9 久野への感情と自分の立場と大混乱
「そう言えば若葉」
再び走りながら、あたしは彼女に問いかけた。
ただ走っているだけだと、何となく頭がぼうっとしてくる。ただでさえ単調な道だ。
周囲は網状になった壁。時には完全にコンクリートの壁の時もある。
景色が見えないのが、これほど嫌になることはない。冬なら風よけとか、まだいい方に考えられなくもないが、今は夏なのだ。
「なあに?」
頭が退屈しているのは同様な彼女も問い返す。
「聞こう聞こうと思って忘れてたんだけど、若葉の婚約者の、松崎くんのおにーさんって、何研究してるの?」
うーん、と彼女は一度首をかしげる。
「仕組みとかそういうのはさっぱり判らないんだけど」
「そんなの、あたしだって聞いても判らないわよ」
「だってさつきさん私より頭いいじゃない」
「そんなこと。だって若葉、あたしはあんたのように料理も裁縫もできないよ」
「私にはそれが不思議だけど」
だからそうやって、まじめに首をかしげるなってゆうの。
「たまたまあたしは、そういうことはしないとこで育ったらしいから。そのかわり、そうでない、こいつらの様な知識は、たまたまあっただけだよ。どっちがどうってことはない。ただ才能の方向が違うだけなんだわ」
「才能の方向」
若葉は少しばかり言葉を止める。
「そうなのかしら」
「そうよ。そうに決まってる」
「…そうなのよね。うん」
「何、何か思うことあるの?」
うん、と彼女はうなづく。
「何かね、いつも忙しそうだから、せめて私が手伝えることがあればいいのに、って言うと、彼が言うの。『お前はお前らしくいるのが俺は嬉しい』って」
は、と思わずあたしはため息をつき、ハンドルに頭を乗せる。足は動かしたまま。
「…若葉~ それって大のろけじゃん…」
「そ、そうかしら」
「そうかしらじゃないって言うの! それがのろけ以外の何だって言うのよ」
お?
ふと前方に目をやると、松崎の動きが一歩遅れている。聞いてるな、とあたしは思った。まあいい。
「のろけ… なのかなあ」
まだ言ってる。
「だってそうじゃない。あんたの彼は、あんたがどういう女の子であっても好きなんだ、ってことでしょ?」
「そ、そうなの?」
「そうだってば。それに、あんたは確かにそういう手伝いはできないかもしれないけど、夜食とか、届けてるんでしょ?」
「うん。私にできるのはそのくらいだし」
「あんたの料理は美味しかったもの。夜食だって、あんたが作るんでしょ?」
「うん」
当然のことのように、彼女はうなづく。
「だったらそれで彼は元気が出るんならいいじゃない。皆一人一人ができることなんて、たかが知れてるんだから、自分のできることを精一杯するしかないじゃない」
「そう… なのよねえ。うん。でも、さつきさん、それだけでいいのかしら、とこっちに出てから、時々思うの」
「…それだけで?」
「あたし、東永村しか知らないような女だから、…それはそれでいいと思ってたんだけど」
「外の世界は魅力的だった、ということ?」
「とも限らないんだけど」
気抜けするなあ、もう。
「何って言うんだろ。…確かに、私はさつきさんが言ったように、料理とか裁縫とか…そうじゃなかったら、村の仕事とか、とにかくそういうものは確かに人並みにはできるけれど、もしかして、外で育ってたら、もっと別なことができたんじゃないか、って何か、思ってしまって」
あたしは首をゆっくりと横に振る。違うの? と彼女は問いかける。
「どこだって、大して変わらないよ。今のこの日本じゃ」
「さつきさんは見てきたの?」
うん、とあたしはうなづく。
そう、確かに見てきたのだ。色んな管区の、色んな学校を十二人で持ち回りしているのだ。
だけど、基本的な図式はまるで変わらない。ちょっと都市のなごりがあるところ以外は、それこそ若葉が育ったように、女の子の大半は村の農業の仕事と家事、それしかない。
他の選択肢はほとんどない。と言うか、考えつかないのだ。
もちろん、機械好きだったり、特別に武術の技が強いとか、継承しているとか、もしくはどうしても初等中等の先生になりたい! という場合は学校に上がれるけれど、そういう女子は滅多にいなかった。
たまに見かけたけれど、それは本当に好きな場合だ。そういう場合、男子以上の執着ぶりを見せてくれた。
「何となく」程度の「好き」では、親や村の人々を説き伏せてまで外の学校に上がるほどの才能になってくれないのだ。
「世の中がものすごく大きく変わってしまわない限り、あんたはあんたが今までしてきたことで、充分だと思うよ」
「…そうなのかしら」
少し声の雰囲気が落ちる。悲しませたかな、と思いもするけれど、仕方ない。それが今のこの国なのだ。
「それとも、世の中が変わってほしい?」
「うーん」
若葉は少し考えると、首を横に振った。
「…そうよね。私はたぶんそれでいいんだと思う。だって、こうやって、今の今まで何の疑問も不満も持ってなかったんだもの。それは私がそれなりに幸せだったってことよね」
「幸せじゃないの! そんなのろけられるなんて」
「あら、さつきさん、あの車の人は違うの?」
ぐ。そう来たか。
思わず言葉に詰まる。痛いところ突いてくれやがって。
「…あんた前もそういうこと言ってなかった?」
「違うのかしら?」
「違うってば」
ふうん、と若葉は笑みを浮かべる。
「だってさつきさん、その話する時楽しそうじゃない。あなた私のことのろけてる、って言ったけれど、それこそ、あなたの方がのろけてるって、私思ったもの」
「…あのひとは、そういうのじゃないよ。向こうがだいたいそんなこと思ってない」
「じゃさつきさんはそう思ってるの?」
「え?」
「そのひとのこと、好きなんじゃないの?」
ちょっと待て。
*
最初に久野さんに出会ったのは、まだあたしが越境生として派遣されて二度目の場所だった。
今でも覚えてる。
まだ彼自身、車に乗り慣れていなかった頃だった。
地図も読み慣れていなかったようで、管警に呼ばれたのに、大きく遅刻してきて、平謝りしていた。
ようやく開放されてふう、と開襟シャツのボタンを一つ外した時に、あたしに気が付いた。
その時ときたら。
何じゃこりゃ? とでも言いたそうに、目を大きく見開き、次の瞬間、慌てて別の方向を向いた。
あたしは、と言えば、まだその頃は、そんなぶしつけな視線にはいちいち傷ついていた頃だったので、…大股で歩み寄ると、その後ろ姿に膝蹴りを食らわせた。
言っておくが、飛び膝蹴りではない。膝の後ろをついただけだ。
案の定彼は、その場に転んだ。ざまぁみろ、だ。
とどめにアカンベーまでしてやった。
ただ彼は、あたしのその行動の意味がすぐに判ったらしい。
転ばしたのはあたしなのに、即座にごめん、と謝ってきた。
そう言われると、あたしはあたしで、どうしたものか判らなくなって、照れ隠しに、判ったならいいのよ、と大きな態度を取ってしまった。
事件が解決して、もう会わないだろう、とお互い思ってほっとしたものだ。
だがその次の事件でも出会ってしまった。
あたしの露骨に嫌な表情を見て、彼はがっくりと肩を落とした。
その時お互いに、名前を聞いたんだと思う。必要があった。
向こうはあたしをさつき、と名前で覚えた。あたしは向こうを名字で覚えた。
理由は同じだ。呼びやすい。それだけ。それだけだと、思う。
そして二度あることが三度あった時、さすがに彼もあたしがただ越境して学校に行ってるだけではない、と気付きだしたらしい。
それからというもの、時々彼はあたしに「正体」を聞いてきた。あたしはそのたびにかわし続けてきた。
特警に言ってはいけない、とは別にあの総理のおっさんも言ってはいないし、ミキさんも格別な注意はしなかった。それはあたし達越境生の自主的な判断に任せられている。
あたしが久野さんとよく顔を合わせている、ということを彼らは知っているにも関わらず、だ。
同じ総理の管轄下にあるから、ということだろうか。
だけど、「鎖国体制を守る」特警の存在理由と、あたし達が行動している理由は、明らかに異なる。
訳が分からない。
そして判らないと言えば。
正直、何で今、自分が動揺しているのか、理由がつかめないのだ。
「彼のこと好きなんじゃない」と若葉がそう判断するのも判らなくもない。他人事として、あたしのことを聞けば、そう判断してしまうだろう。
実際、彼があたしのことを仕事上で関わってしまう奴、としか思っていないのが悔しいのは確かだ。
ただ、それが「好き」という感情なのか?
そこがあたしには判らないのだ。
訓練中によくあたしにミキさんは言った。
「無理に決めつける必要はないのよ」
ちょうど二十歳違う彼女は、あたしにとっては母親と言ってもいい年齢だった。
だけど母親とは違う感触を受けた。どちらかというと「年の離れた姉」というところだ。
だけどその「姉」という感覚も、彼女が「それはこうじゃない?」と後付けしてくれたものだ。
「あなたがそれを判らないのは、仕方ないことなのだから、焦ってはだめよ」
そう言って、よく優しく肩を抱いてくれたものだ。
その時の暖かい肩や腕の感触にふんわりした、暖かいものを感じた。その感情の流れを説明したら、こうじゃない? と彼女は美味く当てはまる言葉を探してくれた。
でも本当のところ、「母親」も「姉」も、あたしにはよく判らない。
そもそも、自分に、どんな家族がいたのかすら判らない。
家族だけではない。
本当の名前も、どこに住んでいたのかも、どんな学校に通っていたのかも、まるで判らない。
その部分を思い出そうとすると、とたんにぼんやりと頭の中に霧がかかる。
もしくは、何を思い出そうとしていたのか判らなくなる。頭が混乱する。
あたしは誰かを好きになったことがあるのだろうか。
それはどんな時に、どんな相手を、どんな感覚で思ったときのことなんだろうか。
それを考え出すと、何だがすごく、背中が寒くなる。
だから、普段は考えないようにしている。寒い背中は置いておこう。とにかく前を見るしかない。
それが根本的解決になるとは思わない。だけど、それを考えていたら、立ち止まって、うずくまって、あたしは動けなくなる。
それは嫌だ。
だから、今はまだ、あいまいにしておきたいのだけど。
*
不意に、足首を掴まれた。
「何してるのよ」
飛び跳ねた心臓を悟られないように、強気で問いかける。
「星見てんだ。お前も見ねえ?」
遠山だった。暗くてわかりゃしない。あたしはその場に腰を下ろす。
旧インターの出口が、この日の宿だった。天井は星空。
遠山は、もとは芝生だっただろう草むらにごろんと寝ころんでいる。
夜露がひどいのではないか、と思ったらそうでもないらしい。
「阿部センが、あんたのことろまんちすとだって言ってたけど、確かにそうだね」
「何だそれ」
「だから、何か、星とか見て綺麗だ~とか言ってるからさ」
「綺麗だからな」
短く、だけどはっきりと遠山は言った。
「そんなに好き?」
「ああ」
ふうん。あたしもそのまま空を見上げる。
夏の夜空は、冬ほどの星が見えるという訳ではない。だけど、照明一つないこんな場所で見ると、星で空が一杯に埋まってしまっているのがよく判る。
陽が暮れたあたりで、何とかあたし達は豊橋までたどりついていた。
正確に言えば、その近くの豊川だ。
この間、久野さんと車で行った時に、旧高速を降りたところ。そこの稲荷神社は、若葉に言わせると、かなり有名なとこらしい。
名古屋の熱田神宮とこの豊川稲荷は、新年の初詣が、このあたりでは一、二を争う人出となるという。
ここで道を変えて、そのまま山側へ上っていく。これからがきついのだ。
「何であんた、星とか好きなのよ」
「綺麗だから」
「それだけ? だってもっと綺麗なものだって色々あるじゃない」
「お前、妙な聞き方するよなあ。普通は、そんな役に立たんものどーすんの、とか聞くぜ」
むく、と彼は身体を起こす。
「普通はどーだっていいじゃない。星も確かに綺麗だけど、何かもっと、手の届くとこに綺麗なものだってあるじゃないの? それこそ女の子とかさあ」
「ふうん、お前俺に手ぇ出して欲しいの?」
げ、と思わずあたしは後ずさりする。ばーか、と遠山は肩わすくめる。
「売約済みの女になんか手ぇ出さねーよ」
「誰が…」
「お前。だって好きな奴いるんだろ? 若葉ちゃんもそう言ってたしさあ」
「…って、それは」
言いごもる。
何となく、そこでそうやって思われてしまうのは嫌だった。決めつけられるは嫌だった。あたし自身、まだ答えが出てないことだと言うのに。
「好きかどうか、なんて、判らないし」
「あのなあ、見てりゃ判るぜ」
「…見て判るっての? あたしのことだっていうのに」
少しばかりかちんと来て、思わず言い返す。
「あのなあ」
呆れたような声になる。表情は見えない。
「時には、自分より他人の方が、よく見えることがあるんだぜ? たとえば」
不意に遠山は、あたしの肩を強く掴んだ。
そのまま、ぐい、と大きな手で、うしろ頭を抱えられ、…キスされてた。
「何すんの!」
反射的に手が出た。相手が避けないから、それはほっぺたに命中した。
「…ってえなあ」
「あんたがそんなことするからでしょーに!」
「…って、嫌だろ?」
「え?」
「だから、好きでも何でもない俺にこーんなことされたら、嫌だろ?」
「嫌だよ!」
「そういうとこは正直だよなー、お前。…だからさ、それが嫌じゃない奴が居たら、そいつのことは『好き』なんじゃねーの?」
ぐっ、と言葉に詰まる。
「…そこまでそうなったことはないわよ。だから判らないでしょ」
「ま、そうなっちゃ、俺もどうこう言ってもしょーがないけどよ。女ってのは難しいからさ」
「ふうん。ずいぶんと色んな女の子とつきあってたんじゃない?」
やや皮肉混じりにあたしは問いかける。
「付き合った奴は居たさ。だけど」
真面目な口調。
「本気だったのは、一人だけだった。そいつが星が綺麗だってことを教えてくれた」
そうなんだ。あたしは大きくうなづいた。
「中等の半分までは、俺も優等生だったんだぜ? 信じられるかよ?」
あたしは大きく首を振る。
「だけど途中から嫌になった。どれも判るけど、つまんなくなった。結局は、どんな勉強をしようが、先は見えてる。俺は奴らのように、村へ帰ってこい、とかいうのはないけれど、親父のあとを追ってこい、ってのはある」
「それは嫌だった訳?」
「その頃まではあまりそんなことも考えてなかった。ただ、ぼんやりと違うな、とは思ってた。何が違う、なのかも判らない。ただもうぼんやり、あいまいに『違う』。それだけだ。だから、親父がこうしろと言った未来という奴に対しても、それが嫌なのかどうなのかすら、俺は判らなかった」
「だけど教えてもらったの? そのひとに」
「と言うか」
ふらり、と彼は空を見上げる。
「そいつは親父の関係で、紹介された女でさ、つまりは、いずれは政略結婚とか…そういう類の奴だ。まだガキだからな、せいぜい顔会わせさせといて、後々様子を見ようってことだったろーが…奴らの誤算は、俺達が本気になってしまったことなんだ」
「本気に」
「そいつは俺に輪を掛けた馬鹿だったんだ」
くっ、と彼が笑うのが判る。
「二つ年上だった。何だか判らないけれど、俺達は、ぱっと見て同類だと思った。話してて、もっと思った。彼女が勧めるものは、たとえばそれが本だとか、場所だとか、何だっていい、とにかく、俺は見たことなかったものだし、それでいて、どうして今まで知らなかったんだろう、と思うようなものだった。俺の好き嫌いなんて、その時彼女がいたからできたみたいなものだ」
そこまで言うか。
「星を見ようって、夜中に誘い出しに来たのは決まって彼女のほうだった」
それはすごい、とあたしは思った。若葉が夕方に彼のところへ行くのとは訳が違うだろう。
「だから彼女だったら、親父の言いなりになったとしても、それはそれで良かったんだ。だけど、状況が変わった。彼女の親父さんが、管区議会の議員の座から落とされたんだ。それが親父さんの実力なのか、陥れられたのかは知らない。ただ、俺はその時から彼女に会えなくなった」
「え」
「そりゃあそうだ。落ち目になった奴の娘と付き合ってるとしちゃ、ウチの親父としては困る訳だ。いずれは管区知事の座だって狙ってるんだからさ。…で、俺達は、お互いとても馬鹿だったので、駆け落ちなどたくらんでしまった訳だ」
「か… けおち?」
何か今、すごい言葉を聞いたような。この目の前の男には、まるで似合わないような。
「もちろん、だめだったさ。自転車で逃げようと思った。やっぱりこの道を」
奴は今まで通ってきた、旧高速の道路を指す。
「そのまま、静岡地区を突き抜けるまでは良かった。だけど箱根の山を越えることはできなかったんだ。結局」
「…」
「俺はお前のような越境生じゃないから、関所を越えることはできなかった。通報されて、連れ戻されて、彼女は無理矢理どこか、俺の知らない奴のところに嫁がされて、俺は、と言えば、高等行き」
ふう、と彼はため息をついた。
「もう彼女には手が届かない。だけど俺には星が残った。…だから、これだけは、奴らには壊させたくねーんだ」
声が真剣だった。
「だけど、地学系は難しいよ」
「判ってる」
遠山はうなづく。
地学系は学問として受け継がれているけれど、それを実際の社会に役立てないことには、食べていくことはできない。それよりまず、彼がそれで父親を説得できるとは思えない。
「だから、今回のお前らのたくらみに参加したんだ」
「…どういうこと?」
「今回のことに、親父が噛んでいるのは間違いねーんだ。あれから、時々家で、親父の書斎をあさってもみた。確かにあいつにゃ不似合いな鉱物の資料とか、過去にあった絹雲母精製の会社の資料とかが結構取り散らかしてあった」
「…ってあんた」
「親父の尻尾を掴んでやる」
「それって、親父さんがもし…」
「ああ、違法なことしてたら、証拠掴んで、管警に突きだしてやる」
それは。あたしは言葉を失った。いや、うまい言葉が見つからなかったという方が正しいか。
「…そ、それって、何、ふくしゅう、とかそういうこと?」
「それも… あるかも」
「それ『も』?」
「ああそれは絶対ある。あるんだけどよ…」
それだけではない、と言いたそうだった。ただそれが何なのか、彼にも掴みかねてるようだった。