1 もしいるとするならば、背景設定氏の一人語り
二十七年前から卵は高級品だ。しかし卵だけじゃない、穀物、家畜、鉄、もっとも向上したものは自由の価値だ。原因は中国とロシアの開戦。後国は領土の半数を凍土に覆われていた、国民の我慢は限界だ。なぜなら領土に任せて隣国に虚勢を張ることに疲労してしまったのだから。それに国内に抱える核兵器の数に応じて年利十数パーセントの賠償金を国際連合に支払うことになっていたから、生活の質はどん底になる。本当は受け入れるべきではなかったのだ、これは最終手段だった。
この星の温暖化というものが衰退してからというものの、ロシアは気の毒なくらいのダメージを負ったのだ。南から上る暖気はその勢いを失い、代わりに数少なくまともに使えていた領土周辺の海域が音を立てながら氷り始め、それまで不凍港であった港までもが北から使い物にならなくなった。それまで我が日本を含む数カ所と領土問題を抱えていたが、これらがすべて無為に帰したわけである。また、厳しい寒帯の気候では満足に食料生産ができない、しかし国民は生きている。国としての体裁を保つには他国に頼る他無いのだった。
これに目を付けたのが当時ロシアと同様の大国であったアメリカで、これが主体となり複数の同盟国がロシアに援助を開始、ただし条件があった。
かねてより国際社会の悲願であった核兵器の撲滅に向けて、全世界の核兵器をアメリカに本部を置く国際連合の債権とすること。当然、世界各国に核兵器を保持する地域の代表者が同意することは無いが、それで良いのだ。アメリカはここれを拒否した国と次々に開戦し、流石は大国、そのほとんどを一週間以内に降伏させた、ロシアを除いて。アメリカはロシアを飼い殺すつもりだったのだ。大国とはいえこれだけのことを単独で?そんなはずはない、協力者がいたそれも多数、国家単位で。日本も協力した。具体的には戦力の供給、特に中国が際立った。ロシアにもっとも近く、今や広大な土地と安く水準の高い科学技術が広く普及している。既に寒冷化で兵器兵力ともに多くが使い物にならなくなっていたロシアは中国を少しも侵できず、また少しの被害を与えることもできず、こうして本当に追いつめられたのだ。
さらに経済制裁とでも呼べるような扱いは続く。
ロシアへの食糧、機械機器設備などの物資供給は中国を通して行われる(北の海は使い物にならない)。加え、核兵器借用の債務をはじめその他多くの土地、設備が不良債権になるなど、ただでさえ負債を抱えるロシアにあえて積極的に投資を行う者はおらず、事実、中国は好きなようにできた。中国の提示するあらゆる金額をロシアは飲むしかない。さんざん金巻き上げたあげく、今度は人員の移動の自由を認める国家間条約を一方的に認めさせた。この輸送に関係するものは共同出資だが、ロシア国民にとってはメリットがあった。彼らの生活は貧しく、かといって他国に出稼ぎに出ようにも渡航費用すら工面できない、まして自国の空港が機能していないのだ。求人は若い白人女性のものが最も多く、次に軍務に関するもの、残りは主に肉体労働の派遣業務だった。いずれも過酷な条件であったが、各々募集の倍以上の希望者が殺到した。それにあぶれた者たちも新天地を求めて祖国を後にした。そのほとんど全てが若者だった。これが中国のねらいである。しかしロシア国民全員が理解していた、それでもそうするより他、彼らが人間らしく生きていくことは困難だったからだ。
ちなみに、この略奪とでも表現できそうな中国の所行が国外に漏れ、ニュースとして報道され全世界を駆けめぐることなどはあるはずもない。それら情報入出の規制は、一端入国したロシア人が実は自由に帰国することを許されなかったり、祖国に送金を行う際に法外な手数料を要求されること、労働者らの給与から様々な天引きがなされ手元にはほとんど金が残らないことなど、そのほか一切合切を大陸の中に封じ込めた。金を失い、人を失い、あとは何が残っている?
…。
核がある。
大量の核兵器がある。
しかし凍っているぞ?
氷付けの海の下から核弾頭を生やすにはどうすればいい?
そんなときだ。
「助けてやろうか?」
そう問われた。彼らは首を縦に振った。もはや回らない首付きの頭の集う、ロシアの総意だった。
話を持ちかけてきたのは中国からの輸入品にあった大量の有機無機併用式人型アンドロイドのうちの一体だった。数世代前の技術が用いられている古いもので、国内でも数年前まで使われていた。今の主流は完全有機式の人型アンドロイドなので、中国のどこかの企業が在庫の処分を目的に送ってきたのだと考えられていた。例え、おそらく輸送中何らかの衝撃で故障し、意味深で無意味な言葉を放つ時代遅れの不良品でも、高い金を払うのはこちらなのだ。輸入品の確認作業を行っていたとっくの昔に発狂した政府の上役人はこの機械と会話した。
「助けてやろうか?」
「何から助けてくれるんだ?」
「助けてやろうか?」
「俺を助けてくれるのか?」
「助けてやろうか?」
「…あほらしい」
だが彼は少しだけ癒された。上級の役人でありながらたった独りと数体の作業用アンドロイドを連れ現場作業をもう長い期間やっていたからだ。相手は機械だが、冗談に付き合うくらいには一瞬気が緩んだのだ。
「そんなに助けたいんだったら助けてもらおうとするかねぇ」
その不良品はそれ以上喋らなくなった。役人は少しがっかりした。
五日後、その役人は驚くべき報告を受ける。自信の支配下にあるドローンが撮影した動画で、オホーツク海沿岸の彼の管轄している領土の近海に潜水艦が浮上している姿があったのだ。ドローンの記録には二日前の日付があり、たった今まで録画が続いていたようだ。今となってはどこの管轄も全ての報告を几帳面に捌いたりはしておらず、中には判断をコンピュータに丸投げしている者もいるらしい。無論、彼も例外ではなかった。あわてて早送りで確認するも、永遠に艦が海面を揺蕩うばかりで敵影は見られない。信じ難いが我が軍のものらしい。至急にたった独りの人間の部下に連絡を取り、問題の海岸で落ち合った。二人はその景色を目の当たりにして唖然とした。数日前まで新大陸のごとく凍っていた海が砕け、巨大な鯨のような黒々とした潜水艦が海面から露出していたのだ。「こんなでかい水溜まりを見るのは久しぶりです」と部下が間抜けなこと言った。
「理由はこの際だ、疑問なのは何故誰も何も言ってこないのだ」
「衛星の不具合でしょうか」
「馬鹿を言え」
彼は左腕を腹に回し右肘を支え、霜がまぎれている立派な顎髭をさすった。
「お前の言うと通りだとして、これは報告すべき事態だ」
「何処にです?」
「中国…、ではない大統領か…」
「上官、自分はその必要はないと考えます」
「何だとっ!」
彼は規則に背く発言に対して度し難い憤怒を込めて部下を叱りつけたが、顔の皺一つ動かさずひるむことなくその場に直立して潜水艦を見つめており、やがて黙って号泣し始めた。その姿に怖じ気付いた。
それからどちらからともなくコンピュータに指示を出し、乗艦の体制を整える。幸いここに来るときに念のため持ってきた小船で確実そうだった。それに心なしか艦がこちらに近づいてきているようだった。海岸を離れ小船に乗り込む際、二人は『暖かさ』にさらされた。精神的な興奮を理由にできないくらいに強烈な暖気を肌に感じたが、二人はそれこそ気のせいだと捨て置いた。程なくして艦にたどり着き、入り口を確認する。錠ははずれていた。そこだけではない、艦内全てのセキュリティがアンロックされていた。大小規模を問わず全て、例えば照明のスイッチさえも。
二人は鑑の最深部に向かって歩みを進める。二人にはそれぞれ家族がいたが皆中国へ渡ってしまった。以来連絡をとっていない、既に自分に家族がいることを忘れている。表面上は魅力的な中国渡航を拒絶してまで二人は国に残った。そしてとうとう守るものが一つになった。だって彼らはとっくに発狂していたから。
「我々だけが愛国者だ」
十数分後、賽は投げられた。
ところで、ただでさえ高級な卵の最も効果的な使い方は何だと思う?
割って感動を得ることか?
茹でて安心を得ることか?
いずれも不正解である。正解は、投げつけることだ。投げつけて主張することだ。