お葬式
おじいちゃんが入院することになって、すぐにお見舞いに行った。
学校帰りに、制服のままで。もう七月。不安に思いながら、病院までに歩き進む間にうっすらと汗をかいていく。
市民病院の病室で久しぶりに会ったおじいちゃんは、だいぶ体がやせ細って、以前とは全然違う姿になっていたけれど、それでも笑顔で孫を迎えてくれた。
「美青元気にしてたかい?」
「おじいちゃん……うん、私は元気だよ。おじいちゃんも元気になってね」
「そうだね」
頭を撫でてくれながら、おじいちゃんは何か考えているようで、しばらく黙り込んでいた。
「美青に、あの家を残そうと思うんだ」
「……え?」
「僕の家。小説を書くのに必要だったものが残されているから、全て美青の好きにしていいよ」
「何言ってるのおじいちゃん。おじいちゃんはすぐに退院して戻ってくるよ」
「うんうん。分かってる。だから、いつかの話。僕だっていつまでも生きていられるわけじゃないから。そうなったときのことを考えたんだ。一番あの世界を愛してくれた孫娘に残したいって」
「……」
おじいちゃんの一人娘である私のママは、小説にあまり興味がない。
血縁者は他にはもう私しかいなくて、おじいちゃんの小説を大好きなのも私しかいなくて。
「美青なら、大切にしてくれるって分かっているから」
「おじいちゃん……」
「処分してもいいけど、一度は色々見てからにしてもらいたいんだ」
約束だよ、おじいちゃんは笑って言った。
おじいちゃんが亡くなったのはそれからすぐだった。
試験の最終日に連絡が来て、私が駆け付けたときにはもう遅かった。お母さんが泣き崩れていた。最期の顔はとても穏やかだった。
試験休みの間に葬儀を行って、その間に出版社からの訃報が出たけど、身内だけの葬儀ということで、ファンの方たちからは手紙がたくさん届き始めたようだ。
心の中から、大事なものがごっそりと消えてしまったような、そんな気持ちになっていた。
バタバタと忙しい日々で、気持ちが付いていかなくて、私はまだ泣いてもいなかった。
試験休みが明けて登校する。学生の喧騒ほど、平和な日常を感じるものはないな……といつもと同じことを考えて、なんだか懐かしい気持ちになる。教室に着くとマキちゃんがお悔やみを言ってくれた。
「美青、ねぇ大丈夫?無理しちゃダメだよ」
「うん……ありがとう」
授業が始まる。返された試験用紙と、黒板の解答を見比べながら、ここは現実なんだよね、と夢見心地で思ってしまう。いつもの夢の世界のことを考えているときみたいに、ふわふわ現実感がない。
ぼんやりしてるうちに授業が終わって、地に足が付かない気持ちで帰ろうとしていると、「代々木さん」そう声を掛けられた。振り向くと佐伯先輩が駆け寄って来ていた。
「良かった、会えて」
「……先輩?」
息を切らして汗をかいているような先輩を初めて見た気がする。
どうしたのだろうかと首を傾げると、先輩は少し困ったように笑った。
「ごめんね、呼び止めて」
「いいえ、全然」
「代々木先生のこと……とても驚きました。心からお悔やみを申し上げます」
おじいちゃんのことだ。先輩はファンだと言ってくれていたから。
「ありがとうございます……」
気に掛けて追いかけて来てくれたのだ、ありがたいことだ。
返事をしながらも、私はどこかとてもぼんやりとしている。
「代々木さん、なにかあったらいつでも力になるから頼ってね。倒れてしまいそうで、心配だよ」
「え?」
そういえばお母さんが「あなた痩せたからちょっと食べなさい」そんなことを言っていた。
思わず頬に手を宛ててみたけど、たしかに、ちょっと骨っぽくなってきたような。
「あ、はい。ありがとうございます。気を付けます」
「……」
先輩はまた困ったように笑う。
「今日だけ送らせてくれないかな。心配だから」
「え、でも……」
「俺の家も同じ方向だから」
「あ、はい……」
言われるがまま先輩の少し後ろに付いて歩いた。先輩は何度も振り返る。私たちはほとんど話さなかったけど、先輩はずっと私の様子を気に掛けてくれている。その様子を見ていて、そうだお線香を上げて行ってもらおう、そんなことを思いつく。
マンションの前についてから、先輩を見上げて行った。
「先輩、上がって行ってください」
「え、でも」
「おじいちゃんも喜びますから」
「……なら、少しだけ」
三階まで階段で上がって、玄関を開けると、家の中にはおかあさんがいないみたいだった。おとうさんも仕事に行ってる。
先輩は少し躊躇するようにしてから上がってくれたので、四畳半の部屋に作った仏壇の前に案内する。
先輩はじっと見つめてから、そっと座布団の上に膝を落とした。
その様子を見てから、台所に行って麦茶をコップに注ぐ。リビングに戻ってくると、先輩が仏間から出て来たところだった。
「ありがとう、代々木さん」
「こちらこそ……わざわざありがとうございました。先輩」
お茶を勧めると、先輩がやっとソファに座ってくれて、二人で黙ったまま麦茶を飲んだ。麦茶が冷たくて体に染みる。
暑い。もう、夏が来ている。
先輩は、少し視線を伏せていて、長いまつげに影が出来ている。鼻筋の通った端正な顔立ち。
外からセミの鳴き声が聞こえて来て、家の中には、王子様のような容姿の先輩が麦茶を飲んでいる。
ここに来てやっと気が付いた。
こんなにぼんやりしていなかったら、きっと先輩に送ってもらうことも家に上がってもらうこともなかった気がする。日常が非日常になってしまった。
今更ながら目の前の光景が信じられなくなって、私はぱちぱちと瞬きをした。やっぱり、うちに先輩がいらっしゃる。
すると先輩は視線を感じたのか、顔を上げた。
「代々木さん?」
先輩が言った。色素の薄い、綺麗な瞳が私をまっすぐに見つめた。
「大丈夫?」
「え?」
「なんだか、消えてしまいそうで……いや、そんなことないよな。ごめん」
先輩がかぶりを振る。
「今日はありがとう。もう帰るよ。いつでも、連絡してくれていいから」
先輩は気遣うように笑ってそう言ってくれた。
こんなぼんやりしてる間にも夢はずっと見ていて、夢の中の男の子は、最近では人間に殺されてしまうことが増えていた。
――死。
おじいちゃんが亡くなってから、急に死というものが身近に思えるようになった。死んだらもう二度と会えなくて、それに死ぬ時はきっと恐ろしく苦しい。
男の子は、殺される時いつも痛みに狂い死にそうな顔をしていた。なのに、何度も何度も死を経験させられる。死ぬことを許されないように。
あの男の子の心は……大丈夫なのかな。
初めてそんなことを思う。
長く夢を見ていて、今が一番、夢の中の男の子を身近に感じている気がする。
そわそわと、早く夢を見たくなる。
あの子に会いたいなって思う。
もっとたくさん……あの男の子のことを知りたいって。