5 遠征への旅立ち
王都から北に延びる街道を、騎馬と馬車の一行が進む。
魔獣の被害に遭った街、ノースウッドの救援に向かう第六騎士団の小隊と聖女達である。騎乗した二十名ほどの騎士達が、二台の馬車と三台の荷馬車を守るように囲んで北を目指す。
一行の先頭付近の馬上に、ニーナの姿はあった。
聖女の証である純白のローブの下には動きやすいズボンを穿き、慣れた手綱さばきで馬を操っている。高い位置で一つに束ねた茶色の髪が、馬の動きに合わせて尻尾のように軽やかに揺れていた。
「もうすっかり春ですね……」
ゆるりと周りの景色に目をやり、ニーナは自然と顔をほころばせた。深く息を吸い込めば、瑞々しい新緑と湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
街道の両側に広がる草地には、可愛らしい白い野花が、絨毯を広げたように咲き群れている。
(本当は馬を降りて摘みたいところですけど……)
遠征に向かう途中に寄り道をする暇はない。帰りに機会があれば摘もうと、ニーナはひそかに場所を記憶する。
黄色い芯を白い花びらがぐるりと囲むその小花――マトリカリアは、見た目が愛らしいだけでなく、香りが良く薬効のあるお茶にもなるのだ。
「王都の外にいらっしゃるのは久しぶりですか?」
独り言のようなニーナの言葉に応えたのは、隣で馬を駆るウィル・クレイグだった。
ニーナは遠征のために移動する際、他の聖女達のように馬車に収まるのではなく、自ら馬に乗ることを好む。田舎育ちで馬には慣れているし、普段教会の中に閉じこもっているニーナにとって、馬で野を駆ける爽快感は何ものにも代え難いからだ。
ウィルはいつも、そんなニーナを護衛するように隣で馬を走らせる。近くにはもちろん、本職の護衛騎士であるルイザもいる。
「そうですね、前回の遠征以来なので二ヶ月ぶりになります」
「前回の遠征でも、ニーナ様にはずいぶん助けて頂きました」
「とんでもない。お役に立てたなら嬉しいです」
にこりと微笑んでから、ニーナは表情を引き締めた。
「それで、ノースウッドの街はどのような状況なのでしょう? 死者は出ていないとは聞いていますが……」
ニーナは遠征時にはいつも、馬で移動しながら騎士団の面々と情報を共有する。これも、ニーナが馬車でなく馬に乗る理由の一つだ。
ウィルも心得た様子で表情を改めた。
「幸いにも街の教会にいらっしゃる聖女様のおかげで、命を落とした者はいないようです。ですが、『治癒』の聖女様が神力酔いを起こされ、まだ手が回っていない重傷者もいると聞いています」
「あの街には優秀な『治癒』の使い手が派遣されているはずですが……」
ニーナは、素朴な笑顔が可愛らしい十八歳の聖女の顔を思い浮かべ、わずかに眉を寄せた。
ノースウッドはその名のとおり、国の北に広がる森の近くに位置する街である。
森の奥深くの地中から湧き出す瘴気のために多くの魔獣が棲息するこの森は、『黒の森』と呼ばれ恐れられている。
生き物が瘴気を浴びることにより生まれる魔獣は、異形の姿を持つ凶暴な存在で、しばしば森を出て畑を荒らし、家畜や人を襲う。
そんな魔獣の襲撃に備えるため、ノースウッドの街には警備兵が常駐している。
街の教会にも、中央から三名の聖女が派遣されて常駐している。それぞれ『治癒』、『祝福』、『浄化』の使い手である。
ニーナの記憶によれば、いずれの聖女も、標準より多くの神力量を有し、『奇跡』の扱いにも十分に慣れていたはずだ。
「彼女が神力酔いを起こしたということは、かなり怪我人が多いのでしょうか?」
「おっしゃるとおりです。立て続けに二度、魔獣の襲撃を受けたようで……」
ウィルが語ったところによれば、ノースウッドの街が初めに魔獣の襲撃を受けたのは三日前。
街を囲む防御壁の外に広がる農地が、兎の魔獣に襲われた。普通の兎より一回り大きく、額に角を生やした魔獣である。
魔獣の中では比較的弱い部類に入るが、なにしろ数が多かった。街の警備兵らは、農地に群がるおよそ三十匹の魔獣を半日がかりで退治したが、多くの怪我人が出た。
その翌日、怪我人の治療や魔獣の死骸の処理などの後始末に追われていた中、ノースウッドの街はまたもや魔獣に襲われた。
襲ってきたのは鼠の魔獣。鼠といっても中型犬ほどの大きさがあり、鋭く尖った爪や牙で煉瓦を砕けるほどに力が強い。これが十匹ほどの集団でやってきて、防御壁を越えて街の中に入り込んだ。
警備兵らはすばしっこい鼠魔獣に苦戦しつつも、かろうじて死人を出すことなく魔獣らを討ち取った。だが警備兵を中心に多くの重傷者が出た。
多数の怪我人の治療に当たった『治癒』の聖女が真っ先に神力酔いを起こした。
聖女が神力を行使するには、とてつもない気力と集中力を要する。また、神力の放出は聖女自身の身体に負担をかける。
それゆえに、聖女は神力を行使し続けると、目眩、頭痛、吐気等の体調不良に見舞われ、一時的に『奇跡』を使うことができなくなる。これが神力酔いである。
「『浄化』の聖女様も神力酔いを起こされ、『祝福』の聖女様も神力酔い寸前だとか……」
神力酔いを起こすと、回復するまで数日は安静に過ごす必要がある。
多くの警備兵が負傷して動けず、聖女達も力を使えないとあっては、街を守ることはできない。
ノースウッドの街は急ぎ王都の騎士団と中央教会に救援を要請した。それを受けてウィル率いる第六騎士団の小隊と聖女ニーナの遠征が決まったのが、昨日の夜のことであった。
「まだ治療を受けられていない方々がいらっしゃるなら、『治癒』を最優先にすべきでしょうね。もしも倒した魔獣の浄化が済んでいないなら、これも急がなくては……」
ブツブツと声に出しながら、到着後の段取りを思い描く。
魔獣の身に溜め込まれた瘴気は、魔獣が絶命しても直ちに消えるわけではなく、焼却してもなおその灰に残存し、自然に消滅するには長い時を要する。そのまま放置すれば周囲の動植物に影響を及ぼし、新たな魔獣を生み出す素になりかねない。人間もまた例外ではなく、瘴気の影響を受けて魔獣と化す恐れがある。そのため、魔獣を倒したのちは、速やかに魔獣の死骸から瘴気を浄化する必要があるのだ。
聖女の『浄化』は通常、魔獣に直接触れなければ行使できない。若い女性、それも貴族令嬢であるオリヴィアには、魔獣の死骸に触れなければならない『浄化』は酷なように思われた。
「オリヴィア様達にもまずは『治癒』に当たって頂いて……その後は『祝福』をお願いしましょうか……。オリヴィア様達には『浄化』は厳しいでしょうし、今後の襲撃に備えて『祝福』も施しておかなければなりませんしね……」
そこに、ウィルから遠慮がちに声がかかった。
「ニーナ様も決してご無理はなさらないでくださいね。あ、いえ、ニーナ様の神力が他の聖女様達より強いことも、もう何年も神力酔いを起こされていないことも知ってはいるのですが……」
心配そうなウィルの視線に、ニーナは小さな笑みを返す。
「大丈夫ですよ。……と言っても、私、クレイグ隊長の目の前で神力酔いを起こしたことがありますものね。不安になってしまいますよね……」
ウィルの言うとおり、ニーナはもう長いこと神力酔いを起こしていない。
聖女になってはじめの数年は神力酔いを起こすこともあったが、次第に神力を操るコツを掴み、神力酔いを起こさないようコントロールできるようになった。
そんなニーナが最後に深刻な神力酔いを起こしたのは十年前、十九歳のとき。
魔獣に襲われて瀕死の重傷を負った当時十二歳のウィル・クレイグを助けたときのことだった。
「あの時は情けないところをお見せしてしまって……」
十年前にクレイグ伯爵家の領地で発生した魔獣被害。
要請を受けて駆け付けたニーナは、ウィルをはじめとする重傷者を『治癒』の奇跡で次々と治療して回った。
膨大な神力量を誇り、そのコントロールにも長けたニーナの『治癒』は、命がありさえすれば、どんな重傷者であってもたちまち回復させることができる。ただし、強力な『奇跡』の行使は、それ相応の負担を聖女にかける。
死の淵をさまよっていたウィル少年を治療した時点ですでに、ニーナはかなり消耗していた。それでも無理を押して『治癒』を行使し続けた結果、最後の重傷者を治療し終えたところで神力酔いを起こしてしまったのである。
意識を失って倒れたニーナの看護を引き受けたのは、クレイグ伯爵家であった。当時、伯爵家の当主であったウィルの祖父は、孫の命を救ったニーナに深く感謝し、回復するまでの世話を申し出たのである。
ニーナは、神力酔いの症状が消えるまでの一週間を、伯爵家の屋敷の客間で過ごし、伯爵家の者達から親身な世話を受けた。
中でもニーナに命を救われたウィル少年は、夜となく昼となくニーナを気にかけ、ニーナが気恥ずかしくなるほど甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのだった。
「情けないなどと。ニーナ様がおられなければ、俺はあの時死んでいました。俺や伯爵領の皆のために倒れるまで力を使い続けて下さったニーナ様のことを、そのように思うはずがありません」
ウィルは真剣な表情で言う。
「不安ではなく、心配なのです。血の気の引いたあなたの顔を、今でも覚えていますから。……大聖女ニーナ様に対して俺なんかがこんなことを言うのは失礼かもしれませんが」
気づかわしげな空色の瞳に見つめられ、ニーナはほんのわずか言葉を失った。
「歴代最高聖女」、「大聖女」などと呼ばれて久しいニーナのことを、こうも真正面から案じてくれる人はそう多くない。
胸の奥がほんのり温かくなるのを感じながら、ニーナはふわりと微笑みを返した。
「心配して下さってありがとうございます。ちゃんと気をつけますね。私の神力量もずいぶん心許なくなってきたところですし……」
「もしや、まもなくご引退ですか!?」
なぜか食い気味に問われ、ニーナは目を瞬く。
「? えぇと……今すぐにという感じではないのですが近いうちに、とは……」
実際のところ、ニーナは「今回を最後の遠征に!」という意気込みで臨んではいるものの、自身で感じる神力の残量からすると、それは難しいだろうと考えている。それでも一、二年のうちには引退できるのではないかという予感があった。
「そうなのですね……」
呟くようなウィルの声は、どこか感慨深げだ。
「あの……引退後は故郷に戻られるのですか? 確か、東方の村のご出身でしたよね」
「よくご存じですね。地図にも載っていないような小さな村なのです」
ニーナは、国の東の端の山奥にある村の出身だ。
教会もないような小さな村で、近隣に大きな町もない。そのため、ニーナは十二歳頃には無自覚に聖女の力を発現させていたにもかかわらず、四年もの間教会に認識されず、十六歳でようやく聖女の認定を受けたのだった。
それから十三年、ニーナは王都の中央教会の中で過ごしてきた。
「故郷への思い入れがないわけではないのですが、このまま王都に残ろうかと。もう両親も他界していますし、弟も所帯を持っているそうですし。それに、交流のある方々の多くは王都にいらっしゃいますから」
ニーナの言葉に耳を傾けていたウィルは、パァッと顔を輝かせ、かと思いきや、そわそわと視線を彷徨わせ始めた。
「交流……というと、その、たとえば結婚を約束されている方がいらっしゃる、とか……?」
「えっ、とんでもない! 結婚の予定なんて、全然全くこれっぽちもないです!」
思いもよらぬ質問に内心でぎょっとしながら、ニーナは慌てて首を振る。
長らく教会で過ごしてきたニーナの交友関係は極めて狭い。教会関係者の他には、引退した聖女達くらいしか付き合いはない。結婚相手になりそうな男性に限っていえば、個人的な交流は皆無に等しい。
ニーナの言葉にウィルは再び顔を輝かせ、「そうですか……結婚のご予定はない……」と噛みしめるように呟いている。
その表情がなぜか嬉しそうに見えてしまい、次いで出発前にルイザと交わした会話が脳裏によみがえり、ニーナはまたもや心の中でぶんぶんと頭を振る。
(もうっ、ルイザが変なことを言うから……)
ウィルとは反対側の隣で馬を駆るルイザにちらりと目をやれば、艶っぽい笑みを含んだ流し目が返ってくる。その目は、「ほら、私の言ったとおりだろう?」と言っているようだった。
(そんなわけないでしょう!? 私に結婚の予定がないことをクレイグ隊長が喜んでるなんて、そんなこと……あるわけないですっ……!)
ほんのり熱くなった顔でルイザを軽く睨む。そこにウィルから声がかかった。
「ニーナ様、どうかされましたか?」
「い、いえっ……!」
慌てて振り向けば、明るい空色の瞳がニーナを見つめている。
火照った顔を冷やすように頭を振り、ニーナは自分のおかしな考えをどうにか追い出したのだった。