通用しない。言葉も、何故かは知らないけど、こっちの言葉がミリナのいた世界の古代語だったから、さっきから一応会話は成立している。話の筋は通るだろう?」
「……そうイエバ、あたし召還魔法ヲ独学でやってミヨーと思っテ、まほーじンかいテ、資料読んダラ、あたしマダまほーじンの中ニいたのに、まほーガ発動しちゃッテ、光ニ呑まれテ——、解放されたト思ったラここだっタんデスよね」
数十分前にあったことを思い返して、ミリナが言った。
「それだ! 術のバグの原因は間違いなくお前だ!」
青年は叫ぶと同時に勢いよくミリナを指を差した。ミリナはと言えばいきなりの大声と、その内容に純粋に驚いていた。
「えェッ!? あ、あたしですカっ!?」
「要するに、術に失敗したんだろ? それで異界との通路が捩じ曲げられてバグが起こったんだろうよ」
「失敗しタンじゃ、ありまセン! ……チョット、手順ヲ間違えちゃっタだけデス」
言い訳だということは自覚していたので、後半は少し声が小さく、早口だった。
「それを失敗って言うんじゃないのか。まあいい、俺は魔獣狩りで使える幻獣を召還したはずだったんだ。だから」
そこで青年は言葉を切って、一呼吸置いた。それから改めて口を開く。
「幻獣のかわりに、魔獣狩りしてもらうからな、ミリナ」
にっこりと、青年は嫌味な程にきれいな笑顔を見せていった。
「何であたしが……、っていうか、こんなか弱い乙女に狩りをさせようとすることからして、絶対おかしいでしょ。戦闘スキルなんて持ってないっての。魔獣とかいうもの相手に、時間稼ぎにもなるはずないじゃない……。ローファの馬鹿ぁ、こんな見知らぬ異界らしき土地で、化物に食われて死ねとでも言いたいわけ? 大体——」
自分の数歩前を、森の奥へ奥へと迷うことなく進んでいくローファの後ろを、ミリナは母国語で絶えず文句を呟きながらついて歩いていた。
『幻獣のかわりに、魔獣狩りしてもらうからな、ミリナ』
そう言われたミリナは一瞬呆然となった。青年の言ったことはあまりにも自分の常識や予想からかけ離れすぎていて、理解できなかったから——否、理解したくなかっただろう。
「…………ハぁ?」
聞き返しながらも表情にはっきりと拒絶を表したミリナに、青年はミリナに笑いかけたまま繰り返した。
「だから、僕一人じゃ狩り出来ないから、ミリナも手伝って。っていうか寧ろミリナが仕留めて」
「ムリですヨ! トいうか、私は実家ニ帰らセていただきマス」
あれ、なんか違う? と思ったけれどミリナは、まあいいかと勢いで言いきった。立ち上がって、青年に背を向けて歩き出そうとしたところに、背後から一言。
「帰るって、どうやって?」
その言葉に、ミリナは踏み出そうとしていた一歩を戻し、百八十度回転すると、ストンと座った。そして、気まずそうに青年を顔を窺う。
「……えエト、どウしたら帰れルか、知ってマスカ……?」
青年からすれば上目遣いで縮こまっているミリナに、彼は愛想のいい、同時に底意地の悪い笑みを返す。
「知らないけど、多分俺が還せば帰れるんじゃないのか? 用事が終わるまでは帰さないけど」
つまりは今のところ変える手段はないということだ。
「イ、イヤですよ。ッテいうか、ムリでス! 絶対ムリ! 魔獣退治なんテしたラ、あたし死ンじゃいマス!」
「あ、そういやまだ俺の名前言ってなかったよね。俺はローファな、ローファ・カイエン。普通にローファでいいから。——じゃあそういうことで、ついてきて。」
青年——ローファは、ミリナの抗議には全く反応を示さずそう言うと、森の中を歩き始めた。彼に還してもらう以外に帰る方法を知らないため、おいていかれたミリナに、拒否権があるはずもなく、延々と文句を連ねながらも彼のあとについていった。
しばらく無言でミリナの前を歩いていたローファがいきなり立ち止まった。転ばないようにと足下を気にしながら歩いていたミリナは、それに気付かずに、頭突きするような形でローファの背中にぶつかった。
「うわっ! ナニするンですカ、ろーふぁサン」
ぶつかった反動でよろけたミリナは、講義の声をあげた。
「ぶつかって来たのはそっちだし、それはこっちの台詞だ。ついて来るのはいいけど、後ろでブツブツぶつぶつ、しかも意味のわからん言葉で喋るな。鬱陶しい」
ローファは、振り向いて面倒そうに言った。
その時、背後でガサガサと音がした。慌てて周りを見回したミリナは、随分と森の奥まで来たのか、木々の間隔がかなり狭くなっていることに気が付いた。今まではずっと足下しか見ていなかったから気が付かなかった。頭上を厚く葉が覆っている所為で、日差しが殆ど遮られ、まだ昼間の筈なのに森の中は薄暗い。自分たちがたてたものではない物音に体を硬くしているミリナに、ローファはからかうように、笑いを含んだ声をかけてきた。
「なんだ、どうかしたか? まさか今の音にビビったんじゃないだろ? この森は死の森じゃないんだ、動物がいたって何を警戒する必要があるんだよ」
「ベ、ベツに。ビビってナンか、イ、いまセンよ」
そう言いながらも、ミリナの中には一つの疑問が浮かんできていた。ローファが言うことはもっともだった。ここは森であって、生き物が住めない砂漠じゃない。獰猛な肉食獣もいれば、その影に怯える被食者の小動物だっている、虫まで考えれば、それこそ計り知れない数の動物がいる筈だ。けれど、ミリナはこの世界に来てから、今の今までその存在を全く感じていなかった。いくら鈍くても、そんなことがあり得るのだろうか。
ミリナとローファのたてていた足音が消えると、まるでこの森ごと全てのモノが深い眠りについてしまっているように、辺りが静寂に包まれる。森の腐葉土を踏む湿った音も、かすかな呼吸音も、聞こえた気がした半瞬後には、森の静寂に押しつぶされるように余韻も残さずに消えている。ともすれば、さっき聞こえた音も、自分たちのしゃべり声も、幻聴だったのではないかと疑ってしまうような。シン——と、耳が全ての能力を失ってしまったかのような無音。
「何ボーッとしてるんだ? 行くぞ。さっさと終わらせて家帰って飯喰いたい」
そんなことを考えていたミリナの様子に、ローファは全く気付かず、また歩き出していた。
「ア、はイ」
ミリナはローファとの間に出来た距離を小走りで縮めると、さっきと同じように彼の数歩後ろについていく。けれど、さっきまでとは違い無言で考え事をしているため、目の焦点も合っていなくて、すぐに木の根につまづいて転びそうになる。その所為で、いつの間にか数歩前にいた筈のローファとずいぶん距離が開いてしまい、ミリナは慌てて、木の影に隠れて見失ってしまいそうになったローファに追いつこうと、小走りになった。
そこでようやくミリナが遅れていることに気が付いたのか、ローファは足を止めて振り返った。彼が小走りになっているミリナを見て、口を開いた時——。
ズシンッッ。
という音とともに、地面が揺れた。その振動で足を滑らせたミリナは、転んで木の根の上に尻餅をついた。
「〜〜〜っ、いったァ」
ついでに木の幹にぶつけて、クラクラする頭をさすっていると、ローファの方からミリナのところに走り寄って来た。
「なに転んでんだよ。——今の揺れは多分魔獣が何か関係してるんだろうな、……近くにいるのか?」
呆れたようにミリナにてを伸ばしたローファは、すぐに厳しい顔をして当たりに気を配っているようだった。
「あノ、マジュウって、どんナものナンですか?」
ズシン、ズシン、と地響きのような音とともに少しずつ大きくなりながら続く揺れで、また転ばないように、ミリナは気にしがみつきながら、ローファに尋ねた。
「さあな」
即答だった。
「ナ、ナンですか、ソれ!? よくわからナイものヲ退治しニ行くンですか!?」
「魔獣っていうのは基本的に、異界から勝手に来て、この世界に住み着いた妖獣のことを言うんだ。だから種類は無数にいるし、よく見るのもいれば、何十年ハンターやってる人でも初めてみる魔獣だっている。俺は森に魔獣が住んでるっていう話しか聞いてないから、その魔獣がどんなやつかなんて知らない」
面倒臭そうにそう言ったローファに、ミリナは避難まじりの視線を送る。
ドクン、ドクンと、二人が無言なために生まれた森の静寂に、自分の鼓動の音が嫌にはっきりと、響き渡って聞こえる。自分を落ち着かせるために深く息を吐いても、心臓は反抗期で脳に逆らうように早鐘を打っている。一秒、二秒と数えてみても、今までにない緊張に途中から同じ数ばかり繰り返してしまう。
だんだんと地面の振動のもとが近付いて来るにつれて、葉のこすれる音も一緒に聞こえるようになった。ローファとミリナは息をすることも忘れたように、音のする方をじっと凝視していた。
音がずいぶんと近くでするようになったと思っても、その音の主はなかなか姿を見せなかった。
今か今かと待ち構えている二人の前に、ボトン、と転がるように落ちて来たのは、人の赤ちゃんほどの大きさの卵に棒のような手足がついたような形をした生き物だった。丁寧にも卵を割った時に出来るような、ジグザグの割れ目が胴体を一周している。割れ目の上にある、その体に見合わない大きな目は、表面積の八分の一ほどを占領しているように見えるほどだ。およそ、凶暴性というものはうかがえない。
大きさからして、どう見てもそれほどの重さがあるようにはみえないのだけれど、その卵が一歩動くとズシンッ、と地面が揺れた。
「な、何なんだ? これ」
「タマ!?」
気が抜けたようなローファの声と、ミリナの叫び声が重なった。
その声に、卵形のそれは振り向くと、ミリナに向かって跳んだ。潰されてはたまらないとミリナがそれを避けると、卵はそのままローファに突っ込んだ。
ローファはこの卵が今回退治しにきた、人を襲うという魔獣なのだろうかと不思議に思っていた。けれど、その勢いと、見た目よりも遥かに重い体重に、卵に押し倒され、それが自分の目当ての魔獣だと確信した。この卵には人を襲っているという意識はないのかもしれないけれど、この重さで飛びかかってこられたら、襲われたと思われたってしかたがない。
「タマっ、人の上に乗っちゃダメっていつも行ってるでしょ!」
ミリナの声に、卵は驚いたようにローファの上から転げ落ちると、地面に落ちた状態で、手足を殻の中に引っ込め、目もしっかりと閉じてしまった。
はぁ、と息を吐きながら卵の方に歩み寄るミリナに、ローファは混乱したように質問を投げかける。
「い、今なんて言ったんだ? それから、お前その変なの知ってるのか?」
「ア、コノ子、あたしのペットのタマっテいいまス。タマ、重イのに、人ニ飛びつくのガ好きナんで、それヲ怒っただけです。イっつモ困ってるんでスヨ。」
卵の横にしゃがんで、揺すりながらミリナは答えた。
「え、その卵ミリナのペットなのか!? というか、何でお前の世界にいるはずのそれがここにいるんだよ……」
「さア。たダ、タマは一ヶ月くらイ前からドッカ行っちゃってたンですよネ」
見付かってヨかったデス。とミリナが笑うと、ローファに頭をはたかれた。
「うぅ…………。ナニするンですカぁ」
地味に痛かった。
「ペットがいなくなってて一ヶ月も呑気に過ごしてる方がおかしいだろ! つーか、ミリナがこの卵の面倒をちゃんと見てれば、俺が出ばる必要もなかっただろ! あぁ、俺今回何のために家から出たんだろう……」
「卵じゃありませン! タマでス! それに、ペットハ基本放し飼いナノで、一ヶ月くらイいなクなることダッテ普通にあります! あたしはおかしクないデスっ」
「あー、はいはい。じゃあ俺は帰るな」
憤慨するミリナを、ローファは軽く流すと背を向けた。
「え。あ、はイ。……ッテ、ダメですっ、まダ帰っちゃダメです! その前ニあたしを還しテくださイ!」
「は? あぁ、そういや俺が還さなきゃ帰り方わかんないんだっけ。その卵はどうするんだ?」
「一緒ニつれて帰りマス。しっかり抱イてれバ一緒ニ帰れるト思うんデス」
そう言うとミリナは、よいしょっ、とタマを抱き上げた。
「ハ、早くしてくだサイ。重クてタマが落ちそうでスッ」
懸命にタマを抱え上げているせいで、変な顔になっているミリナを見て、ローファは思わず笑ってしまった。ミリナは、むう、と頬を膨らましたけれど、黙ってその場に立っている。ローファはミリナの正面、二メルタ程離れたところに立つと、見るものに不気味な印象を与える、どこまでも澄んでいる、燃えるような緋色の瞳で、真っ直ぐにミリナの感情表現が豊富なわりに、凪いでいる淡い碧眼を見つめた。
それから、目を閉じて深呼吸を一つすると、ローファは右手の平をミリナの方に突き出し、催眠状態のように半分程目を開いて、小さく一言呟いた。
「ナイラ・サウシータ」
すると、右手の平の真ん中辺りから小さな光が溢れ始め、数秒と経たないうちに、ミリナが余裕で収まる程の大きさの光の門になった。
「この光の中に入れ。そうすれば戻れるはずだから」
光の門が間にあるせいで、顔が見えないローファにそう言われて、ミリナはおそるおそる、一歩、光の中に踏み込んだ。が、一度その足を引き戻すと、ミリナは少しだけ横にずれて、覗き込むような体勢でローファを見た。
「ありがとう」
ローファに意味が伝わるとは思わなかったけれど、母国語でそう言うと、ミリナは今度こそ、一気に光の中に飛び込んだ。
※メルタ……長さの単位。一メルタは約五十センチ




