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8 白い野花

 夕食を終え、騎士達と共にその後片付けも済ませたニーナは、ルイザと並んで自分たちのテントに向かって歩いていた。

 あれからオリヴィアと侍女達は、テントにこもったまま姿を見せていない。話し声も聞こえないので、すでに眠っているのかもしれない。


 草を踏みしめて歩きながら、ニーナは夕食のときの出来事を思い返す。

 楽しみにしていたと言って薬草茶を受け取ってくれたウィルの笑顔。それを思うたび、胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げるのを感じる。


 けれど次の瞬間、ウィルを見つめるオリヴィアの横顔が脳裏に蘇った。

 あの熱っぽく潤んだ瞳にこもる感情がどういった類のものか、色恋に疎いニーナにも察せられないわけではない。黄色い声をあげながらウィルを遠巻きに見つめる若い聖女達も、オリヴィアと似たような目をしていた。


 ニーナはこれまで聖女として過ごす中で、何人もの貴族令嬢と間近に言葉を交わす機会があった。彼女たちは皆、お伽話の中のお姫様のようにきらびやかで綺麗だった。その中にあっても、オリヴィアの容姿は際立って可憐で美しい。


 そんなオリヴィアから特別な目で見つめられて、心を動かされない男性はいないのではないかとニーナは思う。

 オリヴィアが婚約者候補に挙がっているという噂の王太子であっても、そしてウィルであっても――。


(……そうだとしても、私には関係のないことですよね……)


 自分自身にそう言い聞かせる。

 密かに溜息をつきながらテントに入ろうとしたニーナに、「少しよろしいですか」と声がかかった。振り返ると、薄闇の中に立っていたのはウィルだった。


 ルイザは「私は先に入っているよ」と、意味ありげなウィンクを残してテントの中に姿を消す。

 少し離れたところを騎士達が行き交っているが、周囲には他に人はいない。

 二人はテントの前で、一歩の距離を保ったまま向かい合った。見れば、ウィルの眉はわずかに下がっている。


「ニーナ様、今日は全くお手伝いできず申し訳ありませんでした……」


 そんな些細なことを気にしてわざわざ来てくれたのかと、ニーナは少し驚く。安心させるように微笑んで見せた。


「大丈夫ですよ、バージルさん達がお手伝いして下さいましたから」

「夕食もご一緒できなかったし……」

「クレイグ隊長はお忙しいのですもの、そんなこと気になさらないで下さい」


 重ねて言ったがウィルは、眉を下げたままだった。


「でも俺は、いつものようにニーナ様と夕食をご一緒したかったです……」


 そう言ってふっと視線を逸らせたウィルの表情が、なんだか拗ねた子どものようで、ニーナは口元をほころばせた。


「そうですね、私も……」


 思わず言いかけて、ニーナは慌てて口を噤んだ。ウィルがパッと顔を上げる。


「本当ですか!?」

「あ、でも、もちろんお仕事が優先なので! さっきも、初めて遠征に参加するオリヴィア様達をあれこれ気遣ってくださって、ありがたく思っているんですよ」


 ニーナは胸の前でパタパタと手を振りながら言い添える。寂しく感じたのは本当のことだけれど、そんなことを言ってウィルを困らせたくはない。

 そう思ったのだが、ウィルは困った顔をするどころか、先程までしょんぼりしていたのが嘘のように表情を明るくした。


「嬉しいです。ニーナ様にそう言ってもらえて」


 自身に向けられたその笑顔に、またもやニーナの心臓が小さく跳ねた。


(も、もう……本当に今日は私、どうかしてます……!)


 気持ちが落ち着く薬草茶を飲んだはずなのに、ちっとも効果が感じられない。

 胸を押さえて密かに深呼吸するニーナの傍らで、ウィルは懐を探り何かを取り出した。


「それと、これを渡したくて」

「?」


 ウィルの大きな手の平にポツンと乗せられた物を見て、ニーナは小さく目を見張る。


「これ……」


 それは、黄色の芯を白い花びらが囲む一論の小さな野花――ニーナが道中に馬上から見ていたマトリカリアの花だった。


「野営地に着いてすぐ、周辺の見回りをしたときに見つけたんです。途中にも、たくさん咲いている場所がありましたよね。今日は無理でしたが、帰り道なら摘む時間を取れると思いますので」

「え……」


 ニーナは驚いてウィルの顔を見上げる。

 確かにニーナは、群生するマトリカリアを馬上から眺めながら、帰り道に摘めたらいいなと思いを巡らせていた。

 けれどそれを口に出してはいない。それなのにウィルは、ニーナのそのささやかな願望に気付いていたというのだろうか。

 ニーナの疑問を肯定するように、ウィルが目を細める。


「俺もぜひご一緒させて下さい。たくさん摘めたら、お茶を淹れて頂けますか?」

「あの、それはもちろん、喜んで」


 ありがとうございます、と掠れそうな小声でお礼を言いながら、ニーナはウィルからマトリカリアを受け取る。

 今が夜で良かったとニーナは思った。もしも明るい中だったならきっと、頬が火照っていることに気付かれてしまっただろうから。


 ウィルの温もりが残るマトリカリアを、指先でそっと撫でる。摘んでから時間が経ってしまったせいだろう、葉も花びらも、くったりと元気がない。


「すみません、こんなに萎れてしまって。もっと早くお渡ししたかったんですが……」


 ウィルの声音は花と同じくしょんぼりしている。


「いいえ、とっても嬉しいですよ」


 本当に、心からの言葉だったのだが、ウィルの表情は晴れない。


「だったら……」


 ニーナは手の平のマトリカリアを包み込むように、ふわりと両手を合わせた。手の中のマトリカリアに意識を集中し、神力を流し込む。指の隙間から柔らかな青と緑の光が漏れる。

 手を開くと、マトリカリアは、白い花びらも葉も茎も、摘んだばかりのような瑞々しさを取り戻していた。

 ウィルが顔を輝かせる。


「すごい……! ニーナ様の『奇跡』は植物にも効くんですね!」

「こういう使い方をする機会はあまりありませんが……」


 ニーナがマトリカリアに施した『奇跡』は『治癒』。さらに『祝福』を応用した力を重ねがけし、治癒の効果が数日間続くようにした。できれば帰り道まで保つように。今頃テントの中でルイザが、また神力を無駄遣いして、と呆れた顔をしていることだろう。


「嬉しいです。大切にしてくださって」


 ウィルはやわらかに目尻を下げる。甘やかな微笑みのまま半歩踏み込み、小さく首を傾げてニーナの目をのぞきこんだ。


「ねぇ、ニーナ様。次に薬草茶を淹れてくださるときには、俺にも濃いものをいただけますか?」

「え? それは……」


 ウィルにはいつも薄めた薬草茶を淹れていた。喜んでもらえていると思っていたが、もしかしたら余計なお世話だったのだろうか。

 表情を曇らせたニーナを見て、ウィルはすぐさま「ああ、違います」と笑顔で否定する。


「薄くて穏やかなお茶も変わらず好きですよ。……でもね、俺、濃いお茶も飲めるようになったんです」


 もう、十二歳の子どもじゃないので。

 低く甘い囁き声が耳朶を打つ。ニーナは呆けた顔で言葉を失った。いつの間にかウィルは元の通りにニーナとの距離を取っている。


 初めて会ったとき、ウィルはまだ十二歳の少年だった。

 けれど、ニーナより頭一つ分低かった身長はいまや見上げるほどに高く、細かった手足は逞しい。肩幅は広く、胸板は厚い。少年特有の高い声は低く落ち着き、時に凛々しく、時に甘く響く。


 かつての華奢な美少年の姿はどこにもない。今目の前にいるのは、その剣で何度もニーナを助けてきた美丈夫だ。

 そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに、ニーナは今さらながら動揺してしまう。


 唯一変わらないのは、ニーナを見つめる空色の瞳。眩しいものを見るようなその瞳は、初めて会ったときから変わらない。

 ……いや、本当にあの頃と同じだろうか。その奥に何か熱いものが揺らめいているように見えるのは、焚き火の炎を映しているせいなのか、それとも――。

 これ以上見つめていたら空色の瞳から目が離せなくなりそうで、ニーナはそっと目を伏せた。


「……わかりました……」


 マトリカリアの花を胸の前でそっと両手で包み込み、ニーナはようやく声を絞り出す。今が夜で本当に良かったと、改めて思った。




 ウィルと別れてテントに入ると、ルイザはすでに楽な服装に着替え、ランプの灯りのもとで剣の手入れをしているところだった。楽な服装と言っても、いざという時に護衛として動けるよう、夜着姿ではない。

 ルイザはニーナに気付くと、「おかえり」と顔を上げた。


「さっそくデートの約束をしたようじゃないか」

「で……!? もうっ、だからデートじゃありませんってば! それと、私の顔が赤いのはランプの灯りせいですからね!」

「私は何も言っていないが……ふむ、確かに赤いね」

「……っ!」


 ニヤリと口角を上げるルイザに、ニーナは自身の失言を悟る。

 ますます顔が火照るのを誤魔化すように、ドスンとわざと乱暴な動作で腰をおろした。

 それから自分の荷物を探り、洗い立ての木綿のハンカチを取り出す。それを開き、ウィルから貰ったマトリカリアをそっと乗せた。


「ほう、マトリカリアか。そこらのお嬢様達なら視界にも入れないだろうが……彼はニーナのことをよく見ているね」


 ニーナの手元をのぞき込み、感心したようにルイザが言う。

 

「夕食のとき、もしニーナの薬草茶ではなくあのお嬢様の紅茶を選んでいたら、その場で決闘を申し込んでやるところだったよ」

「えぇ!? そんな物騒な……」

「フ……冗談さ」


 私は彼のことを信頼しているからね、と付け加えてから、ルイザは笑みを引っ込めた。


「だがあれで、ニーナはお嬢様の不興を買っただろうな」  

「不興、ですか……。やっぱりオリヴィア様って、クレイグ隊長に憧れていらっしゃるんですよね……?」

「憧れ、なんていう可愛らしいものではないように見えたがね」

「だとしても、私なんかを気にしたって仕方ないと思うのですけど」


 確かにウィルは、ニーナをとても丁重に扱ってくれるし、単なる仕事仲間以上の親しみの情を向けてくれているように思う。

 けれどそれは、ニーナが聖女で、しかも少年時代のウィルを助けたことがあるからだ。それ以上の特別な感情――たとえば恋愛感情のようなものを、七つも年上のニーナに抱くとは思えない。

 ニーナの言葉に、ルイザはこれ見よがしに溜息をついた。


「きみが本気でそう思っているんだとしたら……いや、きみのことだから本気なんだろうが、さすがにクレイグ隊長への同情を禁じ得ないな。この点に関してだけは、きみよりあのお嬢様の感性の方を支持するよ」

「えぇと……?」

「ま、はっきり言わない彼にも問題があるとは思うがね。なんにしろ、相手は侯爵家のご令嬢だ。遠征中に何か仕掛けてくるとも思えないが、用心するにこしたことはない。私も末端にいたからわかるが、貴族の世界というのは陰険なものだよ」


 形の良い眉をひそめて忠告してくれるルイザに、ニーナは苦笑を浮かべる。


「ルイザったら心配しすぎですよ。私はオリヴィア様に避けられてるみたいですし、二人きりになることもないでしょうから」


 だから大丈夫とルイザに応え、ニーナはハンカチの上のマトリカリアにもう一度視線を落とす。ふわりと口元をほころばせ、ハンカチに包んで大切に仕舞い込んだ


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