5 弁当食べながら、当面の算段
「ただいまあ」
「滞在先」の玄関であたしは大声を張り上げる。お帰り、とやっぱり大きな声が帰ってくる。
「おおさつき。結構遅かったな。お前の連れてきた女の子、何か元気ないようだで」
「んもう、だから一緒に行こうって言ったのに」
乱暴に靴を脱ぐと、あたしはどんどん、と足音を立てながら、中へと入っていく。
決して大きな家ではない。しかし、老夫婦が住んでいるだけなら、決して小さくはない。それが今回のあたしの「滞在先」だった。
「ばあさんが、それでも時々昼ごはんを一緒に作ったりしてたようだがな」
「へえ、料理」
「さすがに今の子は、料理も上手いで。ばあさんが感心してたがね」
「どうせあたしは上手くないですよーだ。…それよりじーさん、鳩はいるんでしょ?」
「あ? ああ」
「旧都地区にまっすぐ向かえるよね、それ」
「何をゆうとる。当たり前だがね。要るのか?」
「ん、ちょっと」
使う時には言え、用立ててやる、とじーさんはそれだけ言って中に引っ込んだ。あたしはまだ少しきらきらと光ってる手の甲を見つめる。
「あ、さつきさんお帰りなさい… どうだった?」
台所ののれんの向こうから、若葉が顔を出す。ここのおばーさんが用意した服と前掛けを身につけた彼女は、実に台所という場所が良く似合っている。
その向こう側からは、ぷうんと味噌の匂いが漂ってくる。
「やっぱりこっちの味噌の方が美味しい」
「それゃあな、本場が近いで」
どうやらおばーさんと意気投合しているらしい。あたしはそんな女達を横目に見ながら、居間のちゃぶ台の上に、学校用にしているカバンの中から帳面を出す。
『…ミキさんお元気ですか』
そこまで書いて、鉛筆を置く。
何をどう説明したものだろう。報告と依頼は簡潔に。彼女のいつもの言葉が頭に浮かぶ。
『調査の依頼です。これは何だと思いますか』
あたしはファウンデーションを思い出した、と付け加えた。
今ではこの国では出回っていない化粧品である。
若葉もそうだし、おばーさんもそうだが、今では、普通の女性が日常に化粧することは、ほとんどなくなっている。
それこそ祭りの日や、特別な祝い事の日に、白粉や紅をさす程度だ。
頬はともかく、目の回りを飾るなんてことはまずない。ましてや、まつげをカールさせたり、色をつけるなど想像もできない世界、らしい。
そんな世界に、下地クリームという概念もないし、ファウンデーションもない。必要もないはずだ。
ただ、何かが引っかかっていた。
「じーさん、鳩貸して」
鳩の足にくくりつけた鉛管に、あたしは「簡潔な依頼」とあの村で拾ったカケラを小さくしたものを入れておいた。
鳩は速い。
公衆電話は管区内しか通じないし、外に出す手紙には下手すると検閲がある。
だからこんな方法をよくあたし達は取っている。越境生の「滞在先」にはだいたい鳩が備え付けられていた。
上手く関東管区の旧都地区にいるミキさんがそれを受け取ってくれたら。そうしたら返事は明後日かその次の日には来るだろう。
気の長い話だ、とあたしはばさばさと夜の空に飛び立つ鳩を見ながら思う。昔なら、手のひらにおさまるくらいの小さな通信器具一つで瞬時に連絡がついたというのに。
「さつきちゃん、ごはんにするで」
おばーさんがあたしを呼ぶ。田楽のみその匂いがぷうん、と鼻に入ってくる。
さっき手紙を書いていたちゃぶ台に、もう夕ご飯の支度ができていた。
「若葉ちゃんのお家の方で、よく食べられるものなんだって」
「へえ…」
「でもこっちの味噌のほうが、絶対美味しいですよ。今度からそっちのものも入れてもらおうかな、お父さんに頼んで…」
ふっ、と若葉の表情が曇る。
「そう言えば、どうだったね? 東永村のほうは」
「若葉の言った通りだったわよ」
後ろ手に赤茶の髪をくくりながら、あたしは答える。このふわふわの髪は、食事の時にも落ち着きがない。
「じゃあやっぱり誰も」
「うん。あんたは嘘言ってない。誰もいなかった。一応、あんたの言った本郷のあたりをぐるぐるとして、役場や試験場や、桜の木も見てきたけど」
「ああ、あれは古い桜なんです」
「みたいだね。春になったらすごいだろーなあ」
「本当にすごいんですよ」
箸を止め、彼女はうっとりとした表情になる。
「その下から、空を見ると、花の天井になってしまうんです。身体いっぱいに、桜の香りも吸い込んで、あの色で染まっていまうんじゃないかっていうくらい」
「でも夏にお弁当を食べるものじゃないよ。…せっかくのかごに毛虫が何回か飛び込んできて」
「そりゃあそうですよ」
あははは、と彼女は笑った。それでもここに落ち着いて数日、やっとそんな表情も見せるようになった。可愛らしい子だから、やっぱり笑っていたほうがいい、と思う。
*
「しかしのぉさつき」
食後、おばーさんと若葉が後かたづけに立った後、じーさんは低い声であたしに呼びかけた。
「何?」
「お前、いつまで越境生やるつもりだ?」
「いつまで… って」
「来年で一応、お前が高等生やっていられる期間は終わりだで。その後だ」
「さあ」
「さあってなあ。…どこかに落ち着くこともできるだろうて?」
「まだ一年ちょいあるもの。考えたくないわよ」
「一年ちょしかないで。…まああの方なら、お前の一人や二人、どこかの管区に入れることはできるだろうが」
「じーさんもこうやって暮らしてるもんね。まあそれはそれで悪くないとは思うけど」
「思うけど? 何だね」
「…さあ…」
あたしは言葉をにごした。
「…と言ってもな。お前等が一番下の世代だったでな。お前等が居なくなってしまえば、越境生という形も終わるんだろうな。そうしたら、また別の肩書きで、似たことをやらされるかもしらんて」
「あたしは好きでやってるのよ、この仕事を」
「そうだがな。女の子には危険じゃないかね」
「だから訓練だって、ちゃんと受けたわ。あたしだってケガはしたくない」
「ケガしたことがあるのかね」
「…ある… わよ」
何となく、言いごもる。慣れてるし、別にあたしのせいじゃないと思うのに、妙に後ろめたい。
「まあわしがどうこう言ったところで、お前さん等は聞かないだろうな。前にうちに来た子も、そう言っとったで」
じーさんは半ばあきらめた様な顔で、新聞に視線を落とす。と言うか、喋っている間じゅう、ずっと視線は新聞の上にあったのだけど。
「どんなこと、言ってたの?」
じーさんは顔を上げた。
「そうせずには、おられないんだと」
同じこと、考える奴がいるんだな、とあたしは思った。
*
翌朝。
さすがに乗り慣れないものに乗った次の朝は、身体が変に痛い。
自転車で筋肉を使った時の痛みなら慣れている。だけどこういう同じ姿勢をずっと続けていたり、飛び回る景色を延々見ていることによる疲れというのは、回復が遅い。
もっとも、若葉とかが乗ったら、一時間もしないうちに酔ってしまうのが関の山だから、あたしはまだましではあるのだけど。慣れというものは怖いものだ。
その疲れた身体にえいっ、と気合いを入れると、自転車で学校に向かった。
始業前のざわめきは、どんな場所でも変わらない。だけどさすがに、まだあたしという存在には慣れないようで、赤茶の頭が戸を開けた時、やはり一瞬ざわめきが止まる。
それでいて、積極的に声を掛けたりしないんだから、情けないったらありゃしない。
実際、皆何て奥手なんだろう、と思う。
女の子に免疫がないと言ってしまえばそれまでなんだけどね。
…でもそうでもない奴も居たか。
「おい、森岡」
何か机の上が暗くなったと思ったら、本を開いていたあたしの頭上から低い声がした。
「あら遠山くん。何?」
できるだけ素っ気なく、あたしは言い返す。
周囲の視線がこっちに集まっているのを感じる。あの松崎もそうだ。彼は特に、まだあたしから「本日の若葉ちゃん」の報告を受けていないからなおさらだろう。
「暑いのは判るけど、前くらい閉めたら?」
乳首まで見えてるよ。
「うるせーな。俺の勝手だろ。それよりお前、昨日車に乗ってなかったか?」
単刀直入な奴だ。見られる可能性はあるとは思っていたが、こうもすぐに反応するとは。
「乗ってたわよ。それがどーしたの?」
できるだけ何でもないことのように、言ってみる。
実際には何でもないことでは決してない。自動車を動かせる立場にあるのは本当に限られた人だけだし、その知り合いというのだったら、あたしが一体何なのか、気になるところだろう。
「それがどうしたって…」
「だから、ちょっとその車の運転手が、たまたまこのあたりの道に詳しくなくて、教えてくれって言っただけ」
「―――」
「と言ったら、信じるの?」
にっ、とあたしは笑う。
「授業、始まるよ」
いつの間にか静まり返っていた教室の外から、足音が高らかに響くのが聞こえる。皆その事実にようやく気付いたようで、蜘蛛の子を散らしたように自分の席に戻った。
*
「だけど森岡、あの態度はまずいと思うぜ?」
「何で?」
「何でって… 何つーか」
高橋は箸を止めて、どう言ったものか考え込む。
昼休み。
おばーさん手作りの弁当を持って、外でお昼。
おにぎりと、今日のおかずは昨日の晩の残りの味噌をつけた里芋と人参の炊き合わせ。里芋はつるりつるりと箸から逃げそうになるので、あたしは彼らの話を聞きながら、その反面、里芋にも気を取られていた。
一人ではない。松崎と、その友人の小柄で童顔な高橋、それに黙々と箸を動かしている森田がいる。
そして外との境である錆だらけの金網をはさんで、そこには若葉もいた。
「それにさ」
ようやく里芋をつまみ上げる。甘めの味噌をつけて、口に入れたら、ふしゅ、とつぶれた。美味しい…
「変わった奴だよね、彼」
「お前程じゃないよ!」
考えがまとまらないうちに口をはさまれたのが悔しいのだろうか。箸を握りしめた高橋はちょっと好戦的な口調になる。
「それはそーだけどさ。でもこれが生まれつきだったとしても、高橋くん、あんたあたしにそういうこと言う?」
「うっ…」
言葉に詰まる。やれやれ。
「ま、安心してよ。生まれつきじゃないって。色一度抜いて、その上に染めてんのよ」
「抜いて、染めて…? 変わった女だよなあ」
松崎の感想にうんうん、と高橋もうなづく。森田は我関せず、と言うように黙々と弁当を食べ続けている。細い目が伏せがちで、開けてるのか閉じているのか判りゃしない。
「…けどいいなあ、やっぱり通いの奴の弁当ってのは」
「そーいえば、あんた達、寮だよね。寮で弁当が出るの?」
「食堂で取ってもええけど、よく俺等、外での実習もあるしな。そういう時には寮食のおばちゃんに箱詰めにしてもらうんや。冷めてまうけど。ま、そぉでなくても、あの食堂で昼に食うのは疲れるで」
「あれ、森田くん、関西のひと?」
「…や、違う。境には近いけど」
「松阪だったか、津だったか? そのあたりじゃなかったっけ? お前」
「まぁそんなとこや」
ぺこん、と森田はうなづく。
「言葉とかはもぉ、関西管区の方に近いんやけど。それでも東海管区やから、俺が入れる機械関係の高等はここしかないわ」
面倒や、と森田は付け加え、再び黙々と弁当の続きを食べ始める。
「広いんですねえ」
それまで黙っていた若葉が、不意に口にした。
「広い?」
「だって、私今までずっと、あの村にいて、せいぜい隣村か、ものすごく冒険して、豊川の稲荷さんに行く程度でしたもの。それもお正月とか、何か特別な時だけで」
「俺だってそうだよ」
松崎が口をはさむ。まるで金網越しの彼女を弁護するようだ。
「今だからこっちにいるけどさ、若葉と同じだ。ここにいたとこで、学校の近くしか、結局は出ないし。兄貴だって、確かに俺と同じ、ここの高等と、その上の専門出てるけどさ、実際、村に戻ってみりゃ、お前と同じだろ?」
「だって雄生さんは忙しいから」
「うん。だから皆、用事が無ければ、そうそう自分の住んでるとこ以上に出ることなんかないんだよ。だから別に若葉が気にすることないんだ」
「ありがと規ちゃん。でもね、そういうことじゃないの」
じゃどういうことだよ、と松崎は首をかしげる。若葉は少し悲しそうに笑う。判らないかなあ、と。
「まあ松崎、その話はそのくらいにしてだなあ、森岡、お前それで、本当に車で行ってきたのかよ?」
「うん」
「どこにそういう知り合いがいた訳?」
おや、目がぎらぎら輝いてる。あたしはにやりと笑う。
「それは秘密です」
「何だよけち! せっかくの車、く・る・まだぜ?」
「あんなぁ森岡ぁ、こいつは車狂いなんや。だいたい出身が豊田や」
はぁん、とあたしはぽん、と手を打つ。かつては世界のトヨタと言われた自動車産業の町。
今でこそ、特警やお偉いさん達のための自動車だけを、注文で手作業で作るくらいの規模しかないけど、昔は凄かった。全ての行程が機械化されていて、その流れ作業は見事なものだったという。
「じゃあ高橋くん、いつか帰ったら車作るんだ」
「ったりめーだぁ。ガキの頃からしつこく『俺は車を作るんだっ!』と言い続けていた甲斐ありまして、俺はめでたくここにいる訳で」
へへへ、と高橋は頭をかく。ええよなあ、と森田ものんびりと首を何度も振る。
「別にあたしはいーんだけどさ、向こうさんがそうそうあたしにちょくちょく会いに来れる訳じゃないからねえ。仕事とかー、忙しいしー」
「でも私も気になるな。だってさつきさん、あの送ってきてくれたひとと、ずいぶん仲良さそうに喋ってたし」
「若葉あんた、見てたねっ」
ごめんなさあい、と彼女はくす、と笑う。可愛い子の笑い顔はいいものだ。
「何だもう男が居たのかよ」
不意にそんな低い声が、再び頭上から響いた。喋っていたので、背後から近づいていた奴に気付かなかったのだ。うーん、不覚。
「おや、遠山くんもお外でお食事?」
「ああそうだ。悪いか?」
「悪くないわよ。どーぞ」
おい森岡、と男ども三人はあたしを止めようとする。
「いいじゃない。五人が六人に増えてもそう変わる訳ではなし」
「それはそうだが…」
「だったらお前ら、どいてろよ。俺は森岡に話があるんだ」
「遠山!」
高橋が反応する。ふむ、導火線も短いらしいな。
「別に話はいいけれど。車の話だったら、今してたとこだよ。何を、あんたは聞きたいの?」
「車で、どこに行ってたんだ?」
「この子のお家があるとこ」
箸で金網越しの若葉を指し示す。ん、と若葉は目を細める。
「あんただって、あの時の騒ぎ知らない訳じゃないでしょうに。ちょっとしたつてがあったから、一週間などと言わず、一日で往復しましょう、と思っただけだよ」
「ふうん。それで何か収穫はあった、って訳か?」
「残念ながら」
なくはないけれど、まだ疑問は形になっていない。はっきりしないことを口にはできないのだ。
「でも何でそんなこと、聞くの?」
「そーだそーだ。俺だったら判るよね、森岡」
まああんたならね、とうなづくと、高橋はほれほれ、遠山に向かって手を振る。
「うるせぇよ高橋! だいたいお前も部外者だろ!」
「そう言ったら、あんたもあたしも部外者だよ。当事者なんていうのは、若葉ちゃんと、まあせいぜい、そこの松崎くんくらいだってば」
「じゃあ何でお前足を突っ込んでるんだよ」
遠山は顔をしかめる。
「うーん? 成り行き」
なりゆきぃ? と遠山は決して濃くはない眉を寄せた。基本的には薄い顔だから、突っ張りたいのは判るけど、いまいち迫力が足りない。
「成り行きだよぉ。だって、ねえ。道で知り合うなんて、そんな楽しい偶然、成り行き以外の何ものだって言うのよ」
「成り行きで、車なんか出させるのかよ」
「いけない?」
遠山は頭をかかえた。若葉は口に手を当てて、はらはらしながらあたしを見ている。
「だってさ、どこの管区にだって、どんな成り行きでどんな大きな爆弾が埋まってるか、なんて判らないじゃない。そうゆう成り行き」
あたしはそう言ってにやりと笑う。嘘は言っていないのだけどね。
「だから遠山くん、あんたも何を本当に知りたいのか、言ったんなさい」
「そんなものはねえよ」
言いながら、遠山はそれでもその場に座って、弁当を広げだした。
長めの髪、いー加減に着た制服。懐かしい感覚。
懐かしい。そう思うことは大事だ、とミキさんは言っていた。
あなたがそう感じたものを一つ一つ、きちんと自分の中で整頓するの。そうすればきっとそれはあなたにとっていい道しるべになるはずよ。
染め続ける赤茶の髪。小指だけ長く伸ばした爪。料理は苦手。あたしはこうゆう「同級生の男子」が好みだったのだろうか?
違うよな、と再び里芋と格闘しながら、心の中でつぶやく。絶対違うよ、と自分に言い聞かせる。何か違う。どっちかというと、あたしはもっと濃い顔の方が好きだ。
だけどどこか、それは「懐かしい」。
「じろじろ見てんじゃねえよ」
「だーれがあんたに」
松崎と若葉はそんなあたし達のやりとりに困っているようだった。高橋は大急ぎで弁当を食べ終えると、じゃまた後で! と言い残して風のように走り去っていった。
そして森田は変わらず黙々と食事を続けていた。