16 死闘
流血表現があります。ご注意下さい。
「熊の、魔獣……!」
それは民家ほどもあろうかという、巨大な熊の魔獣だった。
闇から生まれ出たかのような漆黒の毛皮。前足には太く尖った爪。鋭い牙が並ぶ大きな口からは、生臭い息とともに涎がポタリポタリと垂れている。獲物を捕捉した赤い目が、闇の中で不気味な光を放つ。
その凶悪な姿を目にした瞬間ニーナは悟った。ここ数日、『黒の森』からたびたび魔獣が襲来した理由。この熊の魔獣が、その圧倒的な凶暴さをもって他の魔獣達の縄張りを荒らしていたに違いない。
「あ、あ、ひ、ひぃぃ……!」
オリヴィアが顔を蒼白にし、その場にへたり込む。
ニーナは素早く起き上がり、魔獣からオリヴィアを庇うような位置に立った。
「ルイザ、オリヴィア様を外壁の中へ! 私が時間を稼ぎます! クレイグ隊長達に救援を!」
「しかしきみを一人残していくわけには」
「魔獣は、私にはすぐには襲いかかってこないはず。でもオリヴィア様は……!」
ルイザはオリヴィアにちらと目をやると、小さく舌打ちした。
「わかった。すぐに助けを連れて戻る!」
言うが早いか、ルイザは座り込むオリヴィアを肩に担ぎ上げ、街に向かって駆け出した。
すぐさまニーナは、ルイザ達の方に足を向けようとした魔獣に向かって、『祝福』を施した小石を投げつけた。
「あなたの相手は私ですよ!」
握りしめた小石を、二つ、三つと立て続けに投げる。この程度で魔獣に傷を付けられるとは思っていない。だが狙い通り、気を引くことはできたようだ。
魔獣はルイザ達を追おうとした足を止め、鬱陶しそうにニーナに向き直った。
けれどすぐに襲いかかってはこない。ニーナから一定の距離を保ったまま、落ち着きなくウロウロと行ったり来たりしている。
身の内に聖なる力を宿すニーナは、魔獣にとっては疎ましい存在なのだ。食らいつくべきか避けるべきか、迷っているのだろう。低い唸り声を上げながら、ニーナの様子をうかがっている。
力を推し量られている。ニーナはそれをひしひしと感じながら、地に足を踏ん張り、魔獣を睨み据えた。
目を逸らしてはいけない。気圧されてはいけない。嫌な汗が背筋を伝う。
やがて魔獣が足を止め、赤い目を光らせた。生臭い涎がたらりと垂れる。ニーナが弱っていることを見抜き、獲物と見定めたらしい。
(イチかバチか、『間接浄化』を……!)
『間接浄化』は一度に大量の神力を消耗する。ニーナは昼間の猪魔獣との戦闘で大規模な『間接浄化』を展開し、すでに大量の神力を消費している。その後も『浄化』に『治癒』にと奇跡を使い続け、すでに神力酔い寸前の状態だ。
『間接浄化』を発動させられるかどうかすら怪しい状況。成功させる自信はないが、剣を持たないニーナの武器はこれしかない。騎士団が来てくれるまで、一人で持ちこたえるために。
ニーナは魔獣を見据えたまま片膝をつき、地面に右手を押し当てた。深く息を吸い込み、吐くと同時に右手に神力を集中させた。
ニーナの右手から放たれた青白い光が、魔獣に向けて電撃のように地面を這う。
光が魔獣の足元を捕えた瞬間、魔獣は雷に打たれたかのように巨大な身体を震わせた。その口から苦しげな唸り声が漏れる。
青白い光が、魔獣の身体を足先から徐々に染め上げていく。黒い靄が立ち上る。
額から流れた汗が目に滲みる。明確な神力酔いの兆候が、激しい頭痛と吐き気の形でニーナに襲いかかった。
わななく右手を左手で押さえつけ、ニーナは神力を放出し続ける。
その間にも聖なる光は魔獣を浸食し、腰の辺りまで染め上げる。
(あと、少し……!)
そのとき、ニーナを激しい眩暈が襲った。視界が大きく揺らぎ、ぐらりと身体が傾いだ拍子に、神力を放っていた右手が地面から離れる。
(いけない!)
気力を振り絞り、再び右手を地面に当てたが、魔獣はわずかに生まれた隙を見逃さなかった。
素早く飛び退り、『間接浄化』の範囲から逃れる。そしてすぐさま、座り込む獲物めがけて地を蹴った。
ニーナは声を出すこともできずに固まった。魔獣の咆哮が耳を貫く。鋭い牙と爪が目前に迫り、ニーナは反射的に目を閉じた。
けれど覚悟していた痛みは訪れず、ニーナはおそるおそる目を開け、そして息をのんだ。
魔獣からニーナを庇うように立つ、たくましい騎士の背中。太陽の光を集めたような金の髪が、闇の中で鮮やかにきらめく。
「クレイグ隊長!」
「遅くなってすみません、ニーナ様。ご無事ですか?」
振り返らないまま、ウィルが問いかける。
「はい! でもクレイグ隊長が……!」
見れば、ニーナ達と向かい合う魔獣には片腕がなく、赤黒い血がだらだらと流れ落ちている。
けれど魔獣を切ったウィルも無傷ではなく、頬が切れて血が滲んでいた。
「この程度、かすり傷ですよ。それよりも、ニーナ様は下がっていてください」
ウィルは全身に覇気をまとい、野獣を睨み据えている。
ニーナは大人しくうなずいた。足手まといになるわけにはいかない。
「でも、これだけ……。クレイグ隊長に祝福を」
ニーナは剣を握るウィルの手に自身の手を重ね、残る力を振り絞って『祝福』を行使した。かすかな青い光がウィルの剣に宿る。
「ありがとうございます。ニーナ様の祝福、確かに受け取りました。魔獣は必ず倒します!」
口元に小さな笑みを浮かべ、ウィルが剣を構え直す。
怒り狂った魔獣が再び地を蹴ったのはその次の瞬間だった。
魔獣が咆哮をあげながらウィルに迫り、鋭い爪を振り上げる。その動きを冷静に見定め、ウィルもまた地を蹴り、雄たけびと共に剣を突き出した。
勝負はその一合で決まった。
動きを止めたままの両者を、ニーナは息をつめて見守る。
やがて、どうと地響を立てて魔獣の身体が倒れた。ウィルの剣が魔獣の口から脳髄を貫いたのだ。
(倒した……!)
安堵した次の瞬間、ニーナは凍りついた。
ニーナの目の前で、ウィルの後ろ姿がぐらりと傾ぐ。そのままウィルは、崩れるようにその場に倒れこんだ。
「クレイグ隊長!」
ニーナは悲鳴のような声をあげ、ふらつく足でウィルのもとに駆け寄った。そして戦慄した。
ウィルの騎士服の前面が大きく裂け、胸から腹にかけて肉が深く抉れている。おびただしい血が流れ、みるみるうちに地面に赤い水たまりを作った。
ニーナはひざまずき、ウィルの頭を膝に抱きかかえる。その顔からは急速に血の気が失われていく。今にも途切れそうな弱々しい呼吸が、かろうじて彼が生きていることを伝えていた。
「しっかり……しっかりしてください! すぐに『治癒』を……!」
ニーナはウィルを抱きかかえたまま、両の掌から神力を放出する。いっそう激しい頭痛と吐き気に襲われ、ニーナは歯を食いしばった。けれど緑色の聖なる光は今にも消えそうなほどに弱々しい。
(血が……血が止まらない……!)
ともすれば途切れそうになる意識を必死に保ちながら、ニーナはなけなしの神力を注ぎ続けた。だが、流れ出る血はいっこうに止まらない。
「隊長!」
遅れて駆けつけた騎士達の先頭で、バージルが悲痛な声をあげる。
騎士達と共に戻ってきたルイザもまた、ウィルの状態に息をのんだ。
「ルイザさん、隊長、助かりますよね!? ニーナ様が『奇跡』で助けてくれますよね!?」
ルイザはうつむき、唇を噛む。
「……ニーナは……もうすでに神力酔いを起こしかけてる。まともに奇跡を使える状態じゃない。今だって、意識を保ってるのが不思議なくらいなんだ……」
「そんな……! じゃあオリヴィア様に……!」
「副隊長、オリヴィア様をお連れしました!」
ちょうどそのとき、別の騎士が腰を抜かしたままのオリヴィアを横抱きにして駆けつけた。
「オリヴィア様、隊長を助けて下さい! お願いします! 今すぐに『治癒』を!」
バージルがオリヴィアに取り縋る。
けれどオリヴィアは、血まみれのウィルに小さな悲鳴を上げ、カタカタと震えるばかりでウィルに近寄ろうともしない。
「オリヴィア嬢に言っても無駄だよ」
ルイザが静かに口を挟んだ。
「このお嬢様に聖女の力はない」
「……は?」
騎士達の目が一斉にオリヴィアに向けられる。オリヴィアは青褪めた唇をわななかせ、おどおどと視線を泳がせた。
「時々いるんだ。奇跡を扱えもしないのに、教会に金を積んで娘を聖女にしたがる馬鹿な貴族がね」
「そんな、だって……」
「オリヴィア嬢が奇跡を使っていたと言いたいんだろう? 使えるのはお嬢様の侍女達さ。彼女達がこのお嬢様の代わりに奇跡を行使してた。おおかた、アクロイド侯爵が娘を聖女に仕立て上げるために、聖女の力を持つ者を密かに集めたんだろう。私もニーナももちろん気づいていたが……教会の上の者に意見できる立場じゃなくてね……」
「あんた、オレ達を……いや、国のみんなを騙してたんだな」
バージルが彼には珍しく怒気をはらんでオリヴィアを睨みつける。他の騎士達も同様に険しい目をオリヴィアに向けた。
ヒッと声を漏らしてオリヴィアは後ずさり、目に大粒の涙を浮かべた。
「わ、わたくしが悪いんじゃないわ! だって……だってお父様が、聖女になるようにっておっしゃったのよ! 聖女になればウィル様ともお近づきになれると思って……だから……だからわたくし……」
わたくしは悪くないもの、と繰り返して泣きじゃくるオリヴィアを、バージルは冷めた目で見下ろした。
「このことは騎士団の上部にも報告させてもらいます。誰か、オリヴィア嬢を教会までお連れしろ。勝手に出歩かないよう見張れ」
バージルの指示に、近くにいた騎士が二人、オリヴィアの両脇を抱え、引きずるようにして街の方に戻って行った。
バージルは再び倒れたままのウィルに目をやり、唇を噛む。
ニーナの必死の『治癒』にもかかわらず、ウィルの顔色はますます白く、呼吸は弱々しくなっていく。
ニーナはなけなしの神力を必死で注ぎ込むが、流れる血は止まらない。
(……せめてあともう少し神力があれば……せめて止血だけでも……!)
いつもなら息をするように行使できる『治癒』。それがどうにもままならない。ニーナの視界が滲んで霞む。
「クレイグ隊長! どうか、どうか目を開けて……!」
震える声で、懇願するようにウィルを呼ぶ。こぼれ落ちた涙が一粒、ウィルの頬を濡らした。
そのとき、ニーナの声に応えるようにウィルの瞼が震えた。閉ざされていた瞼がわずかに持ち上がり、空色の瞳が虚ろにニーナを映す。
笑みを浮かべようとしたのか、それとも言葉を発しようとしたのか。血の気の引いた唇がかすかに動いた。
ウィルが血に濡れた右手を持ち上げ、ゆっくりとニーナに延ばす。けれど、震えるその手はニーナの頬に触れる寸前で、糸が切れたように力を失った。
(いや……!)
声にならない悲鳴を上げたその瞬間、ニーナの視界は暗転した。




