3 若葉曰く――― 村から人々が消えたとな
「…で、その日も、一日の仕事を終えて、家に戻ったんです。父がまだ帰っていなかったんですが… でも私が帰る程度の時間には、仕事で帰らないことが多い父でしたから、特に気にはとめませんでした。母と一緒に食事をとり… 私はその後少し家を出たんです」
「夜に?」
「兄貴のとこか?」
ええ、と若葉はうなづいた。
「ちょっと待て、では君はもしや」
「…はい、規ちゃんの… 規雄くんのお兄さんの、雄生さんと近いうちに結婚する予定です」
はあなるほど、と大人の女二人は、納得したようにうなづいた。
ちら、とあたしは松崎を見る。何やらあさっての方向を向いている。ふうん?
「しかし君、婚前交渉を行うなら、きちんとした対応をしておるのか?」
保健医は一見まじめな顔で彼女に訊ねる。即座に若葉の頬が真っ赤に染まった。
「…そんな! まだ私達、そんなことは…」
「冗談だ。だがよくそうやって夜に会ったりしているのか?」
「自転車に乗って、ちゃんと寝る前には帰ってきます!」
「あの自転車?」
あたしは口をはさんだ。え、と彼女はこちらを向き、そしてええ、とうなづいた。
「あれはあんたのじゃ、ないんだ」
「ええ、あれは父のです。父はあれでいつも村中を駆け回っているんです。うちの村はとにかく広いですから、歩きでは回れません」
だろうな、と松崎は思いだしたような声を出す。
「でもさ若葉、お前がそれ乗ってた、ってことは、親父さんは、歩いて行ける距離のとこに行ってたの?」
「さあ…」
彼女は首を傾げる。
「そこまでは… 何でこの時間に自転車があるのかしら、とは思ったんですけど、父の自転車の方が、重いですが速く走れるものですから」
「一刻も早く、恋しいひとのとこに行きたかった訳だ」
「…悪いですか?」
じっ、と大きな目がにらんだので、あたしはごめん、とひらひらと手を振った。
「ところがその日、彼の家に行ったら、何か様子が変で」
「兄貴が? って、お前どっちへ行ったの?」
「どっち、とは何だ? 松崎」
「先生、うちの兄貴は、村の試験場勤務で、ほとんど住み込みの様なものなんですよ」
「…試験場の方です。そっちの方がうちからも近いし… だから、夜勤になる時に、私いつも、夜食を差し入れに行ってたんです」
甲斐甲斐しいことだなあ、とあたしは感心する。絶対あたしにはできない。
「いつもの通り、彼に取り次いでもらおうと思ったんです。だけど、何か人がその日に限っていなくて…あたしはまあ、勝手知ったる場所だから、とそのまま上がり込んだんですが…」
そしてまた首を傾ける。
「やっぱり人気がなくて…」
「それは変? だってもう夜だから当直の彼以外いなかった、というのはないのか?」
生田は訊ねる。
「いえ、誰かしらいるんです。彼の担当している所以外にも、毎晩の当直が必要なところがありますし」
うーん、と松崎は眉間にシワを寄せる。
「花祭の日ですら、ちゃんと当直があったりしたよなあ…」
「花祭?」
あたしは松崎の方を見た。
「ああ、秋の終わりから冬に行う、俺達の村の伝統的な祭りでさ、夜通し踊り狂うの」
「げ」
失礼な、と松崎はまた眉間にシワを寄せる。
「すごい昔から伝わってる行事なんだぜ?」
「あ、ごめん」
ふうん、そういうのがあるのか。
「…だからその祭りですら、あの試験場は、当直を欠かしたことはないんだ」
「人がいなくなると、中の研究してる生物が死んでしまうかもしれない所もあると聞いてます」
それは試験場というより、研究所ではないのかい?
「だからまず、人がいないってことはないんです。だけど誰もいなかった。機械の音もしないから、何か怖くなって、…良くないとは判ってたけど、あちこちの灯りつけながら中に進んでいったの」
「よっぽど怖かったんだな、お前…で、兄貴はいたのか?」
「いたわ」
きっぱりと彼女は言った。
「雄生さんはいたのよ。灯りがついたから驚いて出てきたの。で、あわててそのつけた灯りを一つ一つ消しながら、私を自分の作業室へと連れてくと、私を部屋の隅の物置に押し込んで、真剣な顔でこう言ったのよ。『いいか、今から何があっても、出てくるんじゃない』」
「何だよそれ!」
松崎は声を荒げた。
「何が何だか判らないけれど、別に鍵がかかる物置じゃなかったから、訳が判らないままに、彼の言うとおり、じっとしていたの。そしたら」
「そうしたら?」
四人ともぐっと身体を乗り出す。
「…まもなくして、何かがたがたと外が騒がしくなって、ガラスびんか何かが割れる音とか、椅子が倒れた音とかして、彼が何するんだ、とか馬鹿野郎、とか叫んでるのが聞こえたの。出たかったけど…」
「出なかったんだ。お前は」
うん、と彼女は小さくうなづく。
「出ちゃだめだ、と言われていたし… 何よりまず、私怖かった。怖くて、何が起きてるのか判らなくて、出られなかったの」
それは仕方ないだろう。
「…しばらくして、静かになったけれど、やっぱり出られなかった。彼が灯りという灯りを消していったの知ってたし、…で、真っ暗だったこともあって、いつの間にか私、眠ってしまって…」
「気が付いたら、朝だった、と」
若葉はうなづく。
「物置のすきまから光が射してたんです。外が静かなままだったから、そうっと開けて… ひどいものでした。彼は几帳面なひとだから、いつも作業室もきちんとしているのに、めちゃくちゃに荒らされてて…」
松崎はち、と舌打ちをする。
「外に出たんだけど、やっぱり試験場には誰もいないし… よく見てみると、あちこちがやっぱり、彼のところと同じで、荒らされてるんです。私もう、何かどうしていいのか判らなくて、とにかく家に帰って、父に相談しようと思って」
「父親でも村長でも、相談する価値はあるな」
納得したように生田はうなづく。
「…だけど、帰ったら、誰もいないんです」
「誰も?」
松崎は問い返す。
「誰も。外泊してしまったから、心配しているだろう、ってことを思い出して。そうっと戸を開けたんです。でも静まりかえってて。もうこの時間だったら、台所に火が入ってるはずなのに、それもなくて」
「お前のとこのおばさんに限って寝坊はないしなあ」
「慌てて家の中を捜し回ったんですけど… 誰もいなくて。何かもう、私、怖くて怖くて、外に飛び出したんです。で、自転車こいで、隣の家に行ったんだけど、隣もいないし…」
生田と伊庭は顔を見合わせる。
「もうそうなると、どうしていいのか判らなくて、とにかく、誰かいないのか、って走り回って…仕事場に行けば、と思ったけど、誰も来ないし…村の放送が…お昼の音楽がいきなり鳴りだしたんで、役場に行ったんだけど、それは時間で仕掛けてあっただけだし…」
たぶんそれは村中の有線放送、という奴か、広場に流すようなものだと思う。あたしが見てきた色んな場所で、「放送」と言えばそのどっちかだった。
電話が必要なほど、一つの村が広い範囲にある場合は、「有線放送」だったりするし、狭い場合は、広場に拡声器を置いて、大きな音で流すというかたちだ。
「…二日、それでも探し回ったんです。だけど誰も帰ってくる気配はないし、夜は夜で、また何かあの時の、彼が抵抗してた誰かが来ても怖いから、灯りつけないで寝て…でも寝付けなくて…」
だんだんうつむき加減になった彼女は涙声になってくる。
ぽん、と女教師は何も言わずに彼女の背中を叩いた。
若葉はしばらく声を出さずに泣いた。
「…私どうしたらいいのか判らなくなっちゃって… 村の人しか知り合いはいないし、ほかの村の人に言っても、信じてもらえそうにないし…」
「管区警察は?」
彼女は首を横に振った。
「…一応、管警にも行ったんです。一番近いのは、新城だったから、そこの分署に」
「少し南にある、俺達のとこよりはでかい町だ」
松崎が補足する。
「逆に家出少女か、と言われそうになって、慌てて飛び出してきました。…その時、規ちゃんがこっちに来てること思い出して…家から食べ物持ち出してたんだけど… 昨日なくなって… 今朝は今朝で、パンクするし…」
「で、道中だったあたしと会った、って訳か」
「ごめんなさいさつきさん。ずっとお礼も言えずに」
「それはいいって… こういう時に冷静な方が妙だよ。それより、このひと、何だったらうちに泊めましょうか? 先生」
「私のところでも良いが…」
「でも先生がたも、ここの宿舎住まいでしょう? あたしのしばらく滞在するとこは結構広いし。大丈夫ですよ」
生田と伊庭は顔を見合わせる。
「それに、彼女がここに入ってきたのは本当はいけないんじゃないですか?」
「それはそうだが」
「だったら、学校の敷地にある先生の宿舎より、外のあたしのとこの方がいいですよ」
うーむ、と今度は松崎も含めた三人がうなった。
「…正直、そのほうがいいかもしれないよ、生田先生。私もあなたも立場的にはそう強くないよ。女職員だし」
「そうだな。じゃあ…」
あれ、と若葉の方を見ると、彼女はいつの間にか、すやすやと眠っていた。
*
「ガソリンは、そうそう簡単に手に入るものじゃないんだぞ!」
ハンドルを握る男は、苦虫を噛みつぶした様な顔で、うめく様な声を立てた。
「そんなこと判ってるもーん」
あたしは助手席で、地図をひざに、のほほんと頭の上で腕を組む。窓は全開。ばんばんに入ってくる風が何って気持ちいいんでしょ。
「だいたいさつき、お前、何だって俺の居場所知ってたんだよ」
「それは秘密です」
あたしは指を一本立てる。
「秘密秘密ってなあ、お前いつもそればかり…」
と彼はぶつぶつ言いながら、それでもあちこちが割れたり盛り上がったりしているアスファルトの上を、「できるだけ速く」駆け抜ける努力をする。
それもあたしのご要望だ。
何だって俺が、と言うのが彼のあたしに対する口ぐせのようなものだった。
実際、何だって彼に頼むのだろう、という気がしないでもない。手段は他にもありそうなものだが。
ただ、あたしの知り合いの中で、自動車を動かせる立場にあるのは彼しかいない。それだけだ。
「あ、次の看板で降りてよ。豊川I・C… 何って読むのこれ」
「あい・しー? じゃねえの? やだねえ高等生のくせに、アルファベットも読めないの」
「お勉強の学科には、入ってないもーん。必要ないしー」
ちら、と横顔を見る。
ったくこの野郎、とあたしではなく、でこぼこのアスファルトに向かって歯をむき出しにして悪態を吐く口は、人並みよりでかい。
口だけじゃない。目も鼻も眉も、これでもかとばかりに自己主張している。
黒くて太い髪は、朝櫛を入れたのかどうなのか、くせ毛の上に寝ぐせがついている。
着てるものときたら、お仕着せの半袖の綿の開襟シャツだ。夏と言えば、無地の水色のこれが彼の職場の定番らしい。似合わないことはなはだしい。
この人の顔と姿だったら、もっと濃い色の方が似合うと思うんだけど。もっとも当の本人は、何にも考えていないようだけど。
せっかくあたし的には「恰好いい」部類に入るんだから、もー少し何とかして欲しいと思うんだけど。
それに、だ。
「それよっか久野さん、あんた昨日風呂入ったの? 何か臭いよ。密室の悪臭はほとんど公害だってば」
「…るせぇなあ… 俺は昨日徹夜だったんだぞ。お前が東海管区警察本部に連絡してくるまで寝てたんだぜ」
「仮眠室で?」
「そうだよ、悪いか?」
「いんや」
「管警なんてのはなぁ~ 俺達特警には優しくなんかないんだぞぉ~」
「へえ」
「…しかも連中、皮肉たっぶりに俺に向かって言うんだぞぉ~『いいねえ若い者は仕事場まで彼女の連絡が来るのかい』って。…お前のどこが彼女だって言うんだよ!」
あたしは今朝も今朝でちゃんと毛抜きで細く整えた眉を両方上げる。
そらそーだ。話が通りやすくするためには、そう言ったほうがいいに決まってる。
ちょっと公衆電話口で泣き言言ったら、若い女が、やけにねちっこい声で、待ってておいでね、と言って、久野さんを呼びに行ってくれたようだ。だいたい言われるだろうことは想像もつく。やだねえ、大人ってのは。
「ああまた俺、管警に戻ったら言われるぞ。私用に貴重な自動車をガソリンを使ったって」
「私用じゃん」
「させてるのは誰だよ」
「何泣き言言ってんの、このおじさんが」
「誰がおじさんだ、俺はまだ二十七だ」
「あたしと十も違ってちゃ、じゅーぶんおじさんだよぉ」
けけけ、とあたしは笑う。
「でもさ、そんな徹夜して調べ物せんといけないって仕事は、今何なのよ」
「守秘義務って奴が俺にはある。それに別にそんなことは、日常茶飯事だ」
そう言って彼は胸を張る。
「ふーん、守秘義務。…守ったためしなんか、ないくせに」
「お前が悪いんだろお前が! 俺だってお前以外には守ってるわ!」
あたしはにやりと笑ってそれには答えなかった。
彼、久野雅之は、中央政府内務省に所属する特警――― 特別高等警察の刑事だった。