6 その石は絹雲母
鳩が帰ってきたのは、その翌日だった。
足の鉛管を外すと、中にはミキさんからの返事が入っていた。
『親愛なるさつき』
そんな書き出しで始まる。あたしがその書き出しが好きだ、ということをミキさんは覚えていてくれて、それを欠かしたことはない。
『依頼のものの調べがつきました。あなたが思った通り、確かにファウンデーションのもとです。絹雲母、という名前を聞いたことがありますか』
はいはい、ありません。
『鉱物の一種で、その優れた脂感と透明感滑性から、ファウンデーションの原料とされています。けど今では化粧品自体が贅沢物として生産されなくなって以来、発掘は各地で縮小されているはずです。少なくともあなたのいるあたりでは現在は』
発掘されていない?
『しかもあなたの送ってきたものは精製されたものです』
あたしは思わず右の親指の爪を噛んだ。
*
「絹雲母?」
何を聞くんだ、というすっとんきょうな声を上げて、生田はあたしを見た。
「先生、自然科学担当でしょ。ご存じないですか?」
「って言ってもなあ… それは鉱物だろう?」
くるり、と彼女はあたしの方へ身体を向ける。
「それはどっちかというと、阿部先生に聞いた方がいいぞ。阿部さん~」
「何ですかい」
さすがに高等となると、職員とは言え、個性の主張の強い教師達が同じ部屋にいるのは騒動の種になると思われてるらしい。自然科学分野の教師は、それだけで結構広い一室を持っていた。
阿部先生というのは二年の教室で担任をしている教師だ、という記憶がある。だが直接三年のこっちに授業をしには来ていないので、あたしはよくは知らない。
「あなた確か、鉱物関係詳しくなかったですかね」
「鉱物? ああ、そりゃあ確かにワタシの専門だ」
四十代半ばくらいの男性教師は、眼鏡のふちを直しながらあたし達の方を見た。
「生田さん、あんたの生徒さんかね。女生徒とは珍しい」
「あなた職員朝礼聞いてませんね。この子は越境生ですよ」
「ああ~ 話には聞いてましたが、ほおほお」
気の抜ける様なしゃべり方は、何となく森田を思い出させる。
「で、何ですかな。何か絹雲母とか聞こえたけど」
「この管区で取れたりしますか?」
あたしは問いかけた。
「絹雲母ねえ…」
阿部は再び眼鏡のふちを押さえる。ふうん、と言いながら、書棚へ向かい、「管区の自然と歴史」というぶ厚い本を引っぱり出した。
何か持っているだけで腕が疲れそうな本だが、仕方ない。
大量に刷られる本とそうでない本との違いが今では大きいのだ。こういう学術系の本は、高くて立派な外見をしている。ただ必要はあるので、なくなることはない。
「聞いたことは何となくあるんですがね。して何でまた、越境生くん、君そんなこと気にするんですか?」
「ええと」
あたしはズボン(この学校には女子の制服などないのだ)のポケットの中から、ハンカチに包まれた例の絹雲母の断片を取り出す。
「こんなものを見つけたんで」
ほぉ? と眼鏡を押さえながら、阿部はあたしの手のひらのそれを眺め、本と見比べる。
「確かに似てるねえ」
「でもそれ、鉱物って感じじゃあないね」
生田も口をはさむ。
「どっちかというと、その絹雲母を機械に掛けた… ほら、こっちの写真に似てますね。それにしても白くて綺麗ですな」
やっぱり、とあたしは黙ってうなづいた。
「うん、確かにこの管区でも採れていたことはあるんですよ。ほら」
阿部は机の上に、その重い本をどん、と置いた。重いだけでなく、大きなその本は、そのへんで売られている粗悪な紙の文庫とは違って、つるつるした綺麗な紙に印刷されている。
その上の写真もまた綺麗だ。
「ほら、こっちが精製前の絹雲母」
含まれている石と、その結晶の写真が並んで出ている。
「で、こっちが、精製した後。何かよく似てるでしょ」
「そうですね…」
「何でもね、二百年くらい前には、よく採れていたらしいよ」
「二百年前?」
「化粧品の原料だって言うから… まあそうなんじゃないのかなあ」
「化粧品の、ですかね」
生田は目を丸くする。
「鉱物を顔に塗りたくっていたんですかね、当時の女性は」
「そういうことですね。ま、そのもーっと昔は、鉛白粉が主流だった時代もあるくらいですから。女性の美に対する追求というのは、すごいですよねえ」
さらっと阿部は答える。そんなこと私にはできん、と生田はあきれたようにつぶやく。
「だから今はもう、採掘も精製もされていないはずですよ。だいたいあの採掘には結構手間がかかるらしいし」
「そうなんですか?」
あたしは身を乗り出す。
「うん。ほらここを見て。『当時は愛知県東永町と呼ばれた地域で採掘がされていたが、当時では珍しい坑道堀りを採用していた。露店掘りの方が安価ではあったが、化粧品の厳しい品質を維持するためには、その方法が最も適していた』」
「…も少し判りやすく…」
「だから、機械でだだだっ、と掘ってしまう訳にはいかなかったみたいだね。職人の手でこつこつ、という感じだったらしい」
「人の手で」
「まあ他にも色々使い道はあったようだね。最初はその採掘した会社も、溶接棒とかに使っていたようだし… でもやっぱり化粧品らしいよ。結構世界的に有名だったらしい」
「世界的」
すごいですねえ、とあたしは感心してみせた。
「けど阿部さん、すぐにその資料が出てくるとこはさすがですねえ」
「いやいやいや専門ですし… や、実は、先日も、同じ鉱物について、質問を受けたんですよ」
「同じ鉱物? 絹雲母のことを?」
「うん。君は生田さんの学級だろ?」
「ええ」
「じゃあ君も知っているだろう? あいつは目立つからねえ。遠山」
へ、と生田は眉をつり上げた。
「あいつ、阿部先生にそんなこと聞きに来たんですか」
「そんなこと、はないでしょう」
穏やかに阿部は笑みを浮かべる。
「彼は向学心旺盛ですよ」
「とても私にはそうは見えませんがね…頭はいいんだから、もう少し、授業をちゃんと聞け、って感じですよ。だいたいああだらだらした態度で授業に臨まれては、私も人の子ですから」
「先生それよっか、目の毒なんじゃないの?」
「くぉらっ!」
ごん、とげんこが軽く頭のてっぺんに下ろされた。
「そう言うものではないですよ… 遠山くんは去年担当したこともあるんですが、私のような分野が好きなんですよ」
「阿部先生の分野?」
「地学です。だから鉱物もそうですが、星とか、気象海象といったことですね」
「星ぃ?」
「彼は実にろまんちすとですからねえ」
しみじみ、と阿部は言った。
「ただ、お家があれですから、さすがにその分野を極めるようなことはできないでしょう」
「…ああ、奴ならそうだな」
「そうなんですか?」
「奴の親父はな、森岡、この東海管区の副知事なんだよ。奴がいくらああ見えてもな」
それも、次期知事候補なのだ、と。
「しかもやり手だ。だいたいこの管区がここのとこ財政的に潤っているのは、奴の親父が財政局の局長に赴任してからだ。今の副知事になったのも、そのあたりの功績が大きい」
「確かにそうですね。そのあたりの手腕は、ワタシのような、世間に疎いものでも耳にするくらいですからね」
「もちろん、親の稼業を子が継がなければならない、ということはない。けどまあだいたい、そういう親という奴は、子供がやはり自分の跡を継いでもらいたいと思うものだ」
「そうなんですか?」
「まあ私も所詮独身だから何とも言えないが…」
生田はちら、と阿部の方を見る。
「ま、それで彼の心を全て推し量ってはいけないでしょうがね。彼の親にしてみれば、高等に入れたのは箔づけのようなものでしょうな。実際息子は高等に入れる程頭はいい。ただ、その頭の良さを、地学、ことに星やら何やらのように、現実的にそうそう役に立つ訳でない学問に持っていかれたくはないのでしょうな」
「役に立ちませんか?」
「立ちませんね。特に星やら何やらは」
納得しかねる、という顔をしていたら、阿部は付け加えた。
「これが鎖国していない日本、だったらどうだか判りませんよ。ただ今、外の国にすら出られない状態で、更に外のことを知ろうとする学問は、ある程度までは許されても、ある程度以上は」
阿部は首を横に振る。
「っと、でもこんなことワタシが口走ったなんて、内緒ですよ、内緒」
ふふふ、と阿部はまた笑った。それはそうだ。それこそ特警から狙われかねない。
「でもどうして、絹雲母なのかなあ」
あたしは話を元に戻す。
「そうですね、何ででしょう?」
阿部もまた首をひねる。
「彼もまた、あなたと同じ精製物の方を持っていたのですよ。あなたこれ、どこで手に入れました?」
「東永村です」
ああ、と生田は納得したような顔になった。
生田にはあたしは車で出かけたなんてことは言っていない。おそらく若葉が持っていたのではないか、と勝手に納得したのだろう。
「うーん… でもあそこに行くには遠いですよね。遠山くんがそこまで出かけてったのでしょうか」
「どうですかね… 少なくとも一日で行ってこれる距離ではないし」
休日は日曜日だけだ。あたしが行ってこれたのは自動車だからで、自転車ではまず無理だろう。
だいたい奴が東永村まで行く理由がない。
「いつの話ですか?」
「二週間くらい前ですか」
*
しかし星ねえ。
ふむ、とぎしぎしと音がする長い木の廊下を歩きながら、どうも奴の印象と釣り合わないこの単語を繰り返してみる。
まあ確かに奴がろまんちすとであっても、それはそれで構わない訳だが。
腕組みをしながら、ぎしぎしと音を立てる廊下を図書室の方へ歩いて行く。放課後は、特に何の課外活動もしていないあたしは時間があると言えばあるのだ。
課外活動―――
そう言えば、奴はどんな課外活動をしているのだろう。
運動が好きな奴は、運動系の課外部に属して、それこそ夜になるまで汗を流している。
体育館とか武道場は野郎達の声と汗と熱気でむんむんとしている。特に今の季節は、風下には絶対回りたくはない!
一方、正課以上の勉強を深めたいと思う者は、文化系の課外部に属する。
高橋は確か、技術部だった。車の内燃機関とか、ガソリン以外の、国産の豊富に採れる燃料ではどうか、とかそんな実験をしているらしい。
松崎は、運動部らしい。さっき運動場で野球をしているのを見かけた。金網ごしに若葉がいるのだろうか。何かずいぶんとはりきっていた。
あたしはふと思い立って、地学部の方へ足を伸ばしてみた。
がらりと戸を開けると、そこには誰もいなかった。
決して大きな教室ではない。どちらかというと、技術部とかと比べて、冷遇されているのじゃないか、と思えるくらいに、設備は少なかった。
ただ、それでも天体望遠鏡の大きなものは一つ、窓際に置かれていた。
部屋そのものはよく掃除がされている。誰かがちゃんとひんぱんに訪れているらしい。
…いや、カバンがある。一つだけ。
「あ? 森岡?」
コップを手に入ってきたのは、やっぱり遠山だった。あたしの姿を認めるなり、露骨に顔をしかめた。このやろ。
「…何の用だよ」
「遠山くんって、地学部だったんだ。ふーん」
「悪いか」
「悪いなんて誰も言ってないわよ。ちょっと意外だったけど」
「別に俺が何を好きでもお前には関係ないだろ」
「そーよ、関係ないわよ」
でもね、とあたしはポケットに手を突っ込む。
「これはどお?」
関係ない、というように一瞬ちら、と目をくれた彼は、慌てて今度は身体ごとこっちに向けた。
「…お前これ、どうしたんだよ」
「拾ったのよ」
彼は急にうろたえると、自分のカバンを引っぱり出し、中身を確認して、ほっとした顔になる。
だけどその次の瞬間、今度はひどく怖い顔になった。表情のころころ変わる奴だ。
「おい森岡、それどうしたんだよ、一体、本当のこと言えよ」
「だから拾ったんだってば。なぁに、そんなやましいことでもあるの?」
「俺は別に」
「あの子の、東永村で拾ったのよ」
「車で… 出かけたのか?」
そう、とあたしはあっさり答える。
「行ってきたら、役場とかもうめちゃくちゃで。その部屋に落っこちていたのが、これ。絹雲母って言うんだって… って、あんたはもう知ってるんだよね」
「…」
「あたしが聞きたいのよ。あんたはあんたの持ってる絹雲母を一体どこで手に入れたの?」
「どこでって」
「だって、これは地下深くでないと採掘できない鉱石よ。それに精製したものよ。今じゃまずあり得ないはずのね」
「…ああ、そういうことを阿部センも言ってたな」
「それにあんたは東永村には行ってない。あんたは日曜日以外、行く時がないけれど、欠席だけはしてないじゃない。だったら、どこ?」
「お前に関係あるかよ」
遠山は目をそらす。あたしはぐい、と一歩彼の方へ踏み出す。
「あるわよ。部外者だけどね。それでも若葉と知り合っちゃったし、あの子が泣くのは嫌だわ。それじゃあいけないっていうの?」
強気に出る。下手に出るのは嫌いなのだ。
「何か、あんたはあの村について知ってるんじゃないの?」
「言いがかりだ」
「だって滅多に採れないものよ。精製したものよ。だったらあんたが東永村と関係ないって思う方がむずかしいじゃない」
「…それは」
「あたしはね」
とどめ。
「ただ知りたいのよ。東永村と関係ない、どこでこれを手に入れたの?」
「お前が知ってどうするんだよ」
「少なくとも、若葉の手助けになるわ」
それは確かだ。あたし自身には、それ以外の感情はない。あとは「仕事」だ。
「…判ったよ。だけど俺だって、それがどこから来たのかは、知らないんだ」
じっ、とあたしは遠山をにらむ。それを見て彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「だから、俺が直接拾った訳じゃないんだよ!」
「じゃあ誰が拾ったっていうの?」
「…親父さ」
「親父さん?」
「奴の服から落ちた包みの中に入ってたんだ」
遠山の親父。管区の副知事。
「返そうか、と思ったけれど、何か変な薬だったら嫌だ、とか思って、阿部センに見てもらった。…そうしたら、薬じゃなくて、…鉱物だった。それだけだよ」
薬。
なるほど、確かに薬と言われれば、そう見えないものもない。
未精製の裏の世界に出回る「薬」は結構こんな風にぽろぽろ崩れるかたまりだったりする。
「でもよく『薬』だなんて思ったわね。この学校の生徒でそんなこと思える奴がいるなんて」
「お前こそ、何だよ」
あたしはにっと笑う。
「ただの越境生よ」