母が結婚詐欺師に騙されて没落した元伯爵令嬢ですが、侯爵を名乗る男に求婚されています。
「エステル・シャローさん、僕と結婚していただけませんでしょうか」
パン屋の店員であるエステルのもとに現れた青年はうやうやしく膝を立て、指輪を差し出した。整った顔立ちに、地味ながらも気品を感じさせる服装、そして店の前に止まった馬車にはグラティク侯爵家の紋章があしらわれている。
突然の出来事に、パン屋を訪れた主婦たちは口に手を当てて驚いている。
しかし、エステルの反応は冷ややかだった。
「皆様の迷惑になるので、こういったことはおやめください」
エステルは男が差し出した指輪の箱を閉じて押し返した。
「ではせめてどこかでお茶でも──」
「勤務中です。警察を呼びますよ」
エステルはにべもなく告げた。こんな見るからに詐欺師のような男に構っている暇はないのだ。エステルが元伯爵令嬢ということもあり、まだ金を持っているだろうと近づいてくる人間は絶えない。こういう風に見た目は金持ち面をしている人間ほどそうなのだ。まして高い身分を自称する人間など詐欺師の典型例だ。
男はそれでもめげずに続けてきた。
「では、終わるまで待っています」
「……お好きにどうぞ」
エステルは裏に入った。すれ違い際に同僚に「なにあれ? 彼氏?」と言われたが、エステルは聞こえないふりをした。
※※※※※
エステルの家に継父が来たのは、父の喪も開ける前だった。ジャメルという男だ。父の友人を自称するその男は、父と母方の祖父母を亡くした時に突然現れた。そしてまだ若く貴族としての経験の薄い母に成り代わって葬式の一切を取り仕切っていた。
娘であるエステルの目から見ても、母は意志薄弱な女だった。愛する夫を突然失えば仕方ないことではあるが、それを差し引いても意思が弱かった。上流階級の女として今までずっと流されて生きてきたというのもあるだろう。そんな女の元に颯爽と現れて引っ張ってくれる男が現れて依存しないはずがなかった。
継父と初めて会ったときのことを覚えている。きらびやかな衣装に身を包み、健康的に日焼けしていた。年齢はわからない。二十代と言われればそう見えるし、五十代と言われてもそこまでは驚かないような外見だった。
「あ、アレがエステルちゃん?」
当時エステルは十歳だった。人を示すときに『アレ』という呼び方をしているのを見たのは初めてだった。
「俺、子供好きなんだよねー」
ジャメルは満面の笑みを浮かべてしゃがみこみ、エステルに目線を合わせる。犬でもかわいがっているような口ぶりだった。全く未知のタイプにエステルは圧倒されていた。
エステルが困惑していると、ジャメルは興味をなくしたように立ち去って行った。エステルが母に「あの人が新しいお父さんになるの?」と聞くと、母は「ええ」と返しただけだった。
仲良くしてね、とか意外といい人なのよとか、そういう不安を和らげる言葉は一つもなかった。
※※※※※
エステルが一人でトランプの神経衰弱をしていた時、ジャメルが部屋に入ってきた。ジャメルはエステルを見ると感心したように近づいてきて、真剣な表情で語り始めた。
「いいかい、エステル。記憶力というのは世の中で一番大事なものなんだ。ほかの奴らは教養とかマナーとかが大事だって言ってくるけど、騙されちゃいけないよ。あいつらは自分たちに都合のいいことしか教えないからね」
エステルはうなずいた。なんとなくそうした方がいい気がした。
「世の中にはすべてのことに理由があるんだ。だれがどんなことを言っていたか、どんな行動をとっていたか、どこに何があったか。そういったことを覚えていれば俺のような大物になれるからね」
ジャメルが自信満々にそういった。エステルはジャメルが何をしている人なのか知らなかった。芸術家と言っていたが絵を書いているのを見たことはなかった。
「俺もね、よく言われるんだよ。そんなことよく覚えてたね、とか記憶力いいねって。俺みたいになりたかったら日ごろから気を付けて生きていないといけない。だからエステル、次のパーティーに出るときは何があったかよく覚えておくんだよ」
「は、はい」
エステルはジャメルのような人間になりたいわけではなかったが、とりあえず同意しておいた。気を付けて生きていないといけないといわれても、どういう意味かよくわからなかった。
※※※※※
パーティーの日、エステルは一人で庭を歩いていた。周囲の雰囲気から、どことなく疎外感を覚えていた。最初は父が死んで同情されているのかと思っていたが、なんとなく歓迎されてない雰囲気を感じていた。だからエステルは一人みんなの元から離れたのだった。
かつて父が取り仕切っていた仕事は、今はジャメルが後を引き継いでいる。ジャメルは貴族的な教養やマナーを敵視しているような節が見えた。このパーティーにもエステルだけを出席させ、ジャメルは参加しなかった。そういった行動が彼らに不快に映ったのかもしれない。
庭の中を進んでいくと、少年が一人で椅子に座って黄昏れているのを見つけた。二人は互いの存在を認めると、警戒しながらも相手が何をしているのか気になるといった感じで離れたベンチに座って様子を伺い合うという状況になった。
やがて少年の方が耐えかねたのか立ち上がり、去っていこうとした。エステルは少年が片足から血を流しているのに気付いた。
エステルは流石に申し訳なく感じ、彼を引き留めた。後からきておいて、怪我人を追い出すのは気が引けた。亡くなった父から贈られたハンカチで手当てをして、世間話をした。何を話したのかはあまり覚えていない。その時はジャメルの言ったことにあまり注意を払っていなかったからだ。
話は盛り上がり、パーティーが終わるころには、彼と別れることに少しの悲しみを覚えていたくらいだった。それにも関わらず名前を聞くことすら忘れていた。また会おうと約束したが、結局会うことはなかった。彼の顔すら、エステルは覚えていなかった。
今から考えれば信じられないことだ。このパーティー以降に起こった出来事はすべて記憶しているというのに。
※※※※※
エステルが屋敷に帰った時、ジャメルが待ち構えていた。不機嫌そうな顔をしていた。
「今からどれくらい覚えているかテストする。なんでもいいから起きた出来事を答えて」
エステルは庭で男の子と出会った時の話をした。数時間話していたから具体的にどんな話をしていたのかは覚えていなかったが、なんとかいくつかの話題を思い出した。話を聞いている間、ジャメルはみるみる不機嫌になっていった。
「そいつの名前は?」
エステルは答えられなかった。聞いてなかったからだ。ジャメルは「はぁーあ」と長いため息をついた。
「もういい。こっちから質問する。モレロン夫人が飲んでいたものは?」
覚えているはずがない。そもそもなんとか夫人が来ていたかどうか、出席していないジャメルにわかるのだろうか。
「お、覚えてないです」
「それじゃあテステュー伯爵は誰と話していた?」
「わ、わかりません」
ジャメルはつかつかと近づいてきてエステルの目の前に立った。
「お前さぁ、何しにパーティに出たの?」
理由など知らない。行けと言われたから行ったのだ。しかしそんなことを言ったら火に油を注ぐことになるのはわかりきっていた。エステルは何とか頭を巡らせて答えた。
「知り合いを作ったり、情報を集めること?」
バンッ!!
気づくとエステルは床に倒れていた。頬を張られたのだ。人生で初めての経験だった。
「分かってんならなんでやらねぇんだよ!! てめえは!! 俺、いったよなぁ!? 世の中は記憶力が一番大事だって!! なぁ! 俺言ったよなぁ!!」
「………ぃ」
はいと言ったつもりだったが震えて声が出なかった。
「返事は!?」
「は、はい! 言ってました……」
「じゃあ何でやらねぇんだよ! なぁ! 俺みたいに積極的に情報を聞き出せとは言ってないんだよ! ガキだからな! でも聞き耳立てて覚えることくらい出来るだろ! なに名前も知らねぇガキと乳繰りあってんだよ! ませたガキがよぉ!」
視界の隅に母の姿が見えた。しかし母が助けてくれることは無かった。エステルは暗澹たる気分になった。
「いいか? 誰の好みが何で! 誰が誰と仲がいいのか! 頭に叩き込め!」
その日からジャメルによる淑女教育が始まった。
※※※※※
エステルはベッドの中で時計を見ていた。時間通りに起きなければならない。淑女たるもの夫より早く起きておかなければならない。そのためには決められた時間に目覚める訓練が必要なのだそうだ。
エステルは起きる時間の数時間前からベッドの中にいた。一度起きてしまうと眠れなかった。
メイドに起こしてもらうという発想は口に出さなかった。親に口答えしてはならない。ジャメルはどれほど些細なことでも過ちを認めない人間だった。
屋敷において絶対的な支配権を握っているのはジャメルであり、それに反抗すれば容赦ない折檻が下った。
『誰の金で生きてると思ってるんだ』ことあるごとにそう言われた。誰の金かというと父の遺産なのだが、それを握っているのはジャメルなのでどうにもならなかった。
母は普段何をしているのかよくわからなかった。自室に籠ることが増え、稀に屋敷で会うと変な臭いがした。エステルは何故こんなにも臭うのに母は気づかないのだろうと疑問に思っていたが、後にそれは違法な薬物の匂いだったと知った。
バッ!
シーツが引き剥がされた。ジャメルがいた。
「なに起きてんだてめぇ! なぁ! なにズルしてんだよ! やる意味ねぇだろ! なんのためにやってんのか分かんねぇのか!」
この訓練が貴族社会で役に立つことは無かった。シャロー家は既にあらゆる家から関係を立たれていた。
ただ、朝が早いパン屋に出勤することにだけは役に立った。
※※※※※
数年が経ちシャロー家の遺産はみるみる減っていった。使用人は誰もいなくなった。まともな服はなくなり、エステルは見た目が平民とさして変わらなくなっていた。一人で街を歩いていても、エステルが伯爵令嬢だと気づく人間はいなかった。
ようやくジャメルの淑女教育の熱も冷めた。もうシャロー家を貴族として認識している人間はいない。エステルは母からお金を渡されて外に出されることが多くなった。
エステルもその方が楽だった。エステルのいない屋敷で何が行われているか知らない年齢ではなかった。
エステルは毎日屋敷の書庫から本を持ち出し、外で読んでいた。ある日、書庫で隠すように本棚の隙間に挟まっている本を見つけた。父の手記だった。
生前の父は母に近づく人物に懸念を抱いていた。その男は芸術家を自称して上流階級の屋敷に忍び込み、適当な言葉で婦女を騙して高額の絵を売りつけたり、物を盗んで出ていったりするという。
すぐにジャメルのことだと気づいた。やはり友人でもなんでも無かったのだ。しかしエステルにはどうすることも出来なかった。頼るべき人は誰もいなかった。
ある日、エステルが屋敷に戻ったとき、ジャメルが玄関にいた。エステルは無視してそそくさと自室に戻ろうとしたが、ジャメルに呼び止められた。
「お前さぁ、働きもせずに毎日外でフラフラしてさぁ、申し訳ないとか思わないの?」
ジャメルには言われたくなかった。その時のジャメルは小汚く、不摂生が祟って肌が荒れていた。歯は黄色くボロボロで、酒なのか何なのかよく分からない臭いがした。
「わかりました。ではどこかのお店で雇って貰います」
「……はぁ、そうじゃねえだろ。世話賃だよ世話賃。分かるだろ」
世話賃の意味することはすぐに分かった。背後から抱きすくめられ、髪を撫でられた。服の上から体を触られた。
エステルは思いっきり頭を後ろに振った。エステルの後頭部がジャメルの顎に直撃し、たまらずジャメルは後ろにのけぞった。
「このアマぁ!」
エステルは持っていた本の角で殴った。若く、毎日外で歩いていたエステルと、薬に塗れ、爛れた生活を送っていた中年のジャメルでは勝負にならなかった。
エステルは万年筆を肋骨の隙間からジャメルの肺に突き刺した。ジャメルはヒューヒュー息を漏らした。
「てめえ……自分が何してるか分かってんのか……俺は親だぞ……親に手を出していいと思ってんのか……」
ジャメルを父親と認識したことはなかった。子供に手を出そうとしておいて何を言っているのだ。エステルは脇腹を蹴った。ジャメルが身をよじる。ジャメルは一転して命乞いを始めた。
「いてぇよぉ……死んじゃうよぉ……早く医者呼べよぉ……このままじゃ本当に死ぬよぉ……いいのかよぉ……」
エステルは万年筆を引き抜き、反対側の肺に突き刺した。血がドロドロと流れ落ちていた。母は薬物の中毒者だ。まともな証言は出来ず、母が犯人とされるだろう。
エステルは走った。二度と屋敷に戻ることは無かった。
※※※※※
それから先、エステルは各地を放浪しながら過ごした。しばらく働いて、お金を貯めては旅に出る。自分の過去はほとんど喋らなかった。話して良いことは何も無かった。
没落した伯爵令嬢という過去は相手の好奇心を満たすだけで、元貴族だから生意気なんだとか、下らない決めつけをされたりすることの方が多かった。
それでもいつもどこかから過去が漏れた。バレるとたいていその場にはいられなくなった。一度貴族を抱いてみたかったとか、どこかに金の隠し場所があるはずだとか近づいてくる男ばかりに付きまとわれた。
エステルは辛くなったとき、あのパーティで出会った少年のことを思い出す。曖昧な記憶は美化され、一生のものになった。
いつか彼に会いたい。でも現実を知って失望したくない。そんな相反する感情の狭間で揺れていた。
だからこそパン屋に現れ、侯爵を名乗って突然求婚してきた男が現れたとき、エステルは許せなかった。美しい記憶が汚されたように思えた。
「エステルさん、ちょっといいかな」
店長に呼び出され、エステルはパン窯の掃除の手を止めた。
「あのさぁ、困るんだよね。こういうの。侯爵だとかなんだか知らないけどさ、あんな馬車が表にいるとお客さん入らなくなっちゃうじゃん」
「……警察を呼べばいいじゃないですか」
「はぁー、これだから貴族のお嬢様は。あ、元か」
店長の言葉にエステルの頬が痙攣した。
「あのね、本当に侯爵様だったらどうするの? 責任持てるの? ねぇ、こっちとしてはそんな無用な危険を取りたくないの。なんか知らないけどさ、君目当てで来てるんでしょ? 君がなんとかしてよ」
エステルはエプロンを外して机に叩きつけた。
「辞めます。今までお世話になりました」
エステルは背後で「これだから最近の若者は……」とぼやいている店長を無視して店をでた。
※※※※※
「エステルさん!」
背後からかけられた言葉にエステルはいらだたしげに振り返った。例のロニー・グラティス侯爵を名乗る男だった。
「なんですか。しつこいですよ」
男は息を切らしていた。走ってきたようだ。
「すみません。どうしても話をしたくて……その、僕を覚えていませんか。前に会ったことがあるんですが」
覚えがなかった。それに『前に会ったことがある』は女性に声をかけるときのの常套手段だった。
「人違いです。私に侯爵の知り合いはいません。私が元貴族だって言う人もいますがそれは全て妄想ですから」
そう言われた男は微塵も怯まずに言った。
「いえ、あなたはシャロー家の一人娘のエステルさんです。数年かけて調べあげました。その、どうしてもこれをお返ししたくて」
男はハンカチを差し出した。それにはエステルも見覚えがあった。
「これ、シャロー伯爵の形見だったと聞いていたので、どうしても返さないといけないと思いまして。ですが、シャロー家は外部との接触を絶ってしまいますし、最後には伯爵夫人が無理心中を図ってエステルさんが行方不明と聞いて、あなたを探し出すのに時間がかかってしまったのです」
男は照れるように頬をかいた。エステルはじっとハンカチを眺めた。確かにあのパーティで少年の手当に使ったハンカチだった。
「その、どこかでお話出来ませんか? もしよろしければ先程のパン屋さんを貸し切りにして──」
エステルは口を開いた。
「あのパン屋は辞めました。なんの便宜も図らなくて良いです」
「え? ええ、わかりました」
「グラティス侯爵、ですね」
「あ、ロニーで構いません」
ロニーはそう訂正した。エステルは少し好感を抱いた。これまで上から目線の男とばかり会っていたからかもしれない
「どうしてここまで私を追いかけるようなことをしたのですか?」
ロニーは恥ずかしそうに切り出した。
「その、あの時は両親が少々不仲でして……そこで似たような境遇のエステルさんに出会って、本当に救われたのです。それからずっとエステルさんのことが頭の片隅にいて、それで行方不明と聞いていても立ってもいられなくなって……その……なんでなんでしょうね?」
エステルは笑った。久しく笑っていなかった。数年ぶりくらいかもしれない。
ロニーもエステルに釣られたように笑った。
「やっぱりどこかでゆっくりお話でもしましょうか」
エステルはそう提案し、二人でパン屋の方角に戻った。その時には帰りの遅いロニーを心配して凄まじい人数の使用人や護衛が集まっていた。エステルは店員達の羨望の目に見つめられながら、侯爵の馬車に乗り込んだ。