過去なんていらない➀
セイさんは部屋に入るなり、私の本棚をじっと見ていた。
「……星鳳の過去問ばっかだな」
「そりゃそうですよ。第一志望が星鳳なんですから。ほかの学校の過去問を解いても意味ないでしょ」
私立中は、学校ごとにまったく違う問題が出る。だから志望校の過去問は、だいたい十年分そろえておくのが普通だ。
「で、苦手な科目ある? あるなら教えて」
「うーん、水溶液と通過算ですかね。通過算は“もうダメだ”って思うとどっから手をつければいいかぜんぜんわかんなくなってきます」
「通過算って電車とか車がトンネル抜ける時間とか、すれ違いとか追い抜きとか正直どうでもいいこと求めてくるからなー」
「はい。なんていうか、イメージをしにくいんです」
「わかるわー。俺も好きじゃなかった」
「だからいつも絵を描いて計算してるんですけど……」
絵にしないと、頭の中で整理ができない。
「もしかして夏芽ちゃん。その絵、めちゃくちゃ丁寧に描いてる?」
「え? はい。だって、そのほうがわかりやすいじゃないですか」
「絵を描くのはいいと思うよ。でもさ、電車とかトンネルなんて、丸とか線でもじゅうぶんなんだよ。もっとシンプルでいい。入試は時間との勝負だし」
「それは、はい、わかってます」
まったく、そのとおり。
絵を細かく描きすぎて時間がなくなり、最後まで解けなくて落ちこむ。そんな悪い流れに、何回もハマった。
「あの、通り抜けの時間とか、追い抜きとか、途中で“え? なに計算するんだっけ?”ってなったときは、どうすれば?」
「んー、俺はね、問題文に書いてある情報を、読んだそばから絵に加えていったかな。あと、正しい方法かはわかんないけど、家で勉強するときは色分けもした」
「色分け?」
「そう。電車は赤、トンネルは青、もう一つの電車は緑、追い抜くときの車や人は黄色、みたいに」
「色がつくと動きがわかりやすいし、“ただの暗記”って感じじゃなくなってさ。模試のときは頭の中で色をイメージして計算してたよ」
「なるほど。色分けか」
たしかに、私がつまずくのは“どの公式を使えばいいかわからなくなる”ってところだけ。そこが整理できれば、通過算は得意になるかもしれない。もともと、計算そのものは嫌いじゃないから。
「なんか、ありがとうございます。私──」
『最初はすっごく迷惑だと思ってました』
という心の声はギリギリで飲み込んで、笑顔だけ作っておいた。
「まあ、あれしろこれしろって言うより、コツを知るほうが早いからね。勉強のやり方は人それぞれだし。自分に合うやり方って、意外と自分ではわからないもんだよ」
「はい! 頑張ります!」
私は右手をぎゅっと握りしめた。二月の受験。絶対に合格を勝ちとってみせる。
◇
家庭教師として来てくれることになったセイさんの授業は週に二回やってもらうことになった。
もちろん、ちゃんと時給でお願いしてる。最初、セイさんは『お金はいりません』って言っていたらしい。でもお父さんが「知識には価値があるんだから無料はよくないよ」と説得してくれた。セイさんも、それで納得してくれたみたい。
授業の日は、水曜日と土曜日。今日は日曜日だから、お休みだ。
「夏芽、どう? 聖くんの授業は」
「うん。すごくわかりやすいよ」
どうやら、セイさんの教え方は私に合っていたみたい。おかげで成績がぐんぐん上がってきた。それに、授業はセイさんが言うほど厳しいわけでもない。かといって、すごく優しいわけでもないんだけど……。
たぶん“相性がいい”んだと思う。
「今さらだけど、聖くんって彼女いないのかなぁ。もし夏芽の家庭教師をしてるせいでデートできないとかだったら悪いよね。今度、聞いてみようかな」
「お母さん、それアウト。完全にセクハラだから」
「えっ!? だって聞くだけだよ? からかうつもりなんてないわよ」
「ううん、だめ。普通にセクハラ」
「えーっ? こんなの、ただの世間話なのに。信じられない、今の時代」
お母さんは、なぜか私を“かわいそうな子ね”みたいな目で見てくる。
私からしたら、プライベートなことを平気で聞いていた昔のほうが信じられないんだけど。
「セイさん、嫌なことをガマンするタイプじゃなさそうだし単にヒマなんじゃない?」
「そうね、そうかもしれない」
まぁ、本当のところはわからない。
どちらにしても、家庭教師をやってくれるって言い出したのはセイさんからなんだから、私は気にせず勉強をするだけ。
「お母さん、今日のお弁当はなに?」
「サンドイッチ。卵とチーズ。キュウリとハム。それからピーナツバターとイチゴジャム」
「やったー、ありがとう!」
お弁当がサンドイッチだと、テンションが上がる。とくに、外国のお話でよく出てくるピーナツバターとジャムのサンドイッチ。
外国では『ピーナツバター&ジェリー』っていうの。このサンドイッチを、お母さんに教えたときはカロリーの高さにびっくりしていた。でも今は、お母さんもたまに作っておやつに食べているみたい。
「はい、紙袋に入れておいたからね」
「ありがとう。じゃあ、もう行くから」
「気をつけなさいよー。夜はバス停までお迎えに行くから」
「はーい! いってきまーす!」
リュックと、サンドイッチが入った紙袋を持って家を出る。ついこの前まで、塾に行くのがつらかった。
でも今は、そんな気持ちはまったくない。
◇
塾に着いた私は、自分の席へまっすぐに向かった。
受験本番まで、あと二か月。私の席は、なんといちばん前の列の左から二番目。つまり、クラスで二番目に成績がいい子の席だ。自分で言うのもなんだけど、これはすごい成長だと思う。
ちなみに、いちばん前の左端は “不動のトップ” の緒方 雨音。
そう。緒方霧人、フロストさまの今の妹さんだ。
緒方さんはお兄さんと同じくすっごく勉強ができる。そしてこれもお兄さんと同じで、一度も一位から落ちたことがない。もう、まさに“越えられない壁”って感じだ。
だから私は緒方さんをライバルだなんて思っていないし、一位になれないからって落ちこむこともない。
私にとって大事なのは“塾での順位”じゃない。本番まで気持ちをキープして、最高の状態で受験に挑むこと。そしてもちろん、第一志望に合格することだ。
「玲寧……あ、いた」
私が本当の意味で意識しているのは、今泉玲寧。
彼女は今、二十七番目の席に座っている。クラスは四十一人だから、ど真ん中よりもさらに下。
夏をすぎたあたりから成績がどんどん下がってしまったらしく、 “女子あるある”に見事にハマってしまっていた。そのせいか、席が変わってからの玲寧は私にぜんぜん話しかけてこなくなった。
無視はしてこないけど、挨拶くらいしかしない距離感になってしまった。
「ふん、ざまぁみろってのよ」
乾燥した教室でリップを塗るふりをしながら、口の中で小さくつぶやく。もちろん、自分でも性格悪いってわかってる。わかってるけど、私たちには、前の世界(?)からのいろいろなアレがある。
裏切ったのも、私の悪口を広めていたのも、あっち。だから、私は悪くない。
「……」
悪くないのに、胸の奥がチクチクするのはどうしてなんだろう。もしかして“罪悪感”ってやつなのかな。
でも、なんで?
なんで私のほうが、悪いことしちゃったかな、みたいな感じになってるの? だってリザベル、アナタがいけないんだよ? 私のフロストさまに近づいたりなんかするから。
この前だって、生意気にもフロストさまを見つめていたよね? そんなの、許されると思ってんの?
「青井さん」
公爵令嬢にケンカ売ろうなんて、五百万年早いのよ。
「ねぇ、青井さん」
玲寧のあの落ちこみっぷりだと、ここから成績を上げるのはすごく難しいはず。このままどんどん成績を下げるより、もう塾を辞めちゃったほうがいいんじゃないかな。
「青井さん!」
「わぁっ!」
いきなり声をかけられ、飛び上がりそうなほどびっくりする。玲寧ばかり気にしてたから、話しかけられてたことに気づかなかった。
「ほら、こっちこっち。なにボーっとしてんの? こんな近くから呼んでるのに」
「ご、ごめん」
「三回目で気づくとかありえないんだけど。しかもびっくりしすぎ。こっちまでびっくりした」
むすっとした顔で声をかけてきたのは、左隣に座っている緒方さん。
「ほんと、ごめんね」
「いいよ。なんだかこっちが驚かしたみたいでごめん」
「あ、ううん、平気」
びっくりしたのは、急に声をかけられたことじゃない。だって、いつもはだれとも仲よくしない緒方さんが話しかけてくるんだもの。
「えっと、なに?」
なんで声をかけてきたのか、おそるおそる訊く。緒方さんはいつものクールな顔のまま、ふーっと深いため息をついた。え、ため息つかれた。怖い。どうする? さっき謝ったけど、もっと謝っとく?
「ごめんね、なんか……」
「あのね、私は青井さんに用事はないんだよ」
「あ、うん」
用もないのに声かけてきたの? ますます怖いんだけど。
「うちのお兄ちゃんがね」
なんで今、お兄さんの話?
「えっと、お兄さんって前、話をしに来てくれた人だよね?」
「そう、緒方霧人」
「お兄さん、がどうかしたの?」
なに!? フロストさまがなんなの!? 詳しく! もっと詳しく!
……と、前のめりで訊きたい気持ちをなんとか我慢する。
「いや、お兄ちゃんが今週の日曜に青井さんと一緒に勉強したらどうかって言うの」
「はぁ、そうなの」
「そうなの。しかも、いきなり。わけわかんないでしょ?」
「うん、まぁ……」
普通は、そう思うよね。だって私と緒方さんは、学校も違うしこれまでほとんど喋ったことない。
「だから、なに言ってんの? と思って、それをそのままお兄ちゃんに言ったわけ」
「なんて?」
「なんで日曜日に、たいして仲よくない子と勉強しなきゃなんないの、って」
「まぁ、そうだね」
「でしょ? そしたらお兄ちゃんが“二番の席に座っている子の実力を近くで感じれば、雨音も上に行けるはず、とか言い出して」
「へぇー……」
雨音さんはじゅうぶん上にいらっしゃると思いますわよ?フロストさま、どうなさったのかしら。
ちょっと仰っている意味がわからないわ。
……あ、いけない。ついうっかり“エルルーナ”が出てきちゃった。
「そのあともなんかごちゃごちゃ言ってたんだけど、相手するのもダルいし私としては勉強さえできればいいかなって」
「……うん」
「で、青井さんの予定でも確かめようと思って」
「あー、日曜ね、そうだなぁ」
今度の日曜は、セイさんが特別に授業をしてくれることになっている。でも最初、私は断った。授業は水曜と土曜って決まってるし、追加で授業をしてもらうのは悪いから。でもセイさんが言ってくれたの。
『本番が近いから、心配なところを詰めていったほうがいい』って。
それをドタキャンするのはどうなのかな、って思う。思うけど、でも、せっかくフロストさまがお声をかけてくれたんだよね。私が“エルルーナ・ギフォード”だってことは、もちろん知らないはず。
ただ、妹のために二番手の子と切磋琢磨、ってやつをさせたいんだと思う。フロストさまの願いにこたえるには、聖さんとの約束をキャンセルするしかない。




