雪山で手袋を拾った
スノボは楽しい。
その日も僕は、とあるスキー場へ向かって、ひとりで車を走らせていた。四月から就職して忙しくなれば、スノボに行く暇は今よりずっと少なくなると思う。平日に行けるのは学生のうちだけ。
目的地には予定通り到着し、スキー場のゴンドラを使って山頂へ降り立った。そこからは【コース外滑走は自己責任です。遭難の場合の捜索費用は自己負担となり──】と書かれている看板を通り過ぎ、コース外の森林へ入る。
決められたコースを真面目に滑るよりも、自分でルートを選んで、誰も滑っていない場所を滑る方が楽しい。自己責任でもかまわないから。
軽い新雪を跳ね上げながら、自分のボードで斜面に曲線をつけていく。
調子に乗って滑っていたら、予期せぬ場所にあった岩にボードをこすり、転倒して森の中を転がり落ちてしまった。そんなことは、森林内滑走をやっていたらよくあること。知らない場所だと、急に出てきた小川に突っ込んでしまうことだってある。危険と背中合わせになっているスリルを味わうのも、森林パウダー食いの醍醐味。
転がり続けた僕の体は、雪深い谷の中で止まった。転んで少しぐらい滑り落ちてしまったからといって、怪我をしたわけではないから、別に慌てもしない。それ以上滑り落ちて行かないよう、ボードの方向を直す。
山の地形図は頭の中に入っている。このまま尾根を切るように北東へ下っていけば、車が置いてあるスキー場の端っこに出るはずだ。
付近には誰もいない。人とぶつかる心配がなくて気楽でいい。誰の滑り跡もついておらず、今日は僕が一番乗りだ。
少し休憩するつもりで座り込んでいたら、だんだん寒くなってきた。晴天だったのに、いつのまにか雪が降り始め、それが徐々にひどくなってきていた。
残念、今日は降られないと思っていたのに。山の天気は気まぐれ。こればかりはどうしようもない。
気を取り直し、滑り始めようとして、立ち上がったとき、ふと黒いものが目に入った。
それは、一組の手袋だった。
積もりたてのの新雪の中、誰の滑り跡もない場所に、手袋だけがぽつんと雪の上に撒いたように落ちていた。
それは、見た目だけは新しそうに見えるスノボ用の五本指の手袋で、雪が積もっていないから、たぶん、発熱素材を使った高い商品だ。
こんな高そうな手袋を両手ともこんな場所に忘れていくなんてもったいない。うっかり置き忘れたようだ。
辺りには誰の滑り跡もついていないから、忘れた日に取りに来ることはなかったということ。
この手袋は、ここに置き捨てにされている。
ここで土になるぐらいなら、僕がもらおう。ちょうど、こういうのがほしかった。手袋はよく痛むから何枚あってもいい。
手袋を拾った。
ん?
妙に重い。鉛でも入っているようなずしりとした感覚が手のひらに落ちた。
なあんだ、がっかりだ。
見た目はきれいでも、防水が完全に死んでいて、放置されていた間に水を大量に含んでいるのかもしれない。そんな手袋ならいらない。
拾った手袋の状態をよく見ようと、顔に近づけたとたん、異臭が鼻を突いた。
僕は、悲鳴を上げて、拾った手袋を放り投げていた。
その手袋には中身が入っていた。
白骨化した人の手が。
僕の口が、勝手に悲鳴を上げたのと同時に、手袋内から、赤黒い肉がついた手の骨が、ぽろぽろと零れ落ちた。
冬の風に揺らされて木々がしなる。風に跳ね上げられた雪が、座り込んでいる僕を攻撃するように駆け抜けていく。冷たすぎて顔が痛い。さっきまでこんな風なんか吹いていなかった。
なんか、ここはヤバい。なにがヤバいかわからないけど、背筋から急に冷えて、震えが来た。
ここから逃げるんだ、早く。
大急ぎで滑り出す。
早く! より速く。もっとスピードを上げろ。
雪に覆われた山の斜面を全速で滑り降りる。
僕がボードを操る後ろから、ザザザ、ザザザ、と追走するような音が付いてくる気がする。後ろを振り返る勇気も余裕もない。
気のせいだ。あの手袋の主が付いてきているなんて、絶対に気のせいだ。
「おまえの手袋、持っていこうとしたこと、謝るぜ。ごめん」
口の中で小さくつぶやきながら必死でバランスととって滑走する。念仏のような自分の声すら気味悪く感じる。
背後ではどこまでも誰かが追走しているような音が聞こえる。
「もう返しただろ? かんべんしてくれよ」
雪が吹き付けてくる。ゴーグルに粉雪が付いて、中からも雲ってしまい、前がよく見えなくなってきた。木にぶつからないよう注意して進む。
白く雪をかぶった樹木たちが、雪の重みで変形し、のたうちまわるような姿で立っている。白が支配する世界の中、雪が付きそこねた樹木の幹や枝の下の部分は、黒、茶、灰などの色を添えているが、明るい色はひとつもなく、どこまでも寒々とした景色が広がる。
進んでも、進んでも、森は終わらなかった。
どうもおかしい。
スキー場の端までこんなに距離があったか? 三十分もあれば、到着するだろうと思っていたのに。
本当に誰もいない。誰にも会わない。
普通ならば、そろそろ聞こえてくるはずのスキー場の軽快な音楽が耳に入ってこない。聞こえるのは、雪が襲ってくるように吹き付ける風の音に、しなってうねる木々のざわめき。それと、僕が雪を削って進む、ズサッ、ザザザ、という音だけ。
さっきよりもさらに激しく降る雪が、逃げ続ける僕の顔に、容赦なくぶつかってくる。
息があがり、足腰ががくがくしてきた。もう限界だ。休憩しないと、踏ん張りがきかなくなって、怪我をしそう。
仕方ない、位置確認しよう。背後の音を気にしている場合じゃない。
ありったけの勇気を集めて、滑走をいったん止めて雪の斜面に尻をおろした。あえて後ろは見ない。今は、得体の知れない何かを怖がるよりも、こんな場所で遭難する方が危ない。
後ろを気にしないふりをして、雪深い斜面にめり込むように尻をおろし、スマホを取り出した。
「あーあ」
スマホの画面には大きなひびが入っており、完全に割れていた。さっき転んだ時に割れてしまったらしい。がんばっても起動する様子はなく、雪の結晶がどんどんくっついてくる黒い画面は全く動かない。
「くそっ、位置確認できねえ」
転んだって今まで割れたことなんかなかったのに。割れないように上着の内ポケットにケースに入れて持っていたのに。
スマホ買い替え決定。余計な出費だ。
ため息をつき、スマホをしまった。
周囲は似たような景色ばかりだ。厚い雪をかぶった樹木帯が続く。同じところをぐるぐる回っているような。
雪山の道迷いでそういうことがあると、どこかで読んだことがある。
だけど、僕は、ずっと滑り降りているのだから、ループしているということは絶対にない。
ループの心配はないとはいえ、どう考えても、スキー場までがこんなに遠いわけがない。僕は、転んだときに方向を間違えて、反対側の谷の方に下りてしまったみたいだ。
どこか民家が見える場所まで下るしかない。
「とりあえず、動くか」
脱力していた自分を勇気づけるようにつぶやいて、立ち上がろうとした。
「?」
手が。
雪に付いた手が、両手とも雪から抜けない!
「ちょっ……マジかよ。なんだこれ、凍りついたのかよ。嘘だろう?」
全力で両手を引き抜こうとしても、両手は、手首から先が雪に張り付けられたかのように動きもしなかった。
「なんで抜けねえんだよ!」
これは気のせい。きっと精神的なものだ。誰もいない雪山で遭難したっぽいんだから。
焦ってしまうのは、きっと、あの変な中身入り手袋に触ったせいだ。
もしかして、あの手袋をよく見たら、零れ落ちたのは人骨ではなくて、つららのような氷が出てきたのを勘違いしただけだった可能性もある。悪臭だって、放置されていた手袋が臭かっただけ。
そうさ、全部気のせい。誰かが後を付いてくるなんて、そんなわけないだろう。
手を引き抜こうともがきながら、自分にそう言い聞かせた。
冷たさで、雪に埋もれた手首から先の間隔がなくなってきた。このままではほんとうにヤバイ。【自己責任】という言葉が頭を通り過ぎていく。
もがけばもがくだけ、ボードをつけた足がずりずりと斜面を滑って行ってしまう。
やがて、両手が抜けなくて、仰向けで斜面に張り付けにされたような形になった。なさけないかっこうだ。必死で膝を曲げてボードを引き寄せ、斜面にエッジを直角に立てて体制を立て直そうとしたら、ついに、『それ』が目の隅に入ってしまった。
背後に何かが……。
雪女? 本当にいるのか? いや、そんなの、いるわけない。
恐る恐る首を後ろに回して、しっかりと見てしまった。
想像以上に大きい。曇ったゴーグル越しでもその大きさはわかる。高さは二メートルぐらい。
雪女じゃなかった。
雪男でも、クマでもない。
僕のすぐ後ろにいた『それ』は、全身真っ白で、モコモコした体をしていた。すべて雪と氷でできているように見える。
はっきりとわかる手足はない。雪がついた針葉樹が白い毛皮をまとって立っているような。白い綿で覆われたクリスマスツリーみたいに。
これは……スノーモンスター?
蔵王名物の冬の巨人、スノーモンスター。樹氷が立ち木を完全に覆って、白一色になって、生き物のように立っているように見えるやつだ。
そうさ、そこに立っているのはただのスノーモンスター。
こんなものが後をつけてきた、なんて、どうして思い込んでしまったんだろう。
これは雪をまとった木だ。たまたまここに立っているだけで、動くわけない。
だけど────。
この木一本だけ、スノーモンスターになるってあり? 他の木、こんなに雪だらけじゃないし。
しかも、ここにいるスノーモンスターには、四つの目があった。
そいつの目は、腹のあたりに四つ。葉っぱの形をした横長の赤い穴が、二つずつ横に並んで、存在していた。そのうちの二つに、僕の両手首がめり込んでいる。いや、目じゃないか、これは口か。
四つあるうちの口の二つに、僕の両手は捕まっていた。
「ば……化け物……僕の手を放せよ」
ひっくり返った残念な声で、精一杯の抵抗を試みる。手が使えないから殴りつけることもできない。
そいつは、僕の手を放してくれるどころか、さらに強くつかみ、甲高い獣の声で笑い……というか、笑っているように聞こえた。
ケラケラケラ クスクス……
ただの耳鳴りだ。スノーモンスターも幻覚。僕は遭難して、狂った夢を視ている。
手が痛い。
手が。
雪から抜けない。
僕の手なのに。
放してくれ。
ケラケラケラ
耳鳴りが続く。何だか知らないけど、僕の手が抜けないことがそんなにおもしろいのかよ。
全力で両手に力を入れた。
痛い。引っ張れば手がちぎれそうだ。
でも手が抜けなければ死ぬ。
今ここで死ぬのと、手を失ってでも逃げるのとどっちがいいか。
畜生! まだ死にたくない!
「うぉぉぉ、ぐああぁぁ!」
僕は激しい痛みに悲鳴を上げていた。
手はやっと雪から抜けた。手袋はやつの腹の中。
僕の剥がれ落ちた皮膚と共に。
自由になれた僕は、血まみれの素手のまま、必死で斜面を下った。
その後は、どこをどう走ったのか憶えていなかった。
気が付くと、僕は病院に収容されていた。林道に倒れていたのを、運よく付近を通りかかった除雪車に発見されたらしい。
僕の両手には厚く包帯が巻かれ、ひどい凍傷になっていたと医者に言われた。
──違う、凍傷じゃない。先生おかしいよ。見たらわかるだろ? 皮膚が手袋ごとはがれたんだ。
だけど、何の説明もできなかった。
僕は、包帯に覆われた両手をだまって見つめるしかなかった。
◇
あの日から五年経った今でも、雪が降ると聞こえる気がする。
後ろから聞こえてくる、ザザザ、ザザザ、という音と、ケラケラした甲高い獣の笑い声が。
あの日以来、僕はスノボをやめた。手袋をはめることが恐ろしくなった。
僕の血でどろどろになっていたスノボウエアはゴミに出してしまった。もう二度と思い出したくない。
でも、忘れることも許されない。
僕の手の甲には、今も両手首から先に、やけどのような、皮膚がはがれた跡が残る。そして、その跡をしっかりと見れば、ひきつった皮膚の中に、あの日見たモンスターの口そっくりの模様が、四つ並んでいるのだった。
そこだけが特に赤く、今にも手を食いちぎってしまいそうだったあの口にそっくりな模様が四つ。
よく見ると、その四つの口が、ひくひく動いているときがある。
雪の中に手袋が落ちていても、僕は絶対に拾わない。
了