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フレイヤは目を覚ました。
飛び起きてあたりを見渡せば、そこは慣れ親しんだ伯爵家の自分の部屋の布団だった。
袖をめくれば自傷行為のあともなく、きれいな手首のままだ。
「お嬢様、まだ寝て…あら!起きていらっしゃったんですね。おはようございます」
子どものころから一緒で一番信頼し、姉のように甘えていたメイド、ジェーンがベッドに近づき優しく触れてフレイヤの寝ぐせを直す。
彼女の顔をみて、フレイヤはあふれだす涙がとまらなくなった。
公爵家にいたとき、フレイヤは目覚めるたびに絶望した。また着せ替え人形のように飾られ愛玩動物のように扱われる一日がきてしまったのだと毎日心が壊れていった。
けれど、ジェーンに触れられてようやく一人の人間に戻れたような気がした。
そのまま彼女の腹に抱き着きしがみつく。ジェーンは驚いた顔をしたが怖い夢でもみたんですか?とフレイヤがおちつくまで優しく背中をなで続けてくれた。
ずっとこのままでいたかったがそうもいかない。なんとかおちつきを取り戻し、朝の支度をする中フレイヤは冷静に今の状況を把握し、思い返す。
どうやら今は6年ほど前に遡っているらしい。
まだマーレイ公爵家の前当主が生きており、記憶が正しければヘンリーは留学していてこの国にはいないはずだった。
思い出したくもないが、ヘンリーのことはよく知っている。
閉じ込められた3年間、フレイヤはヘンリーの昔話を置物のように聞いていたからだ。
「…ジェーン、私出かけるわ。」
「あらあら、お嬢様が朝からお出かけするなんて珍しいですね。どこに行くんです?」
「ヴィンセント侯爵家へ。すぐにお会いしたいと先触れのお手紙を送って頂戴。魔法で、すぐによ。」
驚くジェーンだったがいつもと違うフレイヤの様子に何かを感じ取ったのか、すぐに手配してくれた。
賭けではあったが向こうからもすぐに了解の返事がきたことでフレイヤはほぼ確信した。
ミカエルにもおそらく、記憶がある。
ーーー
「急にお邪魔してしまい申し訳ございません、ミカエル様」
「いや、気にしないでくれ。とりあえず中へ。」
その日の昼頃、侯爵家へと赴いたフレイヤにミカエルは少し硬い表情で出迎えた。
応接間にはいり、従者を説き伏せ二人きりになったところでフレイヤは率直に話を切り出した。無駄な探り合いは時間の無駄だと思ったからだ。
「ミカエル様も…記憶がありますよね?」
「…ああ、君が飛び降りて本当に焦ったよ。」
「巻き込んでしまって…本当に申し訳ございません。あの時はもう、ああするしかないと思って」
深々と頭を下げるフレイヤの肩を支えて座らせると、少し離れた場所に座ってミカエルは苦笑した。
フレイヤより2つ年下のミカエルは6年前だと12歳。まだ線の細い華奢な体はあの時と違ってフレイヤよりも背の低い少年だった。
「ヘンリーよりも弱いと思われたことは癪だけど…仕方ないね。君とはほとんど面識がなかったし。
エリオットに頼まれるまで僕も君のことあんまり知らなかったから。
でも…この現象はなんなんだろう。巻き戻り?夢にしてはリアリティがある」
「そのことなんですが…落ちる中であの魔時計が光ったのが見えたのです。」
「え?あのおとぎ話のやつ?本当だったんだ、あれ…」
時計に触れ、強く願ったものの危機が訪れたとき巻き戻り選択肢を与える。
この状態がまさしくそれだった。
「私、あのとき時計に触れてしまって…そのせいでミカエル様を巻き込んでしまったようです」
「あ、それはちがうよ。僕もあの時計に触れたことがあるんだ。だから僕も巻き戻ったんだと思う。」
だから君のせいだけじゃないよ、ミカエルは優しく微笑んだ。
罪悪感は消えないが、これ以上謝っても自己満足にしかならない。フレイヤは呼吸を整え、まっすぐミカエルを見つめた。もう一つの目的のために。
「ミカエル様、不躾なお願いなのですが…聞いてくださいますか?」
「…うん、検討はついてるけど。」
「はい…。ミカエル様、わたしと婚約してほしいのです。ヘンリーに見つかる前に」
「うん、予想通りだ。…エリオットとはまだ友人になる前で良かったよ。友人の大事な人と婚約するのは正直気が重いけど…しょうがない、それが今の段階でできる最良の選択だと僕も思う。」
グレイ家と今婚約しても、結局また握りつぶされてしまうだろう。けれど侯爵家ならばヘンリーでもそう簡単に手はだせない。
ミカエルが正しく理解してくれ、フレイヤは安堵の息を漏らす。けれど同時に申し訳なさで胸が痛んだ。
エリオットと友人だったというつながりだけで助けてもらったのに、その友人が婚約するはずだった相手と婚約させることになってしまった。
「そしてその間に…」
「うん、ヘンリーが本当にマーレイ公爵とその夫人を手にかけたのか…あの時もまだわかってなかった。
僕たちで調べよう。」
「ありがとうございます。…あの、もちろん書類上だけでかまいませんので。時期がきたら解消していただいて大丈夫です。」
あのやさしく愛らしい姫を思い出す。
彼女はあのとき、ミカエルの願いのためといった。姫にとってミカエルはとても大事な存在なのだろう。
そんな姫をもしかしたら一時的にでも傷つけてしまうかと思うと胸が痛んだ。
けれどそんなフレイヤをみてミカエルは首を振る。
「はは、僕のことは気にしないで。オーブリーはね、隣国に嫁ぐ予定だったんだよ。国のためにね。」
まだ内緒だよ。そう微笑むミカエルの表情があまりにも切なくて、フレイヤは封印していたエリオットへの恋心を思い出して俯いた。
ミラの支度を待つときに、不愛想で口数も多くないけれどいつも話し相手になってくれる不器用なやさしさが好きだった。彼と話したくてわざと早くからグレイ伯爵家を訪ねたこともある。ミラもそれを感じ取ってたのかつもゆっくり支度をしてくれていた。
だから婚姻を申し込まれたとき本当にうれしかった。ずっとそばにいられるのだと信じていた。
あの男にすべて奪われたけれど。
しかしいつまでも感傷に浸る時間はない。
やるべきことはたくさんあった。
もう二度と理不尽に奪われないための準備をするために。
ーあっという間に年月は流れた。
結局のところ、公爵前夫妻とその従者たちが亡くなったのは本当に事故だった。
政務中に不幸にも土砂崩れに巻き込まれたのだ。
ミカエルは彼らをひっそりと護衛するよう手配し、事故の現場も魔法塔の優秀な魔法使いにに頼みあらゆる可能性と痕跡を慎重に調べてもらったがなにもでてこなかった。
陰謀でも乗っ取りでもなく、自然の摂理で夫妻とその従者の運命は変わることなく亡くなってしまった。
ヘンリーは留学中に夫妻の死を知り、急いで帰国したときには両親と信頼していた従者が埋葬されていた。遠目からみたヘンリーの表情は虚ろで、おそらくこの時に彼は病んでしまったのだろう。
フレイヤは少し同情したが、だからといって監禁され人形扱いされるのは話が違う。
ヘンリーと対峙するためにあの日、あの時間に同じようにヘンリーと出会った道を進むとすれ違い、けれどヘンリーはフレイヤを目にすることなくそのまま立ち去った。
フレイヤは賭けに勝ったのだ。
フレイヤはこの5年でおとなしかった見た目を変え、流行りの華美なドレスを着てそれにあわせた華やかな化粧をし、魔法も自分を守れる程度に学んだ。
あのときのおとなしい人形のような令嬢はもうどこにもいなかった。
その代償なのか、エリオットとは疎遠になってしまった。
それも仕方がない。ミラとは友人関係を続けたがグレイ伯爵家には立ち寄らなくなったからだ。
遠目からエリオットの姿をみつめ、こちらを見ることのない彼の姿に勝手に傷ついた数は計り知れない。
それでもフレイヤは自分を変えた。
マーレイ公爵夫人の趣味は美しいビスク・ドールを集めることだった。その血を継いだヘンリーは以前のフレイヤによく似たビスク・ドールを大事にしていたのだという。それも灰になってしまったが。
結果、ヘンリーがほしかったのは彼にとって理想的な顔をした、自分を置いていかないお人形だったのだと改めて気づき、ようやく解放されたのだと息を吐いた。
けれどなぜか。心は重いままだった。
回帰した舞踏会の日がきた。
婚約者は変わらずミカエルのままだ。
ヘンリーがどう変化していくかわからない間、少なくとも今日まではこのままでいようと二人で決めたからだ。
彼は文句もいわずにフレイヤを紳士的にエスコートし、けれど以前とは違いオーブリーに対して距離をとる。婚約者がいるのだから当たり前の距離感だ。
オーブリーは近く、大国に嫁ぐことになるらしい。正妃としての待遇なのが彼女の優秀さを物語っていた。
そしてあの時とはちがい、家族にも会えた。ミラにも会えたしお揃いのリボンはそのままだ。エリオットには会えなかった。いまだ婚活中と聞いて、少しほっとした自分の往生際の悪さに呆れた。
けれどミカエルが背を向けた時、オーブリーがわずかにさみしそうな表情をしたのをみると居ても立っても居られななくてフレイヤはその場を立ち去り、気づけば魔時計の前にいた。
「私、何してるんだろう…」
ヘンリーにはもう執着されない。それはそれでいい。望んでいたことだ。けれど。
どれだけ理性で立て直そうとしてもこの不快感は消えなかった。
結局マーレイ公爵家の内部事情には介入できないから?
それもある。今のフレイヤではアンは救えない。手を出せば逆に危険な目に合わせるだろう。
自分を望まぬほうへと変えたから?
それもある。フレイヤは派手な化粧は苦手だ。今着ている服もフレイヤが好んできていたものとはちがう。流行りのドレスは宝石がちりばめられていてとても美しいけれど、フレイヤは刺繍の入ったシンプルなドレスが好きだった。
オーブリーを不幸にしたから?
それもある。オーブリーは優秀だ。もしあのまま、ミカエルに婚約者がいないままであればオーブリーは自分の優秀さが国に必要だとを認めさせ、望む伴侶を得られたかもしれない。
自分だけエリオットと幸せになれるかもしれないと思ったから?
それもある。みっともないけれどエリオットのことをずっと諦められない。
ミカエルを巻き込んだくせに、ほんとうに図々しい。
けれど一番は。
フレイヤは時計に触れた。
ようやく自分が何に憤っているかわかったからだ。
あの日、あの時。巻き戻る直前。
フレイヤは逃げた。
あれだけいろんな人が協力して、助けてくれたのに。
戦わずに逃げた、そんな自分が一番許せなかった。
「フレイヤ、やっぱりここにいた。」
「ミカエル様…」
振り向けばミカエルが立っていた。彼はまっすぐフレイヤを見た。
フレイヤもミカエルを見つめ返した。ミカエルは目線があうと頷く。
「僕は負けない。君もこの5年で見たろ?こう見えてなかなか強いんだよ」
「…はい、知っています。」
もうとっくにフレイヤの背をこえた青年は確かに強かった。けれどそれ以上にその優しさがいつでも頼もしかった。
おこがましいけれど、この6年間ミカエルのことを頼りになる弟のように思っていた。彼からしてみれば押し付けられた厄介な姉だっただろう。
けれど彼は一度も嫌な顔をせず助けてくれた。
彼には絶対に幸せになってほしいと心から願っている。
「私、決めました。……逃げません、もう。」
「うん。わかってる。」
「…だからミカエル様もあきらめないで。オーブリー様のこと」
「え?」
返事を聞く前に魔時計に触れる。
真っ白に光る直前、覚悟をきめたミカエルの表情がなんだかかわいらしくて、地獄に戻るというのに緊張感なく笑ってしまった。
次で完結。