9 馬車の中の攻防
(えぇと……この状況はいったいどうしたものでしょう……)
ガタゴトと馬車の振動を感じながら、ニーナは所在なく身じろぎした。
ニーナの目の前にはオリヴィアがゆったりと腰掛けている。
朝になって野営地を出発し、この日初めての休憩を取った後。いつものように馬に乗ろうとしたニーナは、オリヴィアの侍女に呼び止められた。
「お嬢様がニーナ様とお話をなされたいとのことです」と、有無を言わせぬ調子で馬車に乗るよう促され、ニーナとルイザは顔を見合わせた。
心配顔のルイザに「大丈夫ですよ」と小さくうなずいて見せてから、ニーナはオリヴィアの馬車に乗り込んだ。
それから小半時、二人きりの車内には居心地の悪い沈黙が流れ続けていた。
オリヴィアは「話をしたい」とニーナを誘ったわりに何も喋らず、人形のような美しい顔の下半分を扇子で隠し、感情の読めない青の瞳でじっとニーナを見つめ続けている。
馬車の中は、オリヴィアのまとう香水だろうか、百合の花のような香りでむせかえるようだ。慣れない馬車に揺られ、早くもお尻が痛い。あまりに落ち着かない状況に、ニーナの方が先に音を上げた。
「あの……私にお話というのは……?」
思い切ってそう声をかけると、オリヴィアは美しい瞳を笑みの形に変えた。
「ニーナさんは、東の辺境のご出身だとか」
オリヴィアからの質問に、ニーナは目を瞬いた。自分のことを聞かれるとは思っていなかったのだ。戸惑いながら口を開く。
「はい、東の国境に近い、山奥の村です」
「もう何年聖女を続けていらっしゃるの?」
「十六歳のときからですから、十三年になります」
「まあ、そんなに。ずいぶんと長く務めてこられましたのね。引退が近いと耳にしておりますけれど、引退後はもちろんご結婚なさるのでしょう?」
なぜそんなことを聞くのだろうかと、ニーナの戸惑いはますます深まる。昨日までのオリヴィアは、ニーナのことになど全く関心がない様子だったのに。
「いえ……結婚はあまり考えていません。歳も歳ですから」
「あら、ニーナさんはおいくつでいらっしゃるの?」
「二十九です」
「まあ、二十九歳! わたくしより十四も年上でいらっしゃるなんて!」
オリヴィアは、いかにも驚いたと言いたげに目を丸くする。その声音には、驚きだけでなく、嘲りの色が入り混じっているようだった。「聖女としても女としても出涸らし」などと、オリヴィアの侍女達の陰口が脳裏をよぎる。
オリヴィアは、親しみがこもったように見える微笑みを浮かべ、小さく首を傾げた。
「でもあきらめてはいけませんわ。女の幸せはなんといっても結婚ですもの。ね、ニーナさんもそう思われるでしょう?」
「えぇと、そういう考え方が一般的なのかもしれませんが、私は――」
「あら、そのように悲観されることはありませんわ。ニーナさんは実際のお歳よりお若く見えますし、元聖女の肩書きは結婚に有利だと聞きますもの」
「いえ……」
「そうですわね……夫にするなら、やはり頼りがいのある年上の男性がよろしいでしょう? ニーナさんより年上となると初婚の方を探すのは難しいでしょうから、後添いにということになってしまうかしら」
「あの……」
「ああでも、すでに跡継ぎがいらっしゃる方ならニーナさんも子を産む必要がありませんし、むしろちょうどいいですわよね。男爵家か裕福な商家あたりの方でしたら、ニーナさんにとっても玉の輿と言えますし、ご不満はないでしょう? わたくしのお父様はとても顔が広くていらっしゃるの。この遠征から戻ったらすぐにでもお父様にお話して、いいお相手をご紹介して差し上げますわね」
ニーナに口を挟む隙を与えず、まるで決定事項を告げるように言い切って、オリヴィアは可憐に微笑んだ。
ニーナは呆気に取られ、しばしの間言葉を失う。どうしてオリヴィアがニーナの結婚相手を世話するという話になったのか、全く展開についていけない。
ただ、自分がそれを望んでいないことははっきりしていた。
「えぇと、ありがたいお申し出だとは思うのですが……」
ご遠慮しますと続けようとしたニーナの言葉を遮り、オリヴィアは笑みを深くする。
「あら、遠慮なさらないで。その代わりと言ってはなんですけれど、わたくし、ニーナさんにお願いしたいことがございますの」
ニーナは目を瞬く。
「お願い、ですか? それは、私にできることでしたら……」
「まあ嬉しい! もちろんニーナさんにできること……いいえ、ニーナさんにしかできないことですわ。あのね、ニーナさん」
オリヴィアの青い瞳が、笑みの形を保ったまま、強い光を宿してニーナを射貫く。
「ニーナさんに、わたくしとウィル様との仲を取り持っていただきたいの」
「え……?」
全く想定していなかった「お願い」に、ニーナは再び言葉を失った。
「わたくしとウィル様の恋を応援していただきたい、ということです。わたくしね、ウィル様をお慕いしておりますの。あの方の妻になりたいのです。ふふ、わたくしがウィル様と運命の出逢いを果たしたのは、三ヶ月前のことでしたわ……」
呆然とするニーナに構わず、オリヴィアはうっとりと瞳を潤ませ、ウィルとの「運命の出逢い」について語り出す。
それによれば、オリヴィアは三ヶ月前、お忍びで町歩きに出た際に護衛とはぐれ破落戸に絡まれていたところを、通りがかったウィルに助けられたのだという。
「もしもあの時ウィル様が助けて下さらなかったら、今頃わたくしはどうなっていたことか……。考えるだけでゾッとしますわ。ならず者を追い払ったウィル様は、震えて動けなくないわたくしを優しく抱きかかえて、我が家の馬車まで送り届けて下さいましたの。あの時にわたくし、ウィル様に生まれて初めての恋をしてしまったのです……」
頬を染めて語るオリヴィアは、恋する乙女そのものだった。花開いたばかりの百合のように、瑞々しく匂い立つような美しさがある。
いつものニーナであれば、微笑ましい気持ちでその恋を応援しただろう。けれどどういうわけか、今のニーナはどうしてもそういう気持ちになれなかった。
かろうじてぎこちない笑みを作り、ニーナは言葉を探す。
「えぇと、ご事情はわかりました。でも、私にオリヴィア様のお手伝いはできないと思います。私もクレイグ隊長と格別親しいわけではありませんし……」
「あら、そんなことはありませんわ。ウィル様は、ニーナさんのことを姉のように慕ってらっしゃるもの」
「姉……」
その言葉に、ニーナの胸が小さく軋んだ。
姉と弟。
どんなに親しくしていても、七つも歳が離れたニーナとウィルとでは、きっとそのようにしか見えないのだろう。友人や、ましてや恋人になど見えるはずがない。
実際ウィルは、郷里にいるニーナの弟よりも年下なのだ。ウィルがニーナに向けてくれる親愛の情も、姉のような存在に対するものと考えるのがきっと自然なのだ。
そう、頭では思うのに、ニーナの気持ちはどうしようもなく沈んだ。
「ウィル様はご立派な騎士でいらっしゃるけれど、伯爵家の方ですから。侯爵家のわたくしに対してはどうしても遠慮してしまわれるみたいですの。けれど、姉のように慕っておられるニーナさんの後押しがあれば、ウィル様も前向きな気持ちになれると思いますのよ」
そう、なのだろうか。ニーナはぼんやりとした頭でオリヴィアの言葉を聞く。ニーナには貴族の世界のことなどわからない。貴族階級に身を置くウィルの気持ちも。
そっと、自身の胸に手を当てた。ウィルにもらったマトリカリアを忍ばせた場所に。
「わたくしね、ウィル様を幸せにして差し上げたいの。わたくしにはその力がありますわ。我が侯爵家の力をもってすれば、ウィル様を栄誉ある第一騎士団に推薦することなど造作もないことですのよ。それに、ウィル様はご実家の爵位を継ぐ立場にありませんから、このままいけば平民の地位に甘んじることになりますわ。良くて一代限りの騎士爵かしら。けれど、わたくしと結婚なされば、ウィル様はわたくしのお父様がお持ちの子爵位を継ぐこともできますのよ。それがどれほど価値のあることか、ニーナさんにもおわかりになるでしょう? ウィル様の幸せのためにも、わたくしに協力してくださいますわよね?」
質問のような形を取りながら、オリヴィアの声音には有無を言わせぬ響きがあった。
(クレイグ隊長の、幸せ……)
幸せになってほしい。長い付き合いの中で、ニーナがウィルにそんな気持ちを抱いているのは確かだ。地位と名誉。そしてオリヴィアと結ばれること。もしも本当に、それがウィルの幸せだというならば……。
「ああ、それとニーナさん。昨晩のようなはしたない真似は、おやめになった方がよろしくてよ」
「はした、ない……?」
言われた言葉の意味がわからず、ニーナはいつの間にか俯けていた顔を上げる。オリヴィアの瞳には、隠しようのない嫌悪の色が浮かんでいた。
「ウィル様に特別なお茶を振舞っていたことですわ。見目麗しい若い殿方に媚びるような真似をなさっては、大聖女の名に傷がつきましてよ」
「媚び、る……」
思いもよらぬ言葉に、ニーナは衝撃を受けて固まった。
媚びる。そんなふうに見られていたのかと思うと、すっと血の気が引く。
ウィルに美味しく薬草茶を飲んでもらえるように。そして薬草茶の力でわずかでもウィルの助けになれるように。
ニーナの思いはただそれだけだった。けれど、周りの目にはそうは映らなかったのかもしれない。
小さく震える手で、服の布越しに懐のマトリカリアに触れる。その存在に縋るように――。
「まあ。自覚しておられなかったなんて。ウィル様にもご迷惑になると、どうしておわかりにならないのかしら」
呆れたようなオリヴィアの声が耳に刺さる。
たまらず目を閉じたニーナの脳裏に、「いつも楽しみにしているんです」という嬉しそうな声がよみがえった。「たくさん摘めたら、お茶を淹れて頂けますか?」というウィルの甘やかな微笑みが。
手の中のマトリカリアが、ほんのりと温かくなったように感じられた。受け取ったときにそこに残っていたウィルの温もりのように。
そっと深呼吸し、ニーナは顔を上げた。
「迷惑だと、クレイグ隊長がそうおっしゃったのでしょうか?」
「は?」
オリヴィアが美しい眉をひそめる。
「クレイグ隊長は、私の薬草茶を楽しみにしていると言ってくださいました。私は、あの方の言葉を信じます」
まっすぐに、オリヴィアの目を見つめ返す。
オリヴィアの顔がみるみる朱に染まり、美しい目元が怒りに歪んだ。扇子を持つ手がわなわなと震える。
「あなた……わたくしにそのような……」
そのとき、馬のいななきに続いて馬車が急停止した。
ぐらりと傾いた体を素早く起こし、馬車の窓から外の様子をうかがう。
(何かあったのでしょうか……?)
馬車の周囲では、騎士達が緊迫した声音でやり取りしながら、慌ただしく行き交っている。何か予定外のことが起きたことは間違いない。
ニーナが表情を引き締めたとき、忙しないノックに続き、馬車の扉が外から開かれた。緊張の面持ちで顔を見せたのはウィル・クレイグだった。
「まあ、ウィル様! なにかございましたの?」
オリヴィアは怒りの表情を嘘のように消し去り、先ほどまでと打って変わった可憐な声を上げる。
ウィルはニーナとオリヴィアを交互に見やった。
「ノースウッドの街から早馬が来ました。新たに魔獣の襲撃を受け、現在街に立て籠もって応戦中とのこと。隊を二つに分け、馬車の護衛は副隊長のバージルに。俺はノースウッドの救援に向かいます」
ウィルはそこで言葉を切り、ニーナをまっすぐに見上げた。
「ニーナ様、俺と一緒に来てくださいますか? あなたの力が必要です」
ニーナの目の前に、ウィルの大きな手が差し出された。
空色の瞳が、真剣な光をたたえてニーナを見つめている。
迷いはなかった。
(聖女としてでも……姉としてでも構わない。私はクレイグ隊長に応えたい。この方の期待に。信頼に!)
ウィルの瞳をまっすぐに見つめ返す。
「行きます。私を一緒に連れて行ってください!」
空色の瞳から目をそらさないまま、大きな手に自身の右手を重ねる。握り返してくる手の熱に、胸に収めたマトリカリアがいっそう熱を発したように思えた。
横でオリヴィアが、「ずるいわ、わたくしも!」などとわめく声が聞こえたが振り返らない。
ウィルの手を取り、ニーナは颯爽と馬車から飛び降りた。